2010.05.30−31 鳥取県・島根県 石橋巡りの旅

29日夜に奈良を出発 山陰周りで九州まで帰る 車はジムニー 宿は松江アーバンホテルに一泊

2010.10.30 岡山県真庭市蒜山西茅部郷原 茅部神社 日本一の石造鳥居

文久3年(1863)建造 真庭市指定文化財 建造物 茅部神社の大鳥居
安政7年(1860)正月、茅部神社の氏子石賀理左文、友金宇平は、近江の多賀大社に参拝した時、同神社の
石鳥居が日本一だと聞き、これより大きいものを地元に造り日本一にしようと考え、実測して帰つた。
三年後の文久3年(1863)にその願いを果たしたという。石材は茅部神社のある岩倉山の花崗岩である。
石工は、伯老国倉吉(現倉吉市)の横山直三郎、郷原在住の米倉鉄造の二人が腕をふるったようである。

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AM 9:07

二本の柱と笠木・島木・貫・額束で組み立てた明神型鳥居で、柱は地中に基礎をつくって下部を深く埋め
地上の長さ約11.45m、直径約1.20m、下部約3mを別石で十二角に仕上げ、その上に円柱を継ぎ接合点は
鉄の鎹でとめてある。地上から笠木の上端までの全高約13.8mであったが、
何度かの補修で下部を埋め立てたため、現在の大きさは次のようになっている。
高さ:10.65m(過去最高13.8m) 幅:14.20m 貫下:7.20m 柱直径:1.02m

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右柱に明治十九年八月の修理日付 左柱に文久三年亥十一月の建立月が刻まれている

鳥取県倉吉市 打吹玉川(うつぶきたまがわ)石橋群と赤瓦白土塀

室町時代に山名氏による伯耆国守護所の館(城)が打吹山に築かれ 山麓に町屋が形成されたのが始まりである
秀吉の天下統一後は湯梨浜の羽衣石城を拠点とする守護大名・南条氏の支配となり城と城下町が整備された
関ヶ原の戦いで西軍についた南条氏が改易され倉吉は米子藩領となったが
慶長14年(1609)の中村氏改易後は天領とされた 慶長19年(1614)に安房館山から安房里見氏が
倉吉に移封され倉吉藩が立てられたが 幕府による事実上の配流であり「支配」とは言い難いものであった
元和3年(1617)池田宗家の光政が鳥取藩主として入封し6万石から32万石まで藩領が加増され
倉吉は鳥取藩の所領となった 寛永9年(1632)宗家光政に替わり 岡山藩池田宗家から独立し松平姓と葵御紋を
下賜された准家門の池田光仲が鳥取藩主となって家老の倉吉荒尾氏の封地となった
自治の許しを得た荒尾氏は 打吹山麓に陣屋を設け倉吉を治め以降は商工業の中心として繁栄した
陣屋の跡地は現在「成徳小学校」となっている

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11:15 打吹玉川と白壁蔵造りの家屋
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鳥取県倉吉市新町 浄土宗 法界山 大蓮寺 弁天参道橋と山門 養老年間(717年〜723年)創建の勅願寺
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大蓮寺境内 倉吉七福窟 銭洗大弁天
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打吹公園通りの倉吉橋を過ぎると赤瓦白壁通り
赤瓦12号館 久和の入口橋
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打吹玉川(伝統的建造物群保存地区)は陣屋跡の北方に位置し 江戸初期から大正まで商業都市として栄えた
本町の石州瓦の町家群や玉川沿いの土蔵群など 約100棟の江戸末期から昭和までの伝統的建造物が現存する
平成10年(1998)に重要伝統的建造物群保存地区として4.7haが選定され
平成22年(2010)には既選定地区の西に位置する西仲町・西町など4.5haが追加選定された

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倉吉市研屋町(とぎやまち) 砥屋橋から西側 玉川堀
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11:37 倉吉市魚町 国立第三銀行 明治41年(1908)建築

鳥取県西伯郡大山町松河原(まつがわら) 逢坂八幡神社

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13:26 逢坂八幡神社 神門と石橋
貞観7年(865)大分県宇佐八幡宮を勧請 大阪八幡宮と号した 戦国大名の尼子氏の信仰庇護を受けた
下って大正時代に 松河原神社・岡神社・殿河内神社を合祀し 社号を逢坂八幡神社と改めた

