2008.03.12 / 2011.02.09  奈良 大和郡山〜木津を散歩

斑鳩の里
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旧中宮寺土塁跡
郡山城
元は東大寺の寺領清澄荘園であつたが 寺領の衰退と地侍の勃興によって薬園荘が分立 鎌倉時代末期には
薬園庄から郡山庄がさらに分立した 郡山には「郡山衆」といわれた中殿・辰巳殿・薬園殿などの勢力があり
現在の郡山城跡一帯に館を構えていた すでに10世紀後半には 地侍の郡山衆が城を築いたという記録が残り
これが郡山城の初見とされている やがて丘陵地には郡山村が その東の平坦地付近には薬園村が形成された
郡山城は 秋篠川と富雄川の中間に突き出た西京丘陵地の南端上に位置する平山城である
天正7年(1579)筒井順慶が廃城となった信貴山の多聞山城から石材を郡山古城に運び縄張りをはじめた
翌天正8年に信長によって「国中破城令」が布告され 郡山城を残して大和国中の城はすべて廃された
同年11月には 信長から順慶に「国中一円存知」を与えられ大和統一を成し遂げるに至り郡山城の築城を急いだ
奈良は良質な石材が乏しく また急ぎの築城であったため 奈良一帯の各戸に五郎太石20荷の提供を義務付け
寺院の石地蔵や墓石・仏塔なども石垣石として使用されており 中には平城京羅城門のものと思われる礎石や
8世紀ごろの仏教遺跡である「頭塔」の石仏が郡山城の石垣の中から見つかっている
天正11年(1583)に城郭は完成した 天正12年(1584)に順慶が没し 家督を継いだ定次が
伊賀上野へ転封となり 天正13年に和歌山城から豊臣秀長が入城し 大和・紀伊・和泉と伊賀百万石余の
封地を抱える大名となった 秀長は城郭の改修にとりかかり ともに郡山の町割りを行い箱本十三町を定めた
しかし わずか6年足らずで天正19年に秀長が死去し 養子の秀保が郡山繁栄策と城郭整備を引き継いだ
文禄4年(1595)秀保がわずか17歳で没し 増田長盛が22万3千石で郡山に入封 秀吉の命により
外堀と土居の普請を急ぎ 城下町や武家地を囲む 約48町13間におよぶ外堀と土居が完成し
合わせて柳町・高田町・鍛冶町・九条町の四大門を築いた 筒井順慶の築城から20年の歳月を費やして
漸く内郭・外郭とも完成して その威容を誇る郡山城は完成し また城下町の整備も終わったのである
江戸時代に入り 増田長盛の改易後一時期廃城となるが 水野勝成の入封時に幕府よって改修された
その後は譜代大名が歴代城主を務め 柳沢吉里入封後は明治維新まで柳沢氏の居城となった
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大和郡山城 復元追手門本丸石垣
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復元された追手向櫓・追手門(梅林門)
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追手門 昭和58年(1983)に復元
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白梅と追手門
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本丸への石段
本丸裏の「さかさ地蔵」 地蔵さんまで石垣に使う
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城内の柳沢神社 城内には高校もある
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市役所 内堀跡 大手橋欄干
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八幡宮脇道
近鉄郡山駅付近の洞泉寺町や東岡町には三階建の遊郭跡が並んでいる 今も旅館の看板を掲げる怪しげな
旧赤線地帯で  怖いお兄さん達もいるという噂がある 行政も再開発で一掃を計るが
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元遊郭 三和
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三階建ての遊郭跡・旧川本邸
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新木町入り口の御神燈 この先に新木神社がある
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郡山特産の金魚養殖池
金魚養殖の始まりは 享保9年(1724)の柳澤吉里が甲斐の国から大和郡山へ移封のおり 金魚持参したことに
始まると伝えられている 幕末期には藩士の副業として栄え 特に明治の版籍奉還後は禄を失った藩士と
農家の副業として盛んに養殖が行われるようになった また地理的に農業用溜池が数多くあり水利に恵まれ
溜池に発生するミジンコ類が 稚魚の餌に適していたことなどが有利に働いたといわれている
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近鉄と郡山特産の金魚養殖池
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下街道と竜田越奈良街道の追分にある銭湯「大門湯」 江戸時代の柳口大門にちなむ
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追分けの辻 旅館・花内屋がある
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下街道・柳町最南端 五條で熊野街道と合流
下街道・柳5丁目北向き
