2019.01.15 兵庫県南あわじ市 福良町並と灘黒岩水仙郷

1/14〜19まで5泊6日の予定で車中泊の旅 九四フェリーで四国へ渡って三崎港から四国を横断し
大鳴門橋で再度海を渡り淡路島へ 南淡路島の福良・灘黒岩水仙郷・由良・洲本を巡り再び徳島へ戻る
土柱から脇町・高松を経て 坂出から瀬戸大橋を渡り山陽路を九州まで帰る旅
1月14日 国道九四フェリー
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大分市佐賀関出港 11:00 遊なぎさ丸
佐賀関港沖合
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佐田岬半島
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佐田岬と高鼻
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愛媛県伊方町三崎港 12:10
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愛媛県伊方町大久 国道197号佐田岬メロディライン 大久展望台からの眺望
八幡浜市保内町宮内から 国道378号「ゆうやけこやけライン」に入り松山を目指す
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愛媛県大洲市長浜町沖浦 松笠の浜
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道の駅ふたみで休憩 県道23号伊予川内線で松山市を迂回 国道11号で四国中央市の三島川之江ICから
徳島自動車道へ入り徳島県の上坂SAには午後6時15分に到着し そのまま車中泊する
翌朝 上坂SAを午前6時15分に出発 淡路島南ICで高速道を下り 道の駅福良到着は午前7時30分
灘黒岩水仙郷の開園が午前9時なので 福良の旧市街を散策し時間をつぶす ただし天気は下り坂
福良湊
福良浦は 潮の流れが早い鳴門海峡から入り込んだ福良湾内にある天然の良港である
大化2年(646)の「大化の改新」によって畿内より伊予・土佐に至る南海道が整備されると
紀伊国加太浦と淡路国由良浦及び淡路国福良浦と阿波国撫養浦の間で通船が開設され
由良湊とともに畿内と四国を結ぶ海上交通の要衝となった
近世には 吉野川北岸を阿波池田まで通じる撫養街道の一部として機能していたが 近代化に伴い阪神間から
撫養への直結航路が開かれ 明治15年(1882)から撫養−阪神間の汽船が福良港へ寄航するようになった
明治33年(1900)高知−大阪間に大阪商船(関西汽船前身)が就航し福良港への寄港が開始された
明治40年(1907)福良−撫養間に福良汽船(後・阿淡汽船)が就航して
昭和29年(1954)には 自動車の普及により徳島県営フェリー(後・鳴門フェリー)が就航したが
昭和60年(1985)の大鳴門橋開通によりすべての定期旅客航路が廃止された
遡る昭和31年(1956)に 南海観光汽船により和歌山−小松島航路が開設されており
その後 南海汽船から南海フェリーとなって 現在まで和歌山−徳島間の直結航路として存続されている
江戸時代を通じ淡路島の大半は徳島藩の支配下にあったが 明治9年(1876)に兵庫県の管轄となった
明治22年(1889)福良浦単独で徳島県三原郡福良町となり 昭和30年(1955)南淡町に統合
平成17年(2005)平成の大合併で 南淡・緑・西淡・三原の4町が合併し南あわじ市が発足した
現在・福良港は鳴門観潮の観光船発着港として利用される他 貨物港・漁港としても利用されている
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嘗て淡路島には 洲本−福良間結ぶ淡路鉄道(後・淡路交通)があり 大正3年(1914)に設立されている
大正11年(1922)に洲本口−市村間が開通し 福良までの23.4kmが全通したのは大正14年(1925)であった
昭和22年(1947)に電化工事を始め 翌年に南海電鉄から購入した電車の運行を開始 その後も運行の改善に
努めたが モータリゼーションの波及により経営が悪化 昭和41年(1966)9月30日に全廃された
当該路線は改正鉄道敷設法別表第87号「淡路國岩屋ヨリ洲本ヲ經テ福良ニ至ル鐡道」の一部をなしていた
昭和28年(1953)には 別表第86号ノ2に「兵庫県須磨附近ヨリ淡路国岩屋附近ニ至ル鉄道 及福良ヨリ
徳島県鳴門附近ニ至ル鉄道」が追記され 本四ルートの一つ「本四淡路線」の一部となったが
具体化する前に当路線は廃止となった その後本四淡路線は昭和48年(1973)の本四架橋の基本計画で
新幹線規格のみでの建設とされ 事実上四国新幹線に計画が吸収されたが 大鳴門橋が鉄道敷設を仮定した橋で
建設されたが 明石海峡大橋は 予算削減で道路専用道となったため 本四鉄道は瀬戸大橋線のみとなっている
道の駅に車を駐めて福良を散策
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築地川
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福良商店街
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住吉神社
福良八幡宮
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福良八幡宮 神門
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福良八幡宮 拝殿
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福良八幡宮 神殿
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福良八幡宮 拝殿
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福良町かどサロン「明王楼」 遊郭跡か
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淡路しまうた なんでしょうか?????
