2018.11.03 岡山県新見市新見 城下町新見の散歩
2018.11.02-05 道後山登山-新見散歩-帝釈峡・神龍湖-上下町散歩
11.2 自宅-中国自動車道 七塚原SA(泊) 11.3 七塚原SA-道後山-新見市-道の駅 鯉ヶ窪(泊)
11.4 鯉ヶ窪-帝釈峡・神龍湖-上下町-山陽自動車道 宮島SA(泊) 11.5 宮島SA-道の駅 むなかた-自宅
<道後山登山は山歩記 神龍湖・帝釈峡は歳時記に記載>
城下町新見 御殿町
古代律令制で備中国に新見郷(新美郷)が置かれた 奈良時代に高梁川を境に東に阿賀郡 西に哲多郡が
設置され明治まで続いた 当時 英賀郡の中心となる郡衙は英賀郷(真庭市上水田周辺)におかれていた
高梁川左岸に拓けた新見は英賀郡に所属し 古くは下市と称し 平安時代には 新見に荘園が拓かれ
鎌倉時代中期には 備中北部の豪族・新見氏が地頭となり 井村小谷(新見市上市)の標高500mの山上に
備北では備中松山城に次ぐ規模を誇る山城を構えた この新見氏が地名の由来と言われている
5.朝倉城跡(楪城の支城) 6.新見上市(楪城の城下町)
その後 山陰往来の宿場・市場として人が集まり 街道沿いの上市に家並みが出来た 鎌倉時代後期に新見荘は
領家領と地頭領に分けられ 南北朝時代に後醍醐天皇が領家領を京の東寺に寄進 その後 地頭領も取り上げ
同寺に寄進したことから紛争が起きたが 新見氏は室町幕府の代官となることで地頭の地位を確保した
戦国時代には尼子氏の庇護を受けたが 三村氏に攻められて没落し 三村氏も毛利氏に攻め滅ぼされた
天正2年(1574年)には 東寺も支配権を喪失して荘園としての新見荘は消滅した
江戸時代に入って新見は幕府領となり 松山代官の支配に属した 承応元年(1652)高瀬舟による高梁川の船運が
新見まで通り 以降は川湊としても栄えた 元禄10年(1697)宗家津山藩の森家が改易されたため
徳川幕府によって森長継の六男であった関長治が備中に移封され 松山藩領の阿賀・哲多・上房・川上を分けて
新見藩を立藩し陣屋を標高225mの城山に構え 南麓に侍屋敷町(御殿町)を設け 同時に下市村を新見村と改めた
明治8年(1875)岡山県の管轄に入り 明治11年 行政区画としての阿賀郡が発足 郡役所を新見村に設置した
明治22年(1889)高尾・馬塚村を吸収合併 その後 町政を敷き新見町となる
明治33年(1900)阿賀郡と哲多郡が合併して阿哲郡となった
昭和29年(1954)新見・上市の二町と美穀・草間・豊永・熊谷・菅生・石蟹郷の六村が合併し新見市となる
平成17年(2005)新見市と大佐町・神郷町・哲多町・哲西町の一市四町が対等合併し 新たな新見市を新設した
城山に藩主が居住する陣屋を建て 南麓に武家屋敷や奉行所などを置いたので御殿町と呼ばれた

船川八幡宮・秋季大祭(10月15日) 御神幸武器行列(大名行列)
300年間続く祭で 藩主自ら祭礼に参内して敬神崇祖の高揚と領民の安寧(あんねい)五穀豊穣を祈念し
移封入国時に行った「大名行列」を再現して 秋季大祭御神幸の先駆をさせたのが始まりである
往時のしきたりを忠実に継承して行われるため 立見は厳禁とされ「土下座まつり」の異名をとる
総勢64名からなる行列は 白熊と呼ばれる大槍(おおやり) 薙刀(なぎなた) 鉄砲(てっぽう)
弓(ゆみ) 槍(やり) 大旗(おおはた) 馬印(うまじるし) 沓篭(くつかご)などが主体で
青竹を手にした二人の先払いを先頭に 一定の順路で新見船川八幡宮と宮地町の御旅所を往復する
行列が通る沿道の氏子は 清めの盛り砂を作り 腰を低くして敬けんに出迎えをするが
当時のしきたり通り 大名行列に対し 座して通り過ぎるのを待つのみで 土下座の必要はないとされる
また この日は国税庁の特別許可を得て 八幡宮で造られたドブロクを御神酒として参詣者に振るまわれる
近代新見地域の商業の中心地として栄えた中町界隈の中核的な商家の一つ 明治末期の建物で 新見初の
百貨店として呉服をはじめ色々な商品を扱っていた 現在は新見市が借り受け「交流拠点施設」として利用
明治の建築物で 塩干物・酒や度量衡器販売修理等の商いをした なまこ壁が当時の豪商の凄さを彷彿させる


旧渡辺屋敷であるが 観光用に開放されている雰囲気は一切なし
新見藩の用人を務め商人との中継ぎをした 屋敷の前には惣門があった

16:45 散策終了 スーパーで夕食を仕入れて「道の駅・鯉ヶ窪」へ 移動距離:21.4km







