2010.05.27  初夏の京都散歩

東寺・六孫王神社・西本願寺・東本願寺・神泉苑・二条城 石橋巡りで見た古都の風情
翌日は 石清水八幡宮と上津屋橋(流れ橋)一休寺と京都南西部を散策
東寺
正式名は教王護国寺である  8世紀末 平安京の正門にあたる羅城門の東西に平安京鎮護のための官寺として
東寺と西寺という2つの寺院の建立が始められ 8世紀末から9世紀のはじめ頃に完成したといわれている
弘仁14年(823)嵯峨天皇より空海に下賜され 国家鎮護の寺院でありながら真言密教の根本道場ともなった
西寺は13世紀頃に荒廃し廃寺となったが 寺領は戦国時代まで存続していたと推測されている
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東寺北大門
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<上>校倉造りの東寺宝蔵
   時期的に 東寺の創建時に
   近い建立とされる宝蔵

<右>東寺五重塔
   寛永21年(1644年)建立
   徳川家光寄進の5代目の塔
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六孫王神社
清和源氏始祖の源経基(みなもとのつねもと)を祭神とする
経基は清和天皇第六皇子の貞純親王の子で 天皇の孫であることから「六孫王」と称される
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浄土真宗興正派本山 円頓山 興正寺
西本願寺の南隣にあり かつては西本願寺に属す門跡であったが 明治9年(1876)に真宗興正派として独立した
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興正寺と西本願寺の間を通る道は 平安京の北小路にあたり今でも北小路通(きたこうじどおり)と呼ぶ
北小路門を潜ると本願寺の唐門を経て龍谷大学に至るが 午後五時に門は閉ざされる
浄土真宗本願寺派 龍谷山 本願寺
一般に「西本願寺」という 浄土真宗本願寺派の本山で 京都では「お西さん」と呼ばれている
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国宝 西本願寺 唐門
書院への正門で 日暮し眺めても飽きないとされることから「日暮門」の俗称がある
創建は慶長期以降と推定されるが来歴も不明な点が多い
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<右>北小路通に面する大玄関門
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国の重要文化財 御影堂門
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国の重要文化財 太鼓楼
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東本願寺の西 新町通
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崩れ行く古都
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七条新町交差点 国の登録有形文化財 大正11年(1922)建築の富士ラビット
鉄筋コンクリート造 地上3階地下1階 建築面積119平方メートル
京都で自動車販売の草分けといわれる日光社の社屋として建てた3階建の商業ビル
社名の日光を象ったといわれる塔屋の意匠や古典的な柱のオーナメント
1階正面の自動車の描かれたステンドグラスなど様々な要素が混じり合った建物として知られている
真宗大谷派 東本願寺 正式名は真宗本廟 京都では「お東さん」と呼ばれている
江戸期に度々火災に遭い 現存する建造物の多くは
元治元年(1864)長州藩による禁門の変にともなう火災で消失の後 明治期に再建された
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国の登録有形文化財 菊の門
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烏丸通りの堀割
京都タワーを映す
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玄関門
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花屋町通りの門
神泉苑・善女龍王社
神泉苑は東寺真言宗の寺院 本尊は聖観音・不動明王・弘法大師
元は平安京大内裏に接して造営された禁苑である
当初の敷地は二条から三条まで 南北約500m東西約240mという広大な大庭園であった
神泉苑には竜神(善女竜王)が住むといわれ 天長元年(824)に西寺と東寺が雨乞いの法を競い 東寺の空海が
勝ったことから以後東寺の支配下に入るようになったという 貞観11年(869)神泉苑の南端に66本の鉾を立てて
祇園社から神輿を出したのが現在の祇園祭の元になったと言われている
慶長8年(1603)家康が二条城を造営した際に神泉苑の敷地の大部分が削り取られ大きく規模を縮小した
伝承では 寿永元年(1182)雨乞いのため百人の白拍子が舞い 白拍子の静と義経が出会ったと言われる
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寺域内には 食事処「平八」がある 「平八」は寺の「平安殿」を借り営業している
