2011.02.04 兵庫県神戸市 神戸散歩
兵庫県西宮市/尼崎市 日本の近代土木遺産 武庫大橋
武庫(むこ)とは摂津国の古地名で 現在の尼崎から兵庫までの沿岸部を指す 武庫の名は神功皇后紀に
初めて著され「務古」とも書かれた そのいわれは 武器を埋めたところ・椋(むく)のある山
御子(みこ)の転訛・向こうの意味など諸説噴飯であるが そのうち 「国のまほろばである大和を出
難波津から船を出そうとするとき 遥か対岸の地を望んで「向こう」と言った」とする説が 無難な解釈として
受け入れられてきた また かつて六甲連山が「向か津峰」と呼ばれたことから 向か津は武庫津と同じで
あるとの説も存在する 平安時代に装園が拓かれ 武庫荘と呼ばれていたことから地名として根付いた
荘園は 鎌倉時代に順徳天皇の后・東一条院立子の寄進により興福寺及び春日社の領地となった
武庫川は篠山市真南条付近を源とし尼崎市と西宮市の境を大阪湾に注ぐが 最後の氷河期までは
武庫川は篠山川の下流で篠山川は武庫川水系であった その後 堆積などにより篠山川は加古川水系となった
篠山川と武庫川源流部を繋ぐ田松川は 武庫川の流量を増やすため明治8年(1875)に開削された運河である

特徴 石造の橋脚 石造の装飾的バルコニー及び橋灯 橋長:205.86m





兵庫県西宮市社家町 西宮神社
国内に約3千5百社あるといわれる「えびす神社」の総本社である 地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる
創建時期は不明であるが 平安時代には廣田神社の境外摂社で「浜南宮」という名称であった
一般的に「西宮」の起こりは 古代に創建された「廣田神社」をはじめ 生田・長田・住吉を含む神社群が
京から太宰府へと繋がる「西海道」(現・国道171号線・古代山陽道・近世の山崎街道)にあることから
「西宮」と呼ばれたことが始まりとされている 現在「西宮神社」と呼ばれる「西宮戎神社」は
元々広田神社の境外摂社である「浜南宮」で 現・西宮神社の境内摂社である「南宮神社」が元社である
中世から近世にかけて 人形繰りの「傀儡師」が浜南宮境内の北隣に居住し 戎神人形を繰り全国を巡って
戎信仰を広めた 中世紀以降 商業の発展とともに 海産漁業の神だけでなく商売の神としても厚く信仰された
戎信仰の勃興により 浜南宮は廣田神社の摂社格からはなれ 江戸時代には徳川家綱により本殿が再建された
また 全国に頒布していた「えびす神の神像札」の版権を幕府から得て 戎信仰の総本宮として栄え今日に至る







2015.09.05 西宮から三宮まで西国街道を歩く



昭和5年(1930)建築 鉄筋コンクリート造2階建 建築面積150平方m
東と北の外壁はルスティカ風に花崗岩を積み 重厚な外観としている 隅部は円弧状とし 2連アーチ窓を配し
軒にデンティルを施す イタリア・ルネッサンス邸宅風の意匠が見られる



左/四天王寺かう志んだう(四天王寺庚申堂) 右/天王寺すてー志よん(天王寺ステーション)


主祭神:底筒男命・中筒男命・表筒男命(住吉三神)および神功皇后
社伝では 神功皇后の三韓征伐からの帰途に船が進まなくなり 神託により住吉三神を祀ったとされる
この話は生田宮と同じである 日本書記にある「大津渟中倉之長峡」の地が当地であるとし 当社が住吉三神鎮祭の
本元であると伝え そのために古くから「本住吉」と呼ばれるとしている しかし「大津渟中倉之長峡」の地は
現大阪の住吉大社のある地とする説が 学術的には有力視されている
当社では 住吉大社も当社からの勧請であると主張し 江戸時代の国学者・本居宣長もこの主張を支持していた