鳥取県西伯郡大山町御来屋(みくりや) 御来屋住吉神社
御来屋の地名は伊勢神宮の御厨(ミクリヤ)に由来し 元弘2年(1332)隠岐島に流刑となった後醍醐天皇が
元弘3年(1333) 名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出したおり 着船地・腰掛岩などの伝承から
御来屋になったといわれる 近世では山陰伯耆街道の宿場町となり 港には藩倉が置かれた

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13:44 住吉神社 二の鳥居 参道は浜まで通じ 旧山陰道に面して一の鳥居と神門がある

島根県松江市八幡町(やわたちょう) 平濱八幡宮

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15:27 出雲国最古の八幡宮
八幡町は 京都石清水八幡宮の社領で「平浜別宮」と呼ばれ 石清水八幡宮の社家の支流が奉斎していた

島根県松江市外中原町 浄土宗 歓喜山 月照寺

元は洞雲寺(とううんじ)という禅宗の荒寺であったが 初代松江藩主・松平直政公によって母・月照院の
霊牌安置所として寛文4年(1664)に 浄土宗の長誉を開基として寺を再興したのが始まり
当初は蒙光山(むこうさん)としていたが 二代目藩主の綱隆が父の遺命により境内に廟を造り
山号を「歓喜山」に改め 以後は九代藩主までの菩提寺となった
平成8年(1996)に「松江藩主松平家墓所」として国の史跡に指定された

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16:18 松江初代藩主松平直政公墓所
書院 高真殿横の土蔵
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直政公墓所廟門と墓所参道橋
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紫陽花と石橋 「あじさい寺」として有名
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唐門
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庫裏門と書院 右は宝物殿
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書院庭園の石橋
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2010.05.31 島根県松江市八雲町熊野 熊野大社

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AM 8:21 熊野大社

出雲大社と共に出雲国一宮であるが 歴史は出雲大社よりも古い 祭神は櫛御気野命(クシミケヌノミコト)で
素盞嗚命(スサノオノミコト)と同一神とされている
「クシ」は「奇」 「ミケ」は「御食」の意であり そのことから食物神とする説が通説となっている
紀伊国の熊野三山は この熊野大社を紀伊国に勧請したという説と全くの別系統とする二通りの説があり
社伝では熊野村の住人が紀伊国に移住したときに分霊を勧請したのが熊野本宮大社の元であるとしている


島根県出雲市大社町杵築東 出雲大社

出雲国一宮 旧官幣大社  祭神は大国主大神(オオクニヌシノオオカミ)
正式名称は「いずもおおやしろ」であるが 一般名称では「いずもたいしゃ」と読まれる
縁結びの神様として全国に名を馳せる 旧暦における10月の神無月は ここ出雲国では神在月と言い慣わし
全国津々浦々より八百万の神々が集まり神議が行われる
他神社では 二礼二拍手一礼の作法が一般だが ここでは二礼四拍手一礼の作法で礼拝する
主祭神は 拝礼する側から見て左向きに御坐し 我々は正面客神を拝することになる 大注連縄は逆ねじり
逆向きに付けられていることから 結界を張って大国主大神を幽閉していると見る説が有力である
古代の社は 非常に高く造られていたなど 今なお謎の多い神社である
昭和26年(1951)出雲大社と宗教法人出雲大社教(イズモオオヤシロキョウ)が合併し
大社の職員は教団職員を兼務 大社宮司は出雲国造として出雲大社教を総攬し
教団の教務本庁は 出雲大社の教務部として活動している

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11:00 出雲大社神楽殿
元来の神楽殿は 千家國造家の大広間として使用され風調館(ふうちょうかん)と名付けられていた
明治の出雲大社教設立からは出雲大社教の神殿としても使用され 國造家大広間および
出雲大社・出雲大社教の神楽殿として 御祈祷や結婚式など様々な祭事や行事が執り行われている
昭和56年(1981)の出雲大社教設立100周年に 規模を拡張して建て替えられ広さ270畳の神楽殿となった
大注連縄は 長さ約13m 重さ5.2トンに及び 数年に一度 新しい注連縄へ懸け替えられる
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出雲大社 神楽殿と西参道橋