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旧・和田徳呉服店
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柳町商店街荒物屋
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龍田越奈良街道
柳町は下街道と龍田越奈良街道に沿った町で 1丁目から6丁目まで南北に1kmある
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大手門筋と奈良街道の交差地点 右は和菓子の本家菊屋
郡山名物「御城之口餅」は400年の歴史があり 名付け親は豊臣秀吉
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街道に面した菊屋の店構え
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豆腐町の路地
染色用の水路が流れる紺屋町
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紺屋川
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大和郡山市では毎年8月に「全国金魚すくい選手権大会」が開催される
そのため紺屋町の金魚グッズ販売店「こちくや」には金魚すくい道場が併設されている
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箱本館紺屋
箱本というのは、町内にあった自治組織のこと。江戸時代に十三町がこれに加盟。
それぞれの町が交代で治安維持や消火にあたり、いわば住民自治の先駆けとなる制度でもあった。
紺屋町はその箱本の中心をなす町の一つ。藍染めを職業とする人たちが集まった職人町で、
豊臣秀長の時代(1585−1591)に成立したと伝えられている。
ちなみに紺屋とは、もともと藍染業者を指したが現在では染物屋の意味で使われている。
この紺屋町で代々藍染の技を受け継いできたのがこの奥野家で、嫁入の祝い幕、社寺の門幕、旗、
暖簾などを制作し続け、その技術を今日に伝えた数少ない町家である。現在、箱本館「紺屋」として
藍染の指導や歴史資料の収集、保存、展示を行い市民の教養と文化の向上に寄与ている。

材木町 外堀緑地公園
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左は実相寺
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高田口大門を通り城下を東西に抜ける道を矢田筋といい 城下西外れの古刹矢田寺・矢田坐久志玉比古神社
東の古刹帯解寺・龍象寺(帯解地蔵)・門跡尼寺 円照寺(山村御殿)を結ぶ古来からの
参詣道であるため沿道には神社仏閣が並ぶ 現在は近鉄駅とJR駅を結ぶ幹線道路となっている
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融通念仏宗 光常山 圓融寺
稲荷神社
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浄土宗 従是山 西方寺
真言宗御室派 医王山 薬園寺
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薬園(やくおん)八幡神社と矢田筋
中世に東大寺領薬園荘の鎮守神とされ その後 薬園村の鎮守となった 元々は現在の塩町付近にあったが
郡山築城にあたり現在の地に遷座された 地元では「やこうさん」と呼ばれ親しまれている
薬園寺は 当社の宮寺かと思われるが明らかではない
室町時代に形成された稗田環濠集落
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国土地理院空中写真
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平城宮跡
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平城宮跡 復元・朱雀門
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朱雀門と近鉄電車
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朱雀大路と朱雀門
明治の関西鉄道(かんせいてつどう)大仏線跡
現在のJR関西本線の前身である私鉄・関西鉄道が 明治31年(1898)に加茂駅から現在の奈良駅の北1.1kmの
大仏駅間を結ぶ約8.8kmを開通させ その2年後に奈良駅まで開通させた路線を通称大仏線と呼んだ
加茂駅−大仏駅間には 赤いイギリス製の蒸気機関車が投入され 伊勢や名古屋方面から大仏参拝客を乗せて
にぎわったと当時の新聞にある 脚光を浴びた花形路線も  難所であった黒髪山トンネル越えを避け
新たに加茂−木津問の平坦路線ができると  奈良を経由することなく直接大阪方面へと向かうことが可能となり
大仏線の旅客が減少していた 明治40年(1907)関西鉄道の国有化と同時に廃止され
運用期間10年という短い生涯を閉じた
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 京都府木津川市城山台 旧関西鉄道大仏線史跡「赤橋」
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鉄橋梁は撤去され石桁の変えられた
赤橋から大仏線跡 15:00
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