2008.08.29  談山神社から天川村へ

談山神社(たんざんじんじゃ)
奈良県桜井市多武峰(とうのみね)にある神社 祭神は藤原鎌足(旧姓:中臣鎌子)
天武天皇7年(678)に 鎌足の長男・僧定恵が父の墓を摂津から大和のこの地に移し
十三重塔を造立したのが始まりである 天武天皇9年(680)には講堂が創建され 妙楽寺と称した
大宝元年(701)十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂を建立し聖霊院とした
平安時代には 繁栄した藤原氏の庇護を受け発展を遂げたが 同時代に天台宗の寺院になったことから
藤原氏縁の寺院である興福寺と争いが起こり 天仁2年(1108)には近隣の村ごと堂宇が焼き討ちにあった
十三重塔も承安3年(1173)に興福寺衆徒勢の焼き討ちで消失し 室町期の享禄5年(1532)に再建された
地形上戦略的拠点とされることが多く その後も度々戦禍に遭遇し 天正13年(1585)に秀吉によって
郡山城下への遷座が強要され寺は破却された 五年後には現地に復帰し 江戸時代に家康により復興され
幕府より3千石余の朱印領を認められた 明治の神仏分離令により僧徒が還俗して談山神社と改称された
廃仏毀釈の際に寺を廃し神社のみとなったが 十三重塔をはじめとする建造物は寺院建築をそのまま使用し
現在も神仏習合の雰囲気を残し 唯一の仏像として如意輪観音像を所蔵する
皇極天皇5年(645)5月 日本国初のクーデターとされる乙巳の変を起こした中大兄皇子と中臣鎌子が
この山中にて談合したとされ 後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び 談山神社社号の由来となった
乙巳の変は 宮中において蘇我入鹿を暗殺して蘇我氏(蘇我本宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変で
その後に行われた中大兄皇子による改変を大化の改新と呼ぶが これは政権内の権力争いであって
「武力によるクーデター」なのである 現在は改革とされた一面性にとらわれず
歴史的評価も多面的に論議されている 蘇我氏の専横を嫌った中臣鎌子を祖とする藤原氏が
その後宮中において権力を我がものとしていき 中大兄皇子が夢見た天皇を頂点とする律令政治を
その後 奈良・平安期に骨抜きにし 天皇家の万世一系の法則をも危うくしてしまったのも藤原一族である
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修復工事中の権殿 室町後期の建築(1560年代前半)
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十三重塔 室町時代の享禄5年(1532)に再建された
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左:本殿(旧鎌足像の祠堂) 右:拝殿(旧講堂) 奥:東透廊 寺院建築にべんがら塗装された
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拝殿から見る「談所ヶ森」
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紅葉すると綺麗でしょうね
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本殿(旧鎌足像の祠堂)
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かつての妙楽寺山門
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明治以前・山門内は女人禁制であったため 山門横に礼拝できる女人堂があった
談山神社から吉野・川上村へと向かう 山越えの洞川高原林道を経由して天川村へ
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国道169号線 大滝ダムでついに雨
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道の駅「杉の湯川上」で雨宿り トンネル前を左折
雨で大変だが洞川高原林道は全線舗装の山岳道路
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標高555m 川上村大字高原
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標高1000m 洞川高原林道 ガードレール無し その上離合は難しい
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大天井ヶ滝 標高1040m
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標高1439mの大天井ヶ岳は雲の中
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1092m 峠の五番関トンネル 越えれば天川村
大峯奥駈道 吉野金峰山寺まで11km

奈良県吉野郡天川村洞川 洞川温泉(どろがわおんせん)
標高約820mの高地に位置し 大峯山・山上ヶ岳の登山口で 純和風の旅館や民宿が並ぶ 風情のある温泉街
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そこここに「陀羅尼助」の文字
奈良県吉野郡天川村坪内 天川弁財天社
主祭神は 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)で芸能の神として知られ 今も芸能関係の参拝者が多い
明治の神仏分離前は 弁財天(ヒンドゥー教の女神サラスヴァティー)であったが 神仏分離令によって弁財天を
市杵島姫命と称するようになったものであるが 今日でも社名に「弁財天」とあり変わらぬ信仰を貫く
天川弁財天社の創祀は 飛鳥時代の役行者による大峯開山の際 蔵王権現に先立ち勧請され
最高峰である弥山(みせん)の鎮守として祀られたのに始まる
明治以前は 琵琶山白飯寺として本尊を弁才天(宇賀神王)としていたが 廃仏毀釈で白飯寺は廃寺となった
本尊の弁才天はそのままに名を市杵嶋姫命と改めた
TVドラマ浅見光彦シリーズの「天川殺人事件」で有名になった山間の僻地にあり 能楽でも有名である
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円空仏の栃尾観音堂を訪ねる
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吊り橋の架かる天ノ川に沿って大塔村へと出る
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山また山の道を五条へと下っていく