2017.05.11 大分県中津市本耶馬渓町東屋形 八面山(はちめんざん) 標高 659.2m
八面山は 卓状溶岩台地(メサ)の特徴的な山容を持つ 中津市を代表する山である
山麓で矢竹を産することや その姿から地元では「ややま」(箭山または屋山)とも呼ばれている
メサ<mesa>とは 上部に硬い水平な地層が その下部に柔らかい地層がある場合 下部の地層が先に浸食され
上部の硬い地層を残して急崖を形成し 結果的にテーブル状の台地となったもので「卓状台地」とも呼ばれている
地質学におけるメサの呼び名は 机やテーブル・食卓などを表すスペイン語の<Mesa>が語源である
一般的には主に乾燥地帯に発達する地形で アメリカ合衆国西部のモニュメント・バレーなどが有名であり
さらに浸食が進むと ビュート<butte>と呼ばれる孤立丘となることが知られている
大分県北部の国東半島から耶馬渓を経て 福岡県との境にそびえる英彦山にかけての山岳地帯は
新第三紀の 2500万年から180万年前頃に 岐阜・石川県境の白山から長崎の雲仙岳に至る
広大な大山火山帯に属する火山群によって噴出した 安山岩や玄武岩などの火成岩や火山灰が堆積して固まった
規模としては日本一の 凝灰岩などから成る熔岩台地が広がった その後 この溶岩台地は地層変動や
水流による侵蝕作用を受け 域内に多くのメサやビュートが形成されたといわれている
中津市の八面山は 台状地形のメサで 西方にある犬ヶ岳や鷹ノ巣山・英彦山はビュートである
1.箭山神社・天狗落し 2.第5展望地 3.第4展望地 4.第3展望地 5.八面山々頂(659.2m)
6.第2展望地 7.第1展望地 8.和与石 9.夕日を望む丘
2012.10.18 三光コスモス園から見た中津のシンボル「八面山」
四方八方どの方向から見ても同じような形に見える山であるため「八面山」の名が付いたといわれる
地元の各学校々歌には ほぼ例外なく「八面山」「箭山」が謳われており 子供の頃から校歌を通じて
八面山を仰いできたため 地元の「母なる山」としての愛着は格別である
山頂からの景観は 日本夜景遺産に選定されているほど非常に良好で 山頂へのアクセスも便利である
山上は平坦で 標高500m付近に貯水量33万トンの灌漑用大池がある
最初の開削は大宝年間(701-704)と伝わり 龍女伝説などが残されている
日田から国道212号線で本耶馬渓町へ 渋見トンネルを抜けたところで県道697号渋見成恒中津線に入り
途中の三叉路を直進して金色渓谷入口・箭山権現石舞台を経由 八面山登山道路に出て右折し山頂を目指す
日田市内から 標高500mの箭山神社上宮パーキングまで車で約50km 登山というより散策が目的の山
箭山権現石舞台
八面山は別名箭山ともいわれ、その昔、山岳信仰が盛んで山頂には神功皇后を祀る箭山神社がある。
八面山の天和縁起によると、八面山は八幡皇大神(応神天皇)の御遊行の霊場で、応神天皇の御母、
神功皇后の霊が大明神として出現した霊験あらたかなところで、古くは山頂に堂社や仏閣が数十棟建ちならび
多くの寺僧や社官が仕え大いに繁栄していた。また、京都で戦に破れた足利尊氏が九州に下り、宇佐神宮に
詣でたとき、この巨石に上って箭山神社に武運長久を祈願したとも伝えられ、信仰の神として崇められた。
慶長元年(1596)沖代平野一帯に大旱魃が起き、農民が箭山神社へ雨乞いを祈願し、
この石を舞台として、現在も田口地区に伝わる御子神楽や千歳楽(国盛楽ともいう)を奉納したところ
願いがかなって雨が降り、五穀豊穣に恵まれたと伝わることから、石舞台の名がつけられた。
石舞台の大きさは、縦19.3メートル、横13.0メートルで、その面積は250.9平方メートルある。
また、円周は57.5メートルある。推測される岩の大きさは下部が埋没しているため、全容が解明できないが
