2024.11.06 熊本県阿蘇郡南小国町大字満願寺 瀬の本松並木
掲示板より転載(一部編集) 瀬の本松並木の由来
瀬の本高原に残る古い松並木は、小国郷(小国・南小国)の東端に位置し、藩政期は小国郷と久住・大分鶴崎を
結び、遠くは大坂・江戸へつながる日田往還(小国街道・ 久住街道)に沿って植えられたものの一部である。
江戸時代、久住・野津原・鶴崎は肥後細川藩に属し、北里・久住手永の会所は小国宮原に置かれ、
熊本から郡代が派遣されていた。 当時九州と瀬戸内海航路を結ぶ発着港は、豊前小倉と豊後鶴崎の二港のみで、
この街道は日田から小国、黒川を経て久住宿へ通じ、久住宿からは豊後街道を通り鶴崎に至る重要路線であった。
幕府が天領日田に置いた永山布政所の西国筋郡代がこの街道を通り、また長崎奉行や柳川藩の
参勤交代の行列も通過した。 小国郷には温泉が多く、その中でも黒川・田の原・杖立の温泉地には
湯亭のある「お客屋」が置かれ、頼山陽(文政元年)や田能村竹田、芭蕉の門人らが旅の疲れを温泉で癒した。
また、小国郷北里に生まれ、医学界で世界的業績を遺した北里柴三郎が、明治7年(1874)に志を立て
東京に出たのも、この街道を通り大分鶴崎からである。
松並木は街道の目印になるばかりでなく、風光を添え憩いの木陰となり、阿蘇の噴煙を眺め、
季節の風物を観ながら行き交う旅人の心を大いに和ませてくれたことであろう。
瀬の本松並木を守る会 南小国町教育委員会
5.阿蘇くじゅう高原ユースホステル 6.瀬の本高原ホテル 7.小田川

街道の並木に松や杉といった常緑樹が植えられるのは 夏は強い日差しから 冬は木枯らしや風雪から
旅人を守るためとされる 記録では江戸幕府開府の翌年に 東海道を始めとする五街道に植樹したのが始まり
当初は街道を行き交う役人や大名行列に対する 中央政府である幕府の施策だった
日田代官も小国郡代も幾度となく往来したことであろうこの久住往還は、当時小国から鶴崎に通じる
重要路線であった。 また、この場所には、黒川の湯宿の有志の手により茶小屋が建てられ、この久住往還を
往来する人々の休息の場所ともなっていた。 この辺り一帯が茶屋の原と呼ばれているのもその名残である。
旅人は元より、日田代官や小国郡代、時には細川藩のお役人も渋茶をすすりながら阿蘇の噴煙を賞でたり、
付近の風物を楽しんだりしたことであろう。 遠い昔からほぼ原風景をとどめたままのこの地で、
僅かの一時でもあなたの思いを、往時の旅のひと駒に馳せられんことを!
瀬の本松並木を守る会 南小国町教育委員会
この辺りは大半がクヌギ・ナラなどの「どんぐりの木」に変わっている
今日の予定は 阿蘇展望所巡りと白川水源であったが PM2.5と水蒸気の影響で「霞」が強く急遽取り止め
とりあえず道の駅阿蘇で車中泊をするため 阿蘇一宮を目指す
2024.11.07 熊本県阿蘇市一の宮町 国造神社(こくぞうじんじゃ)と阿蘇神社
一の宮町手野(ての) 国造神社
旧官幣大社阿蘇神社の北方に鎮座するため北宮とも称される延喜式内社 旧社格は県社
肥後国には 当社を含め阿蘇比咩神社・阿蘇神社・疋野神社と共に四社が延喜式神名帳に記されており
肥後国における最も古い神社のひとつに数えられる 明和9年(1772)に成立した肥後国誌には
第10代崇神天皇の御代に 速瓶玉(はやみかたま)が肥後国造に任命され 第12代景行天皇の御代18年(88)に
国造神社を修造し祭典を整えたと記されている
速瓶玉は 父である阿蘇神社に主祭神として祀られる健磐龍(たけいわたつ)と共に 阿蘇の地を開拓し
農耕や植林などを指導したと伝わる 国造神社の祭神は 初代阿蘇国造の速瓶玉命を主祭神とし
妃の雨宮媛命および第二子の高橋神・第三子の火宮神の四柱が祀られる