出雲教 北島国造館

出雲教(いずもきょう)は 出雲国造・北島家の主宰する神道教団である
大国主命を主祭神として 天穂日命を教祖 造化三神・天照大神・産土神を併神とする
初代教主は北島脩好であり 以降、北島家の当主が教主を継ぐ

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出雲大社参道

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幸魂 奇魂(さきみたま くしみたま)
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藤棚
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手水舎
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出雲大社参道

島根県出雲市平田町 一畑電車株式会社

明治45年(1912)4月に一畑軽便鉄道株式会社を設立 後にこの鉄道が一畑電気鉄道の母体となった
大正3年(1914)4月 出雲今市駅〜雲州平田駅間開業 大正4年(1915)2月 雲州平田駅〜一畑間を全通開業
大正14年(1925)7月 社名を一畑軽便鉄道から一畑電気鉄道に名称変更 昭和2年(1927)全線電化
昭和3年(1928)4月 北松江線・小境灘(現・一畑口駅)〜北松江(現・松江しんじ湖温泉駅)間を開業
昭和05年(1930)川跡〜大社神門(現・出雲大社前駅)間を開業
昭和29年(1954)出雲鉄道・島根鉄道を吸収合併 後に廃止 昭和35年(1960)一畑口〜一畑間を廃止
昭和35年(1960)10月 一畑パーク開園 昭和54年(1979)8月 一畑パーク閉園
平成18年(2006)4月 一畑電気鉄道を持株会社とし 鉄道事業を新設の一畑電車株式会社へ移管

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無人の一畑口駅舎
一畑薬師へ続く線路跡には草が生い茂る
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スイッチバックの一畑口駅ホーム 松江・大社方向
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一畑口駅
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スイッチバック 左:松江 右:出雲市大社
出雲市発の3007号到着
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松江しんじ湖温泉発の3016号到着
松江方面 10:03発 3007号
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出雲市行き3016号は10:04発で待機乗車中
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11:46 一畑電車 出雲大社前駅 近代土木遺産のRC建造物
昭和5年(1930)2月2日 川跡から出雲大社参道の神門通りまで 営業距離8.3kmを開業するに伴い
終着駅の大社神門駅として開業した 昭和45年(1970)10月 現駅名の出雲大社前に改称
小規模の建物ではあるが 当時としては先端的とも言える鉄筋コンコンクリート造の平屋建で
セセッション風屋根を直交させ 下部の軒線を強調して その上にステンドグラス風の窓を設けた
アール・デコを思わせるモダンな造形で 類を見ない特異な外観を持つ駅舎として親しまれている
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昭和3年(1928)日本車両製 デハニ50形・52号 平成21年(2009)に現役引退
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デハニ50形52号運転台

島根県大田市 世界遺産 石見銀山

戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山であった
最盛期には日本が世界の銀の約1/3を産出していたと推定され その産出量の多くを占めた銀山である
大森銀山とも呼ばれ江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん)とも呼ばれていた
明治期以降は枯渇した銀に代わり銅などが採鉱されたが
昭和18年(1943)に水害で坑道が水没する大打撃を受け完全閉山となった

平成19年(2007)7月2日 世界遺産(文化遺産)に登録された
一般に銀山開発においては精錬のため大量の薪炭用木材が必要とされ森林伐採など環境負荷が大きいとされるが
石見銀山の特徴である「山を崩したり森林を伐採したりせず 狭い坑道を掘り進んで採掘するという
環境に配慮した生産方式」を積極的に紹介することにより 今日に至るまで銀山一帯には広葉樹などを含む
森林が残されてきている点が特に評価された 同年には日本の地質百選にも選定された

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14:35 観世音寺門前の高台から町並みを展望する
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石見銀山森町の家並み
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石見銀山 羅漢町橋
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羅漢町橋
五百羅漢
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石見銀山 五百羅漢橋
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15:14 石見八幡宮
保元3年(1158)石清水八幡宮荘園大国保の守護神として勧請される
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15:41 島根県江津市黒松町 山陰本線黒松駅南のアーチ橋
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