露出部分の最も高いところで7.2mある。ちなみに面積を坪数に換算すると76坪、畳数にして152枚となる。
畳一枚に18人が立ち上がれるとすると、2736人が一度に上がれることになる。
八面山々頂の散歩
八面山の名水(飲料不適)
この水は箭山(やゝま)の一の滝(九合目)左横の岩穴の湧水で、古来より人々の招福に用いられた聖水として
尊ばれて来ました。旧豊前国東田口村庄屋、田口萬之助翁は旧正月の早朝に一の滝にて禊を行い
祈念採水したのち氷として保存し、中津藩主奥平候に献上したと伝えられています。
又、一の滝付近で天然氷を製造し八面山氷として、当時の人々の要望にこたえ喜ばれました。
現在も古式により採水した水を保存のため氷にして、
毎月の修法祈念を厳修して、八月十六日の八面山火祭にこの聖水を布施しています。
八面山・箭山神社
八面山は標高657.4メートルでどの方位から見ても同じ姿であるので八面山という。
また昔、この山に箭柄竹(やがらだけ)が多かったので俗に箭山ともいう。
箭山神社は、宇佐神宮の祖宮である薦神社の奥院にあたり、八幡神(神功皇后・応神天皇・比売神)がご鎮座。
縁起に「大宝元年(701)2月15日法蓮当山を開く」とあることから、英彦山・求菩提山につづく
修験道場のひとつであったといわれている。縁起及び古老のいい伝えによれば、昔、この山はとても栄えていて
堂社・寺院が数十宇あり、寺僧、社官が多数仕えていたが、天正年中、大友勢の兵火により坊舎を焼かれ
その火は山上におよび社殿・堂宇をことごとく焼き尽くしたという。
東南端の三角点を「しょうけのはな」といい甚だ険峻で耶馬・久住連山の眺望は実に雄大である。
また神社裏手の「てんぐおとし」の断崖絶壁は立つ者を慄然とさせるが
眼下に拡がる豊前平野・周防灘、国東半島等の遠望はまことに絶景である。
中津市教育委員会
荒田川源流の小池
山頂・しょうけの鼻 12:10
「しょうけ」とは 漢字で書くと「背負笥」となり 意味は「背負い篭」のことである
昔 ここに大鬼がいて悪さをしていたが 薦の八幡神が策をもって鬼退治をした際 逃げる鬼が背負笥を投げ
それが八面山に引掛かった 後に安心して暮らせるようになった里人達は「背負笥の鼻」と呼ぶようになった
車道から遊歩道の大池探訪コースに入る
和与石(八面山縁起による)
大宝元年(701)八幡大菩薩が衆生済度のため如意宝珠(一切の願いごとがかなえられる)を英彦山権現より
賜ろうと思い、宇佐の小倉山から英彦山に行った。
そこへ法蓮(八面山開基の僧にあって、当時英彦山で修行)が来て「私はまだ宝珠を見たことがない」という。
権現が珠を見せようと法蓮の前に置くと、八幡に奉仕する翁が出て来て珠は私に渡してほしいといって、
欺いて持って逃げたので法蓮は大変怒り「諫山郷南の高山(箭山)まで追いかけ大菩薩を大声で問責すると
その声が伊予の石槌山まで聞えた。大菩薩は金色の鷹となり金色の犬(翁)を召しつれて飛んで帰って来た。
そして八面山の大きな岩の上で話しあった。「私は八幡大菩薩である。私に宝珠を渡すなら、
宇佐に乗迹のときは、神宮寺別当に任ぜよう」というので法蓮は和与(和解)した。
そして八幡は永く宝珠を得ることができ、 法蓮も神宮寺の別当となった。
この話しあいをした大きな岩を、和与石と呼んでいる。
中津市教育委員会
和与石から車道を歩き奇岩怪石の「修験の滝探訪コース」へ
修験の滝(一の滝)
滝をなすこの川を、昔は祓川(はらいがわ)と呼んでいた。それは神仏を礼拝する時、
この川の水でみそぎ(身体を洗い清めること)をしていたからである。
山伏は、強靭な精神力を養うため、凍りつくような酷寒のときにも、
この滝にうたれたり、滝つぼの氷結の上に座したりして、厳しい修行をしていたという。