2011.05.05 福岡県北九州市門司区/山口県下関市 関門海峡を歩行と船で周遊

関門海峡

海峡の生成は 第四紀更新世後期の最終氷期(約7万年~1万年前)間の寒冷化により河川が発達したことに始まる
元々海峡付近には 中生代白亜紀後期(約9000万年前)に出来た花崗閃緑岩が分布しており
寒冷期に発達した河川が これらの岩石を侵食し洗い流して窪地が出来た その後 気候が温暖になり
海水面の上昇によって窪地に海水が入り込み海峡が出来上がったとされている

本州と九州を隔てる水路を大瀬戸 彦島と本州を隔てる水路を小瀬戸と呼ぶ
大瀬戸の最狭部は壇ノ浦・和布刈間で約650m 水深は最深部で47m 潮流は大潮時で最大10ノットを超える

古くは 下関の古名である「赤馬関」から馬関海峡と呼ばれていたが 長州藩では「赤間関」と表記され
後の明治新政府によって赤間関の関と門司の門を組み合わせ「関門海峡」と命名された
因みに門司の由来は 律令制下で長門国の長門関に対し豊前国に門司関(もんしせき)が設置されことによる

近代化以前の船渡しは潮流を利用するため 山陽道の終点である永福禅寺下の観音崎と現在の門司港ではなく
南部に位置する現・門司駅周辺にあった大里(宿)の間で 潮流方向に合わせ交互に出航したと思われる
大里の由来は 屋島の戦いに敗れた平氏が安徳天皇の「柳の御所」を構えたことに由来し 元は内裏であったが
江戸時代の享保年間(1716-1736)に大里に変更された 明治24年(1891)4月1日 九州鉄道により門司駅及び
大里駅が開業され 明治34年(1901)5月27日には関門連絡船の運航が開始された 明治40年には国有化され
早くも明治44年(1911)10月からは 下関-小森江間で貨車の車両航送を開始 門司駅は旅客が中心となった
昭和17年(1942)4月1日 門司駅が門司港駅に大里駅が門司駅に改称 7月1日には関門鉄道トンネルが開通した
同日関門航路の貨物車輸送を廃止 関門航路も昭和39年(1964)11月1日に廃止された

関門トンネル(国道トンネル)は 昭和14年(1939)5月に本坑掘削に着工し 昭和19年(1944)12月に貫通
しかし地質の悪さと戦禍による工事中断を経て 昭和27年(1952)に再開され 昭和33年(1958)3月に開通した

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1. 和布刈神社 2. 関門トンネル人道門司口 3. 関門トンネル人道下関口 4. みもすそ川公園 5. 唐戸桟橋
…<関西汽船>… 6. 門司桟橋 7. 門司駅 8. 九州鉄道記念館 …<門司港レトロ観光線>… 9. 関門海峡めかり

<Link:関門海峡・浪漫マップ>

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福岡県北九州市門司区門司 和布刈神社
九州最北端に佇む神社で 社伝によれば 仲哀天皇9年(200)に神功皇后によって創建されたと伝わる
祭神は 天照大神の荒魂 撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキ イツノミタマ アマサカルムカツヒメ)である
別称を瀬織津姫(セオリツヒメ)という月の女神で 穢を祓う禊の神 潮の満ち引きを司る導きの神とされる
創建以降 海峡の守護神として 時代々々の武将などの崇敬を集めた
毎年旧暦元日の早朝に行われる和布刈神事(めかりしんじ)は 横代湯立神楽が奉納された後
3人の神職が 干潮の海に降りてワカメを刈り採り 神前に供えて航海の安全と豊漁を祈願するもので
福岡県指定の無形民俗文化財に認定されている
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関門トンネル人道門司口
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エレベーターの表示は 地上と地下
人道トンネル内の県境
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自転車も原付も 全て歩行が決まり
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関門トンネル人道下関口
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大瀬戸の最狭部 早鞆ノ瀬戸 水路幅約650m  京都市下京区へ通じる国道9号線と壇ノ浦
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海峡を行く 大型航海練習帆船 日本丸Ⅱ世号
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文久3年(1863)及び同4年(1864)の二回にわたり外国船への砲撃に使われた長州砲のレプリカ