大安亭の名の由来
明治時代の旭通4丁目付近に「大安亭」という浪花節の寄席小屋があり人気を博し その周辺にできた商店街に
大安亭という名が付き栄えた 明治時代後期には 新生田の東側にも商店街ができ始め その後栄えて新大安亭と
呼ばれるようになった 第二次世界大戦後は 新大安亭の方に元の大安亭にいた商人が移転していった
この頃の大安亭は 毎日が縁日かと勘違いされるほどの人出で 神戸有数の市場として発展したが
名の由来となった寄席小屋の大安亭は 昭和15年頃になくなったといわれている

かつての生田川は 摩耶山を源とし名勝「布引の滝」を経て 現フラワーロードの位置を流れ神戸港に注いでいた
近世には 長年の沖積作用により天井川となり また下流域には広大な沖積地が形成され商工都市として発展した
そのため 一度水害が発生すると甚大な被害を受けた 幕末期には神戸開港により整備された外国人居留地が
生田川の氾濫によって大きな被害を被る懸念が発生し 新政府は 明治4年(1871)に生田川の付替工事を策定した
工事は商人の加納宗七が請負い およそ3か月で工事を完了させた
生田川の周辺地域は 天井川が両岸それぞれに形成された集落の交流を阻み 各々異なる文化が形成されてきた
神戸市の誕生前は 右岸(西)側が須磨まで「八部郡」 左岸(東)側が現・芦屋市までが「菟原郡」と区分され
神戸の元となった生田神社の「神の戸」集落は 生田川(フラワーロード)の西側になっていた
昭和55年(1980)に 区再編で中央区となる以前は フラワーロードより東側が葺合区 西側が生田区であった

17万坪に及ぶ旧生田川の河川敷は 加納宗七が娘婿の有本明とともに兵庫県から落札し区画整備を行った
これが 現在の「加納町」の由来となり 加納3丁目交差点の歩道橋の一角に旧生田川の石碑が建てられている
以後 市街地は農林地が広範囲を占めていた東部の旧菟原郡へ急速に拡大していった
昭和に入り生田川は 市街地部分のほぼすべてが暗渠化され この上に道路や公園が整備された 当時の神戸市は
市街地の機能を高めるため河川の暗渠化を政策的に実施したが 昭和13年(1938)の阪神大水害により
巨岩や巨木が生田川の暗渠入り口に詰まり フラワーロードの周辺街区一帯に大きな被害をもたらした
この教訓から 生田川の暗渠については撤去され 新たに公園を再整備したのが現在の生田川公園である

生田神社から 旧居留地・メリケンパーク・春節祭(旧正月)の南京町を歩く
生田神社(生田宮)
日本書紀によれば 神功皇后による新羅出兵(三韓征伐)の帰途 神戸沖で船が進まなくなったため神占を行うと
稚日女尊(わかひるめのみこと)が現れ「吾は活田長峡国に居らむと海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ」
との神託があり 祠を設け稚日女尊を祀ったと記されており これが生田宮の創建とされている
3世紀初頭の話で古代伝説の域を出ないが 当初の祠宮は砂山(いさごやま=布引山)にあった
平安時代初頭の延暦18年(799)に起きた水害により山の麓が崩れ 山体崩壊の恐れを生じた
生田村の刀祢七太夫が 御神体を山上の祠から生田の森に遷したと伝わる
生田神社は「神戸」という地名の語源となる神社で かつて現在の神戸市中央区の一帯は生田宮の社領であった
神地神戸(シンチカムベ=神地に住む民のこと)の神戸(カムベ)がこの地の呼称となり
中世には紺戸(コンベ)と転訛し 幕末開港時代を経て近代以降は神戸(コウベ)と呼ばれるようになった






左側面/順徳院(順徳天皇) 続古今和歌集 貞永元年(1232)の和歌
「秋風に またこそ訪(と)はめ 津の国の 生田の森の 春のあけぼの」
意:秋風の頃に 是非また訪れようと思う 摂津の国の生田の森の春の曙に心惹かれて
右側面/右 兵庫播磨道 背面/左 京大坂 布引滝十三丁 住吉二里三丁 西ノ宮四里三丁道

