2018.11.28 滋賀県長浜市 長浜の散歩

長浜は羽柴秀吉が 長浜城の城下町として整備した町割りを起源とし 以来湖北地方の中心地となった
江戸時代に城が廃されてからは 大通寺の門前町として また北国街道や琵琶湖水運の要衝として繁栄した
この地に文明が芽生えたのは古墳時代とされ その後律令時代には 畿内と北陸を結ぶ北陸道の要衝となり
中世には荘園が拓かれ坂田荘と呼ばれた 鎌倉時代の近江国守護は 佐々木氏が6代に渡りつとめたが
室町から戦国時代にかけては 北近江の伊香・浅井・坂田の三郡は京極氏の支配下に置かれ
南近江を支配する六角氏と二分されて 六角氏と京極氏が対立する要因となったが 室町幕府によって
両氏ともに近江守護職に任ぜられ 六角氏は24代 京極氏は6代に渡りそれぞれ近江守護職をつとめている
戦国大名となった六角氏は 永禄11年(1568)織田信長の上洛軍に敗れ衰退し 京極氏は家系分裂後
譜代家臣である浅井氏に北近江の実権を奪われ衰退したが のちに京極高次が信長・秀吉に仕え
大名となった 江戸時代に入って京極高次が小浜藩を 弟の高知は宮津藩をそれぞれ立藩している
小谷城を本拠に領域支配を行った浅井氏は 織田信長の軍勢に攻められ城ともども滅亡した
長浜は元もと今浜と称されていたが 秀吉が将来末長く栄えることを念じて今の字を長にかえたと言う説や
天正元年(1573)に秀吉が浅井攻めの功で 織田信長から浅井氏の旧領を授かった際に 信長の一字を
拝領して長浜に改名したという説も伝わる 後説は 信長への「よいしょ」で秀吉らしい伝聞である
長浜城の築造は 天正2年(1574)春に開始され 小谷城の廃材や浅井氏が隠匿していた材木などを使い
短期間で落成し 一年後の天正3年の春には一応の完成をみた 信長の本能寺の変による死没後
天正10年(1582)7月には 清洲会議での合議どおり秀吉は長浜を出て京都の山崎城に移った
長浜城には柴田勝家の甥・柴田勝豊が入城した 天正11年(1583)4月 柴田勝家との間で戦が起こった
この賤ヶ岳合戦で長浜商人が兵糧の運搬等に貢献したため 秀吉は報賞として町屋敷年貢300石を免除し
朱印状を出した 以降の長浜城主は 彦根藩領となる元和元年(1615)まで 山内一豊が6年間
内藤信成・信正が10年間入城したほかは空き城であった 彦根藩領となった長浜は 城が取りこわされ
資材は彦根城の普請に使うため運び去られ姿を消した 長浜は城下町から町人が住む純然たる
商業都市へと変遷したが 秀吉によって与えられた町屋敷年貢300石免除の特権は安堵された
安定した彦根藩支配のもと長浜は 城下彦根に次ぐ第二の都市として繁栄を続け明治維新をむかえた
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明治39年(1906)測図
明治15年(1882)3月 東海道線の支線・敦賀線として柳ケ瀬隧道区間を除く長浜−敦賀駅間が開通
長浜駅が開業した 柳ヶ瀬−洞道口駅間は徒歩連絡とし 大津−長浜間は連絡船が就航した
明治16年 東海道本線の関ヶ原−長浜駅間が開通 明治17年4月 柳ヶ瀬トンネル開通し敦賀まで全通
明治22年(1889)東海道本線の東京・新橋−神戸間が全通し 長浜−米原駅間も開通したため
旧東海道本線の関ヶ原−長浜駅間は休止となり 連絡船の運行も廃止となった
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赤い部分は長浜城及び武家地 青い部分が城下町である 🅿お旅所駐車場
秀吉時代には49の町があり そのうち36町が秀吉の朱印地であった 彦根藩時代に大手片原町が三分割され
朱印地の内43石余の土地が堀に転用されたため 慶安4年(1651)その不足分を補うため中鞴町を加え
明治維新に至るまで藩制時代の町数は52町で ほぼ秀吉時代の城下町を踏襲していた
明治22年(1889)町村制の施行により長浜町となり 52町を統合し隣接する村を編入して29町とした
昭和18年(1943)神照・六荘・南郷里・北郷里・西黒田・神田の各村と合併して長浜市が発足した
その後 平成18年(2006)浅井町・びわ町と合併 平成22年(2010)虎姫・湖北・伊香郡高月・木之本
余呉・西浅井の6町を編入し現在に至る
江戸時代以降 産業として縮緬(ちりめん)やビロード織り・蚊帳などの織物工業が発展し繁栄した
また 戦国時代から江戸時代にかけ 長浜国友町は国内有数の鉄砲生産地として栄え
最盛期には70余軒の鍛冶屋と500人を超す職人で賑わい 幕府直轄の天領となっていた
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<長浜まち歩きMAP>
お旅所駐車場に車を止めて 散策開始
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大手門通り西門
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昭和18年(1943)から平成18年(2006)まで半世紀以上 長浜市の市章は秀吉ゆかりの千成瓢箪であった
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北国街道
伝統的建造物群保存地区など風景を売りとする観光地に工事用のコーンは似合わない 安易すぎる!
