2023.01.05 福岡県朝倉市堤 大平山(おおひらやま) 標高 315m

朝倉市役所の北東部にある大平山は 市街地に近く旧甘木市民が好んで散策する山である
登山口となる甘木公園からは山頂を望めないが 山頂からは公園に隣接する市役所を眼下に眺めることができる
山頂一帯と東に続く安見ヶ城跡は公園化され 大平山頂には展望台が設置されている

安見ヶ城(やすみがじょう)跡の掲示板から
安見ヶ城は休松城とも言われ 日向石・下渕・柿原にまたがる尾根山にあり 標高315mの大平山頂上から
東へ約800mの標高299mの尾根山上に築造された中世期・秋月氏の山城であった
戦国時代の永禄10年(1567) この城に陣を張った豊後の大友宗麟(義鎮)の部将達に対して地元秋月勢が
夜討ちをかけて撃退した「休松夜戦」の戦場となったことは有名である
当時の筑前で勢力を広げていた秋月氏は 弘治3年(1557)に大友氏に攻められ 古処山城は落城し
秋月文種(種方)は敗死 その子種実(12歳)は難を脱して中国の毛利元就の下に逃れたが
永禄年代初期には毛利氏の援助を得て秋月に戻り その勢力を回復した 筑前の支配を目論む大友氏は
永禄10年(1567)秋に再び2万の兵をもって秋月を攻めた 秋月勢は秋月南西の安川でこれを迎え撃ったが
さらに攻められ 秋月の城を引き上げて急峻な古処山城に籠もった 大友勢の主力は短期戦をあきらめ
いったん南へ引いて陣を構えた 先陣の吉弘鑑理が道場山に 同じく臼杵鑑速が福嶽城に そして安見ヶ城には
大友勢の中でも勇猛で聞こえた部将の戸次鑑連(後の立花道雪)が後陣を構えた
これら山城は もともと秋月氏が豊後・筑後方面に備えるために造った山城であった
秋月種実は毛利氏へ援軍を要請 その援軍到来の噂が流れる旧暦9月3日 嘗ての山城を熟知する数千の秋月勢が
大友の陣に夜襲をかけた 慌てた大友勢は大混乱を起こし 後陣であった安見ヶ城に逃げ込んだ者達は
敵の秋月勢と間違われ 同士討ちにされる者が多数生じたと伝わる
この戦いの後 大友勢は筑後へ退却し 秋月氏は豊臣秀吉の九州平定までその故地に再興を果たした
戦いでは双方ともに多くの人命が失われ 地元の人々が 秋月から日向石・柿原・三奈木にかけて戦死者を
埋葬した塚や その供養のために建立したと思われる石塔などが今も多く残されている
この山の尾根からは 古処山から耳納連山まで 当時と変わらぬ山並みを見渡すことができる
記載内容は 貝原益軒著「筑前国続風土記」による

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1.標高171mの展望所 2.標高315m 大平山々頂 3.標高299m 安見ヶ城山
公式サイト 甘木公園案内図
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標高グラフ
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パン工房クルールでランチ用パンを購入
11:10 登山開始
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甘木公園駐車場
公園の遊歩道
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丸山池 デッキ
2号トイレ横の登山道
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くたびれた墨書きの道標
展望広場への散策道①に入る
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上り道の散策道
階段を登って
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芝生の展望広場に到着
11:33 広場最上部の登山口
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標高171mの展望所から甘木市街地を俯瞰 左下に朝倉市役所(旧甘木市役所)
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展望広場
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貸し杖も備えられている
ここから公園外の登山道
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尾根歩きの旧登山道分岐
無理は禁物 迂回路の新道へ
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整備された広い遊歩道
スズメバチの巣跡
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ウラウメ分岐 大平山は直進 裏梅は堤の小字と思われる 下ると「デイケアセンター うらうめ」がある
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ヤマモモの大木
ヤマモモの根元
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尾根西北側の日陰道
12:00 持丸・西谷霊園への分岐
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右へ旧登山道あり
新旧で100mの差?
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大平山まで15分
山頂まで500m
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山頂は左 直進は遊歩道
尾根筋に出る
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12:17 山頂
標高315mの三角点
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山頂展望台から甘木市街地展望 画像サイズ 2267x660 pix
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正月明けで Pm2.5が一挙に増加
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12:45 東800mの安見ヶ城山へ
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藤棚
通行止めの地図は?? 全然違う場所??
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下り階段 これが通行止めかと思った!
安見ヶ城山まで200m
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安見ヶ城山まで130m
最後の急登
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大平山展望所を遠望
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安見ヶ城山から市街地展望
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13:05 安見ヶ城山々頂
標高 299mと明記
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大平山へ戻る
滑りそうな坂を慎重に下る
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大平山に登り返し

標高170mの展望広場から舗装路の遊歩道を下り駐車場へ

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甘木公園内を通り 駐車場到着 14:23
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