大分県日田市 大波羅八幡宮にある小ヶ瀬井路の碑から抜粋編集
塩谷郡代は、(かねてより念願であった井路の開削について)中城村の二人庄屋 博多屋久兵衛・弁屋忠右衛門に
工事計画の策定を命じた。 二人は田島村庄屋と共に以前の計画絵図を調べ、実地調査もし、残る十一ヶ村の庄屋とも相談した上で
工事に着手するよう郡代に進言した。 こうして新井堰・井路の事業が文政6年(1823)4月20日に始まると、
それらの計画に賛同する[十三ヶ村]の庄屋・組頭・百姓代が連印の書附を以て計画の実行を日田御役所に願い出たのは、
文政7年2月のことであった。 そして翌3月初めから本格的工事が開始され、
久兵衛と忠右衛門が中心となって事業を推進し、工事現場の宰領は竹田村の魚屋長八が勤めた。
源ヶ鼻から現在の田島専念院下までの約2.2kmの間が工事の中心を成し、水路を通すため隧道掘削がその大部分を占め、
特に源ヶ鼻の岩盤は堅く一日に僅か2〜3寸しか掘削出来ない難工事であった。
また、会所山の隧道工事は酸欠や落盤事故で辛酸をなめ、竹筒で空気を送り、土砂搬出用の隧道を堀り、
また、隧道の両側に石垣を造りその上に平石を置き、あるいは合掌式に組み合わせて落盤を防いだ。
山すその隧道では明り取りの穴を掘り、平地では土地を潰さぬため水路を暗渠にする工夫もした。
この小ヶ瀬井路の工事には、雇われた石工・石組師・大工・雇いのほか、十三ヶ村はもとより
日田郡の他の村々から割り当てられた農民が人足として働き僅かながら賃銭も支給された。 人足は多い時には1日に
200人以上出て、定められた分担区域で働いた。 日田御役所の役人もまた、ほとんど毎日交代で工事現場を巡視した。
人件費や材料・器具の購入費は十三ヶ村の出資と隈町・豆田町及び日田郡の篤志家の寄附金でまかなわれ、
御役所からの補助の有無は明らかでない。 突貫工事により、文政8年(1825)4月20日貫通通水した、しかしなお
竣工までには数年を要したと言われるが、この井路により十三ヶ村の水掛高は米にして約1300石増加した。
天保11年(1840)隈町の山田作兵衛(500両)豆田町の廣瀬久兵衛・草野忠右衛門(各250両)の寄付金千両を基金とし、
利子と十三ヶ村の負担金で、その後の、井堰・井路の修理保全がおこなわれて来た。 現在は、九州電力株式会社との
協定により、昭和12年からサイフォンによる安定した水量が確保され、度々の修復に苦しんだ井堰も不要になった。
なお、十三ヶ村とは、上井手・下井手・刃連・田島・竹田・庄手・堀田・城内・中城・陣屋廻・十二町・友田・渡里である