2024.04.13 大分県豊後高田市加礼川(かれがわ) 屋山(ややま) 標高 543.3m

屋山という山名は 全体が屋根の形をしていることに由来するとされている また弥山とも書くことから
仏教の宇宙観にもとづく須弥山(しゆみせん)を具現化したものとも考えられ 弥山(みせん)が屋山に
変化したとも思われる その他に八面山の別称もある これは西側からは衝立のように
南北方向からは三角形に見え 方角によって山容が異なることから付けられた名である
特に南側の都甲(とごう)地区から見る姿は 遮るものもなく美しく見えることから高田富士と呼ばれている
山の北側に広がる奇岩秀峰は鬼城耶馬と呼ばれ 北端崖上「ショウケが鼻」からの眺望は絶景といわれる

16世紀前期に長安寺の伽藍跡に屋山城が築かれ 山頂尾根には城郭が連なり空堀も備えられていたと伝わる
天正7年(1579)に 大友氏の家臣で都甲を支配していた吉弘統幸によって 大改修されたことが記録に残る

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P.長安寺登山者用駐車場 1.林道終点広場 2.屋山城主郭跡・金毘羅宮 3.石造高灯籠 4.屋山城址之碑
5.ショウケが鼻 6.長安寺シャクナゲ園 7.身濯神社(六所権現) 8.長安寺本堂
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標高グラフ
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10:40 登山道は長安寺境内を通る
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赤いノムラモミジと赤い西洋シャクナゲ
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春のシャクナゲとモミジの新緑 春と秋ともに美しいと思える境内の景色
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境内最上部の標識
林道の登り道
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等高線に沿う平坦路
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林道終点の掲示板 「屋山城跡」
屋山城は、六郷満山・長安寺の伽藍の上に築かれた連郭式山城で、戦国武将・吉弘(よしひろ)氏の居城でした。
急な坂道を進むと、数十メートルにも及ぶ長大な竪堀を備える屋山城の虎口(こぐち)が待ち構えています。
そこから尾根に沿って400mほど城趾跡が続き、数段に分かれる郭(くるわ)や2本の堀切など、城を守る仕掛けが
残っています。 終点に突き出たショウケが鼻からは、都甲(とごう)地区にとどまらず西国東地区全体が一望でき、
豊後の西の要としての屋山城の姿がよみがえります。
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林道終点からの展望 左右に横切る都甲谷の奥に内山・鶴見岳・由布岳を遠望
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11:08 ここから急勾配の登山道
林道終点の車両転回場 籠に貸し杖
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左右に竪堀のある直登部
火山性の岩が多い山
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溶岩が冷えて固まった安山岩
山頂南端部に到着
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山頂南端部の切り拓かれた場所
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豊後高田市地籍図根三角点
堀切(空堀)
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11:30 屋山山頂 屋山城主郭跡の金毘羅宮
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先年の地震で崩壊したか 祠の石屋根と灯籠
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二等三角点 標高:543.38m 点名:屋山
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山頂北端を目指す
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明治10年(1877)加礼村の河野貞八翁 家運長久・四海平穏を祈願して建立
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先日登った標高 458.2mの猪群山
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11:39 屋山城址之碑 陸軍大将南次郎書(国東郡高田町出身 戦後A級戦犯・終身刑に処される )
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11:40 「ショウケが鼻」として勘違いした広場 帰宅後の調べでは まだ先の断崖絶壁上らしい
足がすくむ所らしいが 秋にリベンジするか 遠方に見える両子山からこっちを見るか思案のしどころ
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並石(なめし)ダム 昭和60年(1985)竣工のロックフィルダム 「並石=ナメシ」はかなりの難読地名
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猪群山(いのむれさん)・尻付山(しりつきやま)・ハジカミ山
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真玉川河口・真玉海岸・猪群山
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都甲川・豊後高田市 八面山 奥に北九州福智山系の山々
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県道29号豊後高田国東線と都甲川
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豊後高田市地籍図根三角点
国土調査 図根三角点
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並石ダム
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標高 720.6mの両子山(ふたごやま) 左は文殊山(もんじゅさん)標高 616.0m
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12:10 下山開始
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風の強さを感じる東から西へ傾く生木と倒木
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林道終点広場に到着
広場にも地籍図根三角点
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12:44 林道 右側は長安寺境内の若葉萌えるモミジ
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長安寺シャクナゲ園からの眺望
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長安寺境内の登山道
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13:07 身濯(みそぞぎ)神社の拝殿
身濯神社の神殿 明治以前は六所権現
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長安寺本堂
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本堂前の眺望 御許山と雲ヶ岳を遠望

13:42 駐車場へ戻る 県道29号・548号のアクセス林道を経て 並石ダムへ

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14:08 並石ダム堰堤上から屋山を見る 右端がショウケが鼻
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