千町無田開拓の歴史は 明治22年(1889)に起きた筑後川の大洪水で 土地を流された筑後平野の人々から始まる
彼らの先頭に立って千町無田への移住と開拓を持ちかけたのは 元・久留米藩士の青木牛之助であった
大水害から5年後にようやく開拓の許可が出て 10年かかって開拓した
現在の飯田高原は 九州酪農のメッカであると同時に阿蘇を含めた一大観光地となった
『豊後風土記』によれば「昔、九重高原の中心部に、浅井長治という長者が住んでいた。 この人は別名「朝日長者」とも呼ばれ、
後千町・前千町の美田を幾千人もの使用人に耕作させ、贅沢三昧の生活をしていた。 ある時、祝いの席で、長者は鏡餅を的に
弓矢を射る遊びを思いついて、自ら矢を放った。 すると鏡餅の的は白い鳥に変わり、南の彼方へ飛び去ってしまった。
これを期に、この土地ではコメがまったくとれなくなって、長者一族は没落し、人々は天罰とうわさした。
そして千町の美田は、不毛の荒野と変わり果ててしまった」と著され 今でもこの地には 長者原(ちょうじゃばる)や
千町無田(せんちょうむた)などの地名が残っており 白い鳥が飛び去ったとされる場所には白鳥神社が祀られている
千町無田は 筑後川の源流域で標高約 900mの飯田高原の北東部に位置し 火山灰を由来とする黒ボク土土壌の盆地である
ネット上で「朝日長者伝説と土壌肥料学」という独立行政法人農業環境技術研究所の記事を見つけた
面白いので概略を記す 本文は<https://www.naro.affrc.go.jp/archive/niaes/magazine/099/mgzn09908.html>
黒ボク土水田である千町無田は リン酸の固定力がきわめて強い土壌群に属することから 水稲のリン酸欠乏を起こしやすい
古代における肥料を考えるとき「野鳥の飛来による糞のリン酸供給」を考えれば 次のような論式が思いつく
『渡り鳥の飛来が多くリン酸を供給 → 米の収穫が多い → 鏡餅の的に矢を射かけると白鳥となって逃げた(食用として野鳥を乱獲)
→ 野鳥の飛来が激減して水稲のリン酸欠乏が起きる → 急に収穫が激減した』
江戸時代に日田代官所の管轄・天領となり 幾度となく開拓を試みたが いずれも失敗に終わっている
明治になって再び開拓団が入植したが 当初は稲の育ちが悪く「朝日長者の祟」と思える程悲惨な状態であった
千町無田が 朝日長者時代の美田に変化したのは 第二次大戦後からである 黒ボク土とリン酸の関係が料学的に解明され
水田に十分なリン酸肥料が施されるようになって 水稲の収穫量は飛躍的に向上した
さらに水稲苗の根に過リン酸石灰をまぶして移植する「根付リン酸」という施肥法が考案され 収量が一層高まり
昭和30年には「米作日本一九州ブロック増産躍進賞」を受賞するまでに至った