一般的に下関戦争と言われるが 特に1864年の砲撃戦を馬関戦争と言う
当時並外れた外国嫌いであった孝明天皇の強い要望により将軍家茂は 文久3年5月10日(1863)をもって
攘夷実行を約束したが 徳川幕府による軍事行動を起こすことはなかった
しかし攘夷思想が蔓延する長州藩では 海峡を封鎖するため通過する外国船への無通告砲撃を行った
約半月を経て 米・仏の軍艦が海峡内に停泊中の長州軍艦に対し報復砲撃し長州海軍に壊滅的打撃を与えた
しかし長州藩は砲台を修復し また九州内の小倉藩領の一部を占拠して新たに砲台を築き海峡封鎖を続行した
翌元治元年(1864)英仏蘭米の4カ国から成る17隻の連合艦隊による艦砲射撃によって
8月5日から7日にかけて 馬関と彦島の砲台が占拠され徹底的に破壊された
戦後処理として長州藩は幕命に従ったのみと主張し 4カ国に対する300万ドルに及ぶ損害賠償金は
幕府が負担し半金の150万ドルを支払い 明治新政府は不足残額分を明治7年(1874)まで分割で支払った
江戸城の無血開城後 御金蔵が空っぽであったと新政府は嘆いたが 過剰な攘夷論による自業自得に終わった
以後長州藩は 攘夷思想を緩和し武力での攘夷を放棄した上で 外国から知識や技術の導入を図ることになる

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関門橋の見える平家茶屋で昼食
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みもすそ川公園 サンデン交通バスで御裳川から唐戸まで移動
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関西汽船唐戸ターミナル 下関・唐戸桟橋
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巌流島上陸ツアー船
巖流島の正式名称は船島で 所在地は山口県下関市大字彦島字船島648番と島全域が同じ番地の無人島である
慶長17年(1612)4月13日 宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われた
島の面積は 近代以降の埋立により武蔵と小次郎の決闘時と比べ約6倍の面積となっている
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マリンゲート門司1号桟橋 唐戸-門司港間 所要時間:5分 運賃:400円
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関門連絡船時代の九州玄関口・門司港駅
初代・九州鉄道株式会社の距離程元標「0哩ポスト」のある始発門司駅として明治24年(1891)4月1日に開設開業
初代の駅舎は現在の門司駅舎の東側で 現・北九州銀行門司支店の裏手にあり九州鉄道記念館となっており
今も旧0哩ポストの記念碑がある 明治34年(1901)5月27日に関門鉄道連絡船の運航が開始されたが
明治44年(1911)10月から下関-小森江間で貨物車両の航送が始まり 当駅を経由するのは旅客が中心となった
大正3年(1914)に現在の駅舎が完成し 昭和17年(1942)に関門トンネルが開通し門司港駅に改称された
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九州鉄道記念館
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嘗ての門司港-田野浦間の貨物専用線跡を利用した門司港レトロ観光線トロッコ列車
九州鉄道記念館から関門海峡めかり駅まで運行
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和布刈トンネルでは天井が光る
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関門海峡めかり駅を発車するトロッコ列車
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関門海峡めかり駅に入るトロッコ列車

電気機関車 EF301
製造年月日 昭和35年3月16日  製造所 三菱電気新三菱重工
最大長:17.8m 最大幅:2.8m 最大高:3.53m 重量:96.0t

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昭和36年(1961)6月に鹿児島本線・門司港-久留米間の交流電化が完成した 同時に山陽本線の
小郡(新山口)-下関間の直流電化も完成し交直電化の接点が関門トンネル九州側入口の
門司駅構内になったため 同区間を直通して使用できる関門トンネル専用の交直両用電気機関車として
開発されたのがEF30型である また 本型式は世界初の量産型交直流電気機関車であり
ここに展示されているのは試作車の1号機である
なお 市内門司区九州鉄道記念館に展示しているのは弟分のEF1035号機で 両機ともに北九州市にとって
由緒ある電気機関車と言える 当時のイメージを再現するために同時期に活躍していた客車を連結させている
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休憩所カフェ 客車オハフ33-488 製造:昭和23年3月 日本車輛 長さ19.5m 幅2.9m 高さ2.86m 重量31t
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長大なプラレールのイベント
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夕刻 川のように流れの速くなった海峡 潮待ちで船の姿はない 今も昔も難所である
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