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回漕店とは 江戸時代から明治にかけて活躍した船問屋 福良には今も数軒の回漕店がある
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道の駅に戻り 灘黒岩水仙郷へ
灘黒岩水仙郷
島の最高峰・標高608mの諭鶴羽(ゆずるは)山の 約7haにわたる南斜面に約500万本の野生水仙が咲き乱れる
江戸時代の文政年間(1818〜1831)に 対岸の紀州から漂着した球根を
黒岩の漁師が山に植えたものが自然に繁殖したとされている
ニホンスイセンは 中国から海を渡って来たと推測され 淡路島・越前海岸・南房総の海岸傾斜地が
『日本三大群生地』とされている
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駐車場からの全景 トイレから右半分以上は立ち入り禁止
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約45度の急斜面は高齢者にはキツイが 訪問客は大半がそういう人達
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ニホンズイセン 学名:Narcissus tazetta L. var. chinensis
ヒガンバナ科 スイセン属(学名:Narcissus)には色や形の異なる種や品種が多いが
この属に含まれる植物を総称してスイセンと呼ぶ 狭義ではフサザキスイセン(学名:Narcissus tazetta)や
その変種であるニホンズイセン<Narcissus tazetta var. chinensis>をスイセンということが多い
原産地は 主にスペインやポルトガルを中心とした地中海沿岸地域から北アフリカまで広がり
原種では30種類ほどの花が知られている他  園芸用に品種改良されたものが広く栽培されている
ニホンズイセンは 地中海沿岸から1300〜1400年前頃に中国へ渡り広がったフサザキスイセンが
古くに渡来したと言われるが 渡来の経緯については諸説あり現状では定まった説明が成されていない
本州以南の比較的暖かい海岸近くで野生化した群生が見られる  学名<Narcissus>は
ナルシストの語源でもあるギリシャ神話に登場する美少年ナルキッソス<Narkissos>に由来する
ナルキッソスはその美しさ故にさまざまな相手から言い寄られたが 美しさ故の高慢心ではねつけ恨みをかう
復讐の女神ネメシスが そんな彼への恨みを聞き入れ呪いをかけた 呪いをかけられたナルキッソスは
水面に映る自分自身に恋してしまった しかし水面に映る像は彼の思いに決して応えようとはしなかった
彼は片思いのまま恋い焦がれ憔悴して死ぬ その体は水辺でうつむきがちに咲くスイセンに変わったという
日本名のスイセンは 中国語の「水仙」(カタカナ読み=シュイシィエン)を音読みしたものである
「仙人は 天にあるを天仙 地にあるを地仙 水にあるを水仙」という中国の古典に由来し
水辺で咲く姿を仙人に例えたと思われる 別名に雪中花・雅客(がかく)などがある
スイセンは有毒植物で アルカロイド類のリコリンやタゼチン・ガランタミンとシュウ酸カルシウムを有す
葉がニラとよく似ており 混同してスイセンを食べて中毒を起こす事例が 近年度々報道されることがある
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沼島
イザナギとイザナミの国生み神話で「天の浮き橋」に立ち 天の沼矛(ぬぼこ)を
まだ何も出来ていない海原に下ろして「こをろこをろ」とかき回し矛を持ち上げると 滴り落ちた潮が
積もり重なって島となった これがオノコロ島で 平安時代以降の説では沼島であるとされている
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雲の厚みが増してきた
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八重水仙(ヤエズイセン)
10時40分 駐車場に戻るのと同時ぐらいに雨がポツポツ降り出す 海岸線を由良に向かう
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