2023.04.09 大分県中津市山国町中摩 妙見岳・一ツ戸城址 標高 364.4m
一ツ戸(ひとつど)城址・鳶ケ城(とびがじょう)の景 国指定名勝耶馬渓
建久6年(1195)に築城された一ツ戸城は、国道212号線の耶馬溪町と山国町との境にある標高364.5mの
断崖上に築かれた堅固な山城で、代々の城主は仲間氏であったが、元和元年(1615)徳川秀忠の一国一城令により
取り壊され廃城となる。 右手の町道を300m位上ったところから(神谷側)登山道が整備されている。
登りきれば、頂上近くの雑木林の中に主郭、石垣、矢穴痕のある石、曲輪等の跡や古瓦の破片も落ちており、
城跡であったことをうかがわせる。 左側には、同じような山の形をした岩山があり、山上には鳶ヶ城という支城が
構築されていた。 これは、のろし台として使われていたという。 かつての一ツ戸集落は、城下町として栄え、
廃城から一ツ戸隧道が開通するまでは、宿場町として賑わいを見せていた。
その一ツ戸隧道については、一ツ戸城が建つ妙見岳が山国川にせり出し、川渡りをしなければならない
交通の難所だったために岩山を掘る隧道(トンネル)工事が行われた。 日田代官羽倉権九朗秘救(やすひら)と
山国町中摩・耶馬溪町宮園の村人の手で行われ、14年の歳月をかけて文化2年(1805)に貫通したものである。
今は、その一部が残っており、当時を偲ぶことができる。
※曲輪…城・砦などの周囲にめぐらした囲い。城郭。※矢穴…石工がノミで穴を開けて石を割った痕跡を持つ石。
中津市教育委員会
掲示板の山名には「妙見岳」・山頂標識などでは「城山」「一ツ戸城山」どれが本名?
6.一ツ戸城址・鳶ケ城の景 掲示板 7.鳶ケ城跡 8.一ツ戸洞門 9.頼山陽八景一ツ戸の景 10.沈下橋
日田往還 中津街道 一ツ戸洞門
<掲示板より転載 一部編集>
日田往還は、別名「永山布政所路」と呼び、日田が江戸幕府の直轄地であり、西国統治の拠点であった時期に、
日田から九州各地へ放射状に伸びていた陸上交通路の総称である。
その路線数は枝線や迂回路の数え方によって増減するが、文化元年(1804)に刊行された
『豊後国志 日田郡志路程条を参照すると、以下の6路線が記されている。
1.豊前国宇佐宮路、中津城路。 2.彦山路、小倉城路。 3.筑前国宰府路、福岡城路。 4.筑前国高良路、久留米城路。
5. 肥後国阿蘇山路、隈府路、熊本城路、岡城路。 6.玖珠郡森営路。
この場所を通る古道は1のうち中津城路(中津街道)に相当し、この道が担った機能は極めて複合的なものである。
幕政や藩政を維持するための政治行政的な機能はもちろんのこと、内陸地である日田においては、
塩分や海産物を得るには沿岸部との交易が不可欠であり、そのような物資の移動にも河川舟運と並んで
日田往還が大きな役割を果たした。 また代官所と密接な関係を持ち、
九州一円に商圏を構築していた日田商人の活動にも、日田 往還は欠かせない存在であった。
そのため彼らは石坂石畳道に代表されるように、代官所の意向を汲んで道路の改良に私財を積極的に投資した
ーツ戸洞門(隧道)
江戸時代に天領日田と中津城や宇佐四日市を結んだ日田往還(中津街道、またの名を永山布政所路)は、
当時の高速道路のような役割を果たしていた。 近世以前よりあった里道とは別に、代官所の普請命令によって
大規模な土木工事が次々に行われ、途中の集落を無視して険しい山間の渓谷筋に直線的な路線が形成されていった。
※経済的な中津街道とは別に、地元では「代官道」と呼ばれる行政路が存在し、一般庶民の通行を禁じていた。
ここ一ツ戸周辺は日田の石坂石畳道とともに、そうした大規模な道路工事の跡を今に残す区間である。
江戸前期には、中摩から山国川を渡って庄屋村に至り、再び一ツ戸集落に渡るジグザグ経路の難所であり、
ひとたび川が増水すると交通が杜絶してしまっていた。 中世に洞門の上にある妙見岳に一ツ戸城が存在したのも、
下郷方面と山国方面が一望に見渡せる立地にあったことと、山国川を堀に見立てた天然の要塞として、
戦略的価値が高かったためと考えられる。この交通上の隘路を解消するため日田代官所では
地元の村々に普請を命じ、 代官羽倉権九郎の代である文化2年(1805)一ツ戸の洞門と
宮園の洞門(今は撤去されて存在しない)が完成した。 これにより下郷から宇曽までは渡河の必要がなくなった。
洞門の開通後にこの地を通った頼山陽は「山腹を撃って道とし、側を穿って明りをとり、
私は松明を買って中に入り、明り窓から川面に映る月を見る」と記している。
この明り取りの窓は元来7ヶ所あったが、国道の一ツ戸トンネル掘削の影響で今は二つだけ残っている。
一ツ戶城跡(中津市指定史跡)
中摩郷に築かれた中世の山城 友杉民部が鎌倉時代の建久3年(1192)に築城したとされる伝承があるが
南北朝時代の西暦1379年(北朝:康暦元年・南朝:天受五年)に大内義弘が豊前守護となって後 友杉民部が
地頭に任ぜられ築城したとするのが妥当である 友杉氏は 後に中間・大江・一戸などの家名を名乗った
天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定後 黒田孝高(官兵衛)の豊前国入に際し
城主の中間統胤は官兵衛に従ったため 官兵衛は一ツ戸城を黒田の出城とし統胤に黒田の姓を与え城番に任じた
慶長5年(1600)黒田氏が筑前福岡に転封された際 中間氏もこれに従い居城を去った
黒田氏のあと中津藩に移封した細川氏の出城となったが 元和元年(1615)に徳川幕府が発した
「一国一城令」により破却された 下毛郡内で最後まで残った城であった 城跡には石垣・曲輪・石段・竪堀等の
遺構が見られ 山城としては珍しく瓦も出土しており 大手門が瓦葺きであったと推測されている