2015.08.15 島根県鹿足郡津和野町と山口県萩市福栄村
津和野
江戸時代は津和野藩亀井氏の城下町 山間の小盆地にまとまる町並みは 昭和40年代に「小京都」として
脚光を浴び現在に至っている 戦国時代の津和野は大内氏 後に毛利氏に仕えた吉見氏が支配した
そのため 関ヶ原の戦いまでは毛利領であり 長州藩との関係が深い地域である
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦で徳川方につき戦功を上げた坂崎直盛が三万石にて津和野藩を立てる
しかし 元和3年(1617)に家臣の謀反により殺害され 坂崎氏は断絶となった
翌 元和3年(1618)に因幡鹿野藩より亀井氏が4万3000石で移封され 明治の廃藩置県まで藩主をつとめた
製紙業が栄え 江戸中期には紙を専売とし新田開発を行うなど藩の財政は潤ったが 江戸後期には
災害と凶作が続き財政は悪化した 同じく江戸後期には藩士の教育に力が注がれ 藩校・養老館を創立している
最後の藩主となる11代・茲監は神道を信奉し国学の発展に力を注ぎ 幕末には勤王佐幕の間で中立を維持したが
近隣藩となる長洲藩士と思想的に同化し 長州藩と行動を共にする藩士も出て 結果的には新政府内に
人材を取り込まれ 藩主も含め神道・神国主義者の多くが 政府の神祇官となっている これが後の
明治政府によるキリシタン弾圧の伏線となったと思われる
慶応元年(1865)隠れキリシタンとして信仰を守り続けた浦上村の村民たちが フランスの要望で建てられ
日本人の立入を禁じられていた大浦天主堂に入り 司教にキリスト教徒であることを告げる
徳川幕府により250年以上迫害を受けたキリスト教徒の発見は 欧米のキリスト教世界に感銘を与えた
しかし 開国後もキリシタン禁制を続ける幕府により 約3400人のキリシタンが捕縛され拷問を受けた
慶応3年(1867)新政府によるキリシタン弾圧令により 最後まで改宗背教を拒む信者158名は各地に流罪となり
津和野藩には信徒の指導者達が預けられ 乙女峠の光琳寺で拷問を受けた
これは津和野が神道教育で隆盛を誇り 藩主茲監が神道による教道教化に相当の自信を抱いていたからであった
明治新政府の旧幕府をも凌ぐ迫害に対し 諸外国の激しい非難は大きく キリシタン弾圧が不平等条約改正の
大きな障害となっていることを 遣欧使節団が本国に打電したことから 漸く明治6年(1873)にキリシタン禁制は
廃止され 慶長19年(1614)以来259年ぶりに日本でキリスト教信仰が公認されることになった
後に新政府は明治5年(1872)日本の近代化に障害となる神祇省及び神祇官を廃止している
津和野では キリシタンを迫害し後に爵位を得た亀井茲監より 日本の近代教育に貢献した西周(にしあまね)と
近代文学者・医学者の森鴎外が 対外的に偉人とされる理由はここにある
太皷谷稲成神社
安永2年(1773)7代藩主亀井矩貞が京都の伏見稲荷大社から勧請し 三本松城の鬼門に当たる太皷谷の峰に
社を創建したのに始まる 一般庶民の参詣は廃藩後に可能となり 中国地方有数の稲荷神社となった
殿町散策
カトリック教会・藩校養老館跡・郡庁跡・津和野藩家老多胡家表門など多くの史跡があり
白壁土塀と水路に群れ泳ぐ鯉が美しい由緒ある町並みである
山口県萩市福栄の石州街道・福井市(ふくいいち)を散策
山口県阿武郡 福栄村(ふくえそん)
古代律令制によって阿武郡が成立 江戸末期には周防山口藩領1町48村7浦 周防徳山藩領2村により構成
明治4年(1871)山口県が発足 明治22年(1889)4月1日の町村制施行により 福井上・福井下・黒川村の
三村が合併して福川村が発足 紫福村は単独村制を敷く
昭和30年(1955)4月1日 福川村・紫福村が合併して福栄村が発足 平成17年(2005)3月6日萩市と合併
江戸時代に 萩から石州に至る街道の宿駅が 津和野と須佐の分岐点となる福井下村に設置された
金石山八幡宮から見る町並みは 昭和の中頃まで賑わいを見せていた