元離宮二条城
二条城は 慶長8年(1603)徳川初代将軍家康が 京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として造営し
三代将軍家光が 伏見城の遺構を移すなどして 寛永3年(1626)に完成した
本丸は 寛永3年(1626)に三代将軍家光の命により五層の天守閣が築造されたが
寛延3年(1750)落雷のより焼失 また天明8年(1788)には 大火による類焼で本丸内の殿舎を消失した
現在の建物は 京都御苑内にあった旧桂宮御殿を 明治26年〜27年(1893年〜94)にわたり
ここに移築されたものである この建物は 弘化4年(1847)頃に建てられたもので 宮御殿の遺構としては
完全な形で残っている貴重なものであり 重要文化財に指定されている(内部は非公開)
本丸御殿南側にある庭園は 明治時代に作庭されたもので 天守閣跡はこの庭園の西南隅にあった
慶応3年(1867)十五代将軍慶喜の大政奉還により 二条城は朝廷のものとなり
明治17年(1884)には離宮となり 昭和14年(1939)京都市に下賜された
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国指定重要文化財 東南隅櫓 江戸前期(1625-1626)建築
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国宝 二の丸御殿
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修学旅行も私服でタクシーを利用
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二の丸庭園
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二条城本丸庭園入口
京都御苑九条池高倉橋
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九条池は九条家の茶室別邸として利用されていた拾翠亭の苑池である
明治15年(1882)天皇行幸計画が持ち上がり 御所周囲の空家となった公家屋敷を取壊し 苑池に整備された時に
御所の建礼門から南へ真っ直ぐ丸太町通りに通す行幸道路が計画され  この橋が架けられることとなったた
建設当時に用いられた橋脚は 天正17年(1589)豊臣秀吉が架橋してから400年以上が経過した
旧三条大橋および五条大橋の石造橋脚を転用している
昭和34年(1959)に 床板・欄干及び擬宝珠を更新する大規模な改修が行われ 床板が木製から
鉄筋コンクリートに変更されている  近代土木遺産に登録され 特徴としては
400年を経過した円柱の橋脚 最大級の9径間石桁橋 橋脚上に雨覆風の飾りなどが挙げられている
人道橋  全長:42.6m  幅員:3.2m  石桁(花崗岩)  架橋年:明治15年
石清水八幡宮
宇佐神宮 筥崎宮とともに日本三大八幡宮のひとつである
伝承では 貞観元年(859)空海の弟子 南都大安寺の僧「行教」が宇佐神宮に参詣した折
「われ都近き男山の峯に遷座して国家を鎮護せん」との神託を受けた
翌年の 貞観2年(860)清和天皇の命により社殿を建立したのを創建とする
「石清水」の社名は もともと男山に鎮座していた石清水山寺(現摂社の石清水社)に由来する
境内は山麓の下院と 山上の上院とに分けられる
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一ノ鳥居
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二ノ鳥居
京都府八幡市上津屋(こうづや)宮前川端 上津屋橋(流れ橋)
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流れ橋の構造は 74径間の木造橋であり 流れ橋という名のとおり 出水時には
一定の水位(概ね橋面まで水位が上昇したとき)に達すると 全長を8分割して橋脚に連結された上部工が流れる
仕組みになっている そのうえ洪水時に下流へ流されてしまうのを防ぐため
8分割して繋留橋脚にワイヤーロープで強固に繋ぎ止められている そのため洪水時には上部工が浮かびあがり
 筏流しのように見える 洪水が収まると 上部工を引き上げ再度敷き並べて元通りに復旧することができる
73基ある橋脚の内 56基が木造で 城陽側の17基は昭和40年代にコンクリートパイル橋脚に改築されている
木造橋脚の部分で 時代劇の撮影がよく行われている
延長:356.5m  全幅員:3.3m  有効幅員:3.0m
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浄土真宗本願寺派 専琳寺
一休寺
正式名は 臨済宗大徳寺派 霊瑞山 酬恩庵(しゅうおんあん) 本尊は釈迦如来 一休さんに因み
一般的に「一休寺」と呼ばれる 枯山水の石庭や一休和尚の木像のほか 一休寺納豆でも有名な寺である
正応年間(1288〜1293)に開かれた妙勝寺が前身で 元弘年間(1331〜1334)兵火にあい衰退していたのを
康正2年(1456)一休宗純が草庵を結んで中興し酬恩庵とした 一休は文明13年11月(1481年12月)88歳で
亡くなるまでここで過ごした 永禄3年(1560)前田利常が伽藍を再興し狩野探幽によって描かれた
障壁画433面を納め 江戸幕府から朱印状が与えられた
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