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ゆう壱番街通り(旧中魚屋町通り)
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北国街道 「武者隠れ道」と称するノコギリ刃状の町並み
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北国街道
江戸時代の長浜52町の一つ「下呉服町」
呉服町は 北国街道に沿った南北通りの両側町である 本町に向かって上・中・下と命名されていた
城下町造成当初は 呉服商が多く住んでいたと思われる 当町はその北に位置し 北町と魚屋町の通りをつなぐ
元禄8年(1695)の記録では 家数20軒 男42人・女50人が居住していた
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北国街道長浜宿の北口 伊勢大神宮を祀る郡上大神宮の石灯籠 明治11年6月建立
江戸時代の長浜を構成した52町の一つ「 郡上町」
北国街道沿いで城下町の北の出口にあたる 小谷城下町から郡上(現:湖北町郡上)の商人が移住した町
元禄8年(1695)の記録では 家数43軒で 男97人・女94人が居住していた
明治4年 金沢藩士・多賀賢三郎が討たれた「日本最後の仇討」があった場所でもある
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呉服橋のある北町通りと西北町
江戸時代の長浜を構成した52町の一つで 城下町初期・最北の町「西北町」
長浜城外堀跡の呉服橋から大通寺西門に向かって東西に伸びるのが北町で 城下町造成初期の最北端が由来
北国街道と鍛冶屋町(北国街道−浜京極通り)から知善院町(浜京極通り−博物館通り)の通りを境に
西・中・東に分かれる 北町の内 北国街道の西に位置するのが西北町である
元禄8年(1695)の記録では 家数7軒で 男19人・女17人が居住していた
ゆう壱番街・感饗フリーマーケットガーデン 日本一の万華鏡
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小屋の中のハンドルを回すと羽車が回る仕組み
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ゆう壱番街の標石「従是西長浜領」は朱印地との境を示す 「長浜領」とは朱印地のことである
真宗大谷派長浜別院 無礙智山 大通寺
一般に「長浜御坊」と呼ばれている 本願寺第12世教如を開基として長浜城跡に創建したのが始まり
そのころは 長浜御堂と呼ばれていた 慶長8年(1603)京都に東本願寺が建立され 大通寺と改称した
慶安4年(1652)に現在地に移転する 伏見桃山城の遺構と伝わる本堂や大広間
長浜城の追手門を移築した脇門(薬医門)など建造物の多くが 国や市の重要文化財となっている
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江戸時代末期(1841)建立の山門 総欅造・二層門 建築期間は32年に及ぶ
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山門の彫刻
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山門 内側
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本堂(阿弥陀堂)江戸初期建立 入母屋造・本瓦葺き
寺伝によれば 伏見城の殿舎を徳川家康より東本願寺第十二代教如へ贈られ 東本願寺の御影堂として用いた
その後 承応年間(1652−1654)に当地へ移築したと伝えられている
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19世紀前期の建築と推定される太鼓楼
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ながはま御坊表参道
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針屋橋から米川
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ながはま御坊表参道
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卯建のある旧家
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曳山博物館ポケットパーク 米川
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大手門通り
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開知学校跡
明治7年(1874)に町民の寄付によって神戸町(現在の元浜町の一部)に建てられた小学校
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朝日町 明治27年創業 元祖 堅ボーロ本舗(清水ボーロ)
「ボーロ」は ポルトガル語で小さく球状のお菓子を意味する
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酒屋に古いダイハツミゼット
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朝日町 たたら橋通り
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北国街道 中田町
明治ステーション通り
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明治ステーション通り 舟板壁の家
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長浜城の構造
この石碑の前を流れる米川は、長浜城の外堀の一部として使用されていました。その外堀は、
城の北から東を囲い、大手町付近では幅15間(約27メートル)といわれています。
長浜城は、天正2年(1574)から翌年にかけて、羽柴秀吉公が築いた城です。その後、山内一豊公など
4人の城主が入りましたが、元和元年(1615)には廃城となっています。このように、長浜城の歴史は
約40年に過ぎず、江戸時代の大半は城がなかったので、その構造(縄張)は現状から推定することはできません。
古絵図などを基にした長浜城の復元によれば、上図のように2重の外堀と内堀に囲まれた水城で、
南北約1.2km・東西約0.7kmの大きさであったと考えられます。
さらに、今回の「秀吉公ゆかりの石碑・石柱建立事業」では、左図に示したような石碑・石柱を
豊公園周辺の城跡に建立し、城があった頃の状況が分かるようにしました。
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朝日橋の上から外堀跡(米川)
長浜鉄道スクエア 旧長浜駅舎
明治15年(1882)3月10日 東海道線の支線・敦賀線の始発駅として開業した
明治36年(1903)に北側の現在地に新駅が開業して20年間の短い歴史にピリオドを打ったが
建物は倉庫として使われ続け 昭和33年(1958)10月現存する最古の駅舎として鉄道記念物に指定された
東西24.5m・南北9.7m 木骨構造の石灰コンクリート造り2階建て 外壁はコンクリート素面仕上げ
壁の厚さは50cmあり 四隅の角は花崗岩の切石積み 窓枠及び出入口は赤レンガを使用している
1階は駅事務所と待合室 2階は敦賀線の鉄道管理事務所があった 1階2階ともに暖炉が設けられ
回り階段・彫刻入りの欄干など豪奢な建築様式で 当時の長浜としては特に珍しいものであった
設計は 明治6年(1873)に来日した英国人鉄道技師・ホルサムが行ない 施工は神戸の稲葉弥助が担当した
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北陸電化記念館 ED70型1号電気機関車・D51型793号蒸気機関車
北国街道
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馬つなぎ石のある家
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黒壁スクエア・北国街道
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浄土真宗大谷派 慈雲山 浄林寺 太鼓楼
元は天台宗に属す 小谷城下から長浜へ移転 その後 寛政10年(1789)現在地に移築された
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15:00 天気が悪く今にも雨が降りそうで空も暗い このあと彦根城に向かうが
時間と天気の都合で見学は断念し「道の駅・せせらぎの里こうら」へ 距離は約29km 午後5時40分に到着
到着後すぐに雨が降り出す 彦根城と五個荘金堂の散策は明日へ持ち越し
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