現社殿は寛文12年(1672)に熊本藩3代藩主細川綱利によって造営され 後の明治5年県社に列した
古来より五穀豊穣・雨乞い・害虫消除など 霊験あらたかな農業神として崇敬される
阿蘇神社と国造神社の神紋は「違い鷹の羽」で阿蘇氏の家紋でもあった 後に菊池氏の並び鷹の羽の元となった
戦国期以降多くの大名家や旗本の家紋に引用されたが 全て丸で囲む図案とされることから
阿蘇神社に対する遠慮や忖度があったものと思われる
境内社の鯰(ナマズ)社
健磐龍命が阿蘇の火口湖を立野の火口瀬を蹴破り干拓された時、大鯰が出現、阿蘇谷半分をかけて横たわっていた。
命が鯰に向かい「多くの人々を住まわせようとして骨折っているが、お前がそこに居ては仕事も出来ぬ」と言うと、
鯰は頭をたれて命に別れを告げるように去っていったと伝えられている。
命はその湖の精であった鯰の霊をまつると同時に鯰を捕ることをかたく禁じられた。
祭神が俺の霊ということで、皮膚病ことに「なまず肌(尋常性白斑病)」に霊験があり、
今でも全快すると鯰の絵を書いて、神社に奉納する風習が残っている。
手野のスギ
元国指定天然記念物 指定:大正13年12月 解除:平成12年9月 昭和45年測定値:高さ約48m 幹囲約11m
このスギは、ここ国造神社の主祭神 速瓶玉命のお手植えの神杉として伝えられ、県下でも最大級の巨木であった。
昔は「手野の神杉」、「手野の二本杉(夫婦杉)」といい、2本あったというが、男杉は文政年間(1818-30)に
雷火により伐採され、この女杉だけが残っていた。 現在、男杉の株痕横に、天保2年(1831)に
植えられたという杉がある。 これは男杉の古株から生じたヒコバエを植えたものといわれ、
「神杉 天保二年 御郡御目附中村荘右衛門 植之」と刻んである植杉碑が建てられている。
また、伐採された男杉は香りが高く、その一部を御笏の材料として
仁孝天皇に献上したところ、おほめの言葉を頂いたとも伝えられている。
平成3年の台風19号により地上約11m付近から主幹が折損した。 そのため保存を第一として土壌改良等
懸命な養生作業を行ったが、やむなく枯死してしまった。 残念ながら国の指定は解除となったが、
地元にて「手野の大杉保存事業期成会」を立ち上げ、折れ残った地上2.5mから7mを切断し、上屋をかけ
平成14年に現在の姿となった。 元国指定にふさわしく堂々とした貫禄の杉で、神の鎮まる神域を感じさせる。
平成17年11月 阿蘇市教育委員会

一の宮町宮地(みやじ) 阿蘇神社
延喜式内社 旧社格は官幣大社 肥後国一宮 全国に約450社ある阿蘇神社の総本社である
社伝によれば 孝霊天皇9年(BC282)に初代阿蘇国造の速瓶玉が 両親である健磐龍命(たけいわたつのみこと)
および 妃の阿蘇都比咩命(あそつひめのみこと)を祀ったのが始まりとされ 代々阿蘇氏が大宮司を務める
現在は12宮(柱)の神を祀る 主祭神は健磐龍命・阿蘇都比咩命の2柱 配神として國龍神・彦御子神(阿蘇惟人)
新彦神・若彦神の男神4柱 男神の妃および娘である比咩御子神・若比咩神・新比咩神・彌比咩神の女神4柱
諸神殿に健磐龍命の子である速瓶玉神と同叔父にあたる金凝神(第2代綏靖天皇)を祀る
中世以降に肥後国一宮となり崇敬を集め広大な社領を有したが 秀吉の九州平定の際に没収され
改めて天正15年(1587年)に300町の社地が寄進された その後江戸期を通じ熊本藩主から社領の寄進や社殿の造修など
手厚い保護を受けた 明治4年に国幣中社となり大正3年に官幣大社となった
平成28年(2016)4月の熊本地震により 楼門と拝殿が全壊・境内の神殿も3箇所が損壊した
その後保存復旧工事が始められ2024年度中に全ての復旧工事が完了する予定である
宮地の朝日屋精肉店で赤牛肉を買って帰る 自宅には昼過ぎに到着