平安時代の清少納言による『枕草子』の「森は大荒木の森、信太の森、生田の森」をはじめ 様々な書物に記され
特に源平合戦の戦場になったことは有名で 寿永3年(1184)2月 平知盛を大将とする平家軍が生田の森に
陣を構え 一の谷から生田の森へかけての一帯が戦場となるなど 歴史的に由緒のある森である
かつては 再度山まで続く森が広がっていたが 北野町以南の開発によって昔の面影は微塵もない
神戸市中央区三宮町界隈
古代から生田神社領内にあり 生田裔神八社の一つである三宮神社が鎮座する界隈である


生田裔神八社(いくたえいしんはちしゃ)は 生田宮を囲むように点在し 裔神(えだがみ)八柱を祭る
今では「港神戸守護神厄除八社」とされ 厄除けのため数字の順に八宮巡りを行う
八社の現在地は当初より相当ずれているが 北斗七星6番目の星が正確にはふたつの星であるため
嘗ての位置が「北斗七星の星座を模しているのでは」という説がある
近代以後では 六宮・八宮が移転しているが 以前の位置においては概ね東から西に数字が大きくなる
生田裔神八社があるこの地は旧神戸村の一部になり 慶応4年(1868)兵庫港開港時に建設された外国人居留地の
北に隣接した地域にあたる 明治6年(1873)新設した南北の道路を三ノ宮筋と名付け
明治11年(1878)に三宮町という正式な地名となった 三ノ宮筋という名称は消滅したが
三宮神社の西側にある「トアロード」がそれにあたる
旧居留地・メリケンパーク・南京町を散歩する










三井物産神戸支店として 大正7年(1918)竣工 阪神淡路大震災で全壊認定を受けたため新しく再建された
高層ビルの低層部に旧外壁を再構築した 4階建の旧外壁は国の登録有形文化財に登録されている

初代米国領事館の跡地に 大正7年 旧日本郵船神戸支店として竣工


明治44年(1911)日本初のオーストラリアとの貿易会社・兼松商店の本店として建設された
神戸市中央区波止場町 メリケンパーク
昭和62年(1987)かつてのメリケン波止場と神戸ポートタワーが建つ中突堤の間を埋め立てて造成された

1. 神戸ポートタワー・昭和38年(1963)建設 2. メリケン波止場・明治元年(1868)兵庫港第3波止場として
国が開設 北辺に米国領事館があったことから「メリケン」波止場と呼ばれるようになった 3. JR神戸駅






同氏の彫刻では 鳥取県琴浦町大字赤碕の波しぐれ三度笠が平成元年の作で良く似ている


神戸市中央区栄町通 神戸南京町
明治元年(1868)の開港と同時に外国人用の居留地が設けられたが 当時 清国との通商条約は未締結で
華僑は居留地内に住むことを許可されず 西隣の雑居地に住み始めたのが南京町の始まりとされる
結果として 日本人社会と良好な関係を築き民族的対立も比較的少なく 横浜や長崎の華僑居住地が中華街と
改称される中 神戸では戦前の呼び名である「南京町」がそのまま通称として残された


昭和20年の2波による神戸大空襲で全滅し 戦後は進駐軍相手の歓楽街として復興したため退廃化が進み
昭和35年頃には中華料理店が1軒のみという状況にまでなった 昭和56年(1981)から始まった
南京町復興環境整備事業実施計画により広場の設置や楼門の建築などが行われ 行政の計画通りに一気に
観光地化が進み国内のみならず世界各国より一般客が訪れるようになった しかし阪神・淡路大震災で被害を受け
ライフラインが停止し厨房も被災した一部の店舗が やむを得ない方法として点心などの店頭販売を行った
以降 気軽に食べ歩きができる街として定着し 現在のように一般観光客が押し寄せるようになったといわれる


