2024.05.15 福岡県北九州市門司区 白野江植物公園・部埼灯台・和布刈公園
福岡県北九州市門司区新門司北3丁目 津村島
阪九フェリー・オーシャン東九フェリー・名門大洋フェリー・東京九州フェリーの埠頭がひしめく新門司港の
埋立地の中に ポツンと一つの島が周りの海と共にまるごと残されている これが津村島である
かつては今津の沖合1kmの位置にあり 明治の一時期を除いて無人の島であったが
対岸の住民たちが 古くから海の恵みへの感謝を捧げ 魚漁の安全を祈願してきた津村明神社が島内にある
今も年に一度 島に集い祭祀を執り行っている
島の大半が石灰岩で覆われ 明治後期には新門司地区一帯で石灰採掘が盛んに行われ 津村島でも39戸約200人が
居住し石灰石を掘っていたと伝わる 周囲約350mの池は採掘跡の大穴に海水が入ったものである
昭和37年(1962)新門司臨海工業用地造成着工 昭和47年度(1972)の計画では津村島周辺まで埋め立てる
計画であったが 津村明神社と石灰石採掘場跡を含む島本体そのまま残すことに行政側と住民側が同意した
津村島防波堤(一部分)と係船柱 <掲示板より>
津村島周辺が埋立整備される以前は、津村島へ渡る手段は舟のみでした。 舟でこの島に訪れる人々は、
この防波堤に舟を係船し、島内に入っていきました。 この歴史的遺産を保存しつつ、新たに活用するため、
現在は、津村島内の管理用道路としてリニューアルしました。 なお、正面にある石柱は、当時、防波堤に
設置されており、舟を結び付けておく係船柱として利用されていたものです。
神様の恋(津村島にまつわるお話)
昔々、まだ神様がこの世を治めておられた頃、 津村島の姫神様である『津村明神』様は、たいそう美しい神様で、
年頃になら れると、方々の男神様達から降る様な縁談の話があり、困っていました。
中でも現在の門司区大積沖にある『蕪島』の男神様と苅田町沖にある『神島』の男神様が大変熱心でした。
二人の男神様はお互いに『私こそが、津村明神の夫にふさわしい』と一歩も譲りません。 津村明神様を間に、
睨み合う始末です。 しかし、いつまでも睨み合っているわけにもいかず、お二人で相談された結果、
得意の武術で試合をして、勝った方の男神様が津村明神様を妻に迎えるという取決めをなさいました。
いよいよ試合の当日、神島の男神様は弓を携え、蕪島の男神様は大降りの太刀を携えて試合が始められました。
まず、神島の男神様は自慢の弓を力の限り引き絞って、放たれました。 矢はぐんぐんと伸び、蕪島の
真ん中を射抜いて、白野江の浜にぐさりと刺さりました。 今でも蕪島には大きな穴がポッカリと開いています。
さて、一方蕪島の男神様は力任せに太刀を振り下ろし、今の苅田沖、太刀の浦にまで届きました。
今でも松山岸にはその時に ざっくりと削りとられた跡があるそうです。 そういう具合で、
なかなか勝負がつきません。 美しい島や岸のあちこちを削り取ったり、穴を開けたりするばかりです。
いかに恋の争いとはいえ、神様がなさることではないと、曽根沖の間島神様がまあまあと仲に入られて、
結局津村明神様は蕪島の男神様のお嫁さんになられました。
また、仲に入られた間島神様には津村明神様に優るとも劣らぬ美しいお姫様がおられたので、この姫神様が
神島のお嫁さんに なられました。 これでやっと四方丸く収まり、 新門司の海には平穏な日々が戻りました。
出典: 民話と伝説マップ 北九州むかしばなし <第二集>
石灰岩の採掘
津村島は石灰岩からなる島であったため、明治40年頃より採掘が行われておりました。 遠くは広島県よりこの島に
移住してきており、石灰製造業や採石業者として39戸200人余りが住んでいたとされています。 当時は発破音等で
随分にぎやかであったようです。 現在は、採掘によってできた大穴に海水が流れ込み大きな池となっています。
(出典: 門司郷土叢書刊行会編 門司郷土叢書 第9巻 国書刊行会)
大潮 満潮時に海水が流れ落ちる現象
新門司2期埋立により、津村島周辺は現在のように水面を残す形で整備されました。
そのため、外海と内海では潮の干満にタイムロスが発生するようになり、大潮の満潮時には外海から内海へ
水が流れ落ちるように流入してくる現象が見られるようになりました。
明治39年、今津浦の漁師達に漁業許可を出した際の漁業範囲の基点として利用されていました。
新門司2期埋立事業でも地元の方々のシンボルとして残してほしいとの要望が強く、
現在のような形状となっています。(出典: 松ヶ江村覚書その7 漁業誌 松ヶ江郷土史会)
阪九フェリーやオーシャン東九などと同じSHKライングループに属す 2019年4月に設立 2021年7月1日就航
通常運行時に係留される船が見られるのは 21:00から23:55の夜間か運休日である日曜・祝日の昼間である
福岡県北九州市門司区白野江二丁目 白野江植物公園
昭和8年(1933)から山林の開墾が始められ 昭和27年(1952)頃 民間一個人の植物園「四季の丘」として
一般公開され約40年間親しまれてきた 平成5年(1993)に北九州市に買取られ 約3年間に及ぶ整備改修を経て
平成8年(1996)4月に「北九州市立白野江植物公園」と改め開園した 園内には60種800本の桜があり
桜の名所となっている なかでも樹齢400年の「白野江のサトザクラ」は 福岡県の天然記念物に指定されている
その他 ツツジ・アジサイ・ショウブ・シャクナゲ・サザンカなどが咲き 秋の紅葉と合わせ
四季それぞれの彩りにあふれる公園である
また 無料で使用できる休憩処は 昭和11年(1936)に竣工した築80年を超える材木商の邸宅で
主たる部屋にはそれぞれ床間を備え 檜の柱・桜の一枚板を使った階段・欄間の細工など目を見張るものがある
入場券 一般300円・小中学生150円(団体割引あり) 休園日は毎週火曜日と年末年始
但し 2月~6月・9月~11月は無休となっている 駐車料金は300円
しかし まだまだモミジやサクラなど新緑の季節で美しい 私は 秋よりも春のモミジが好きである
漢名の「石南花」を日本語で「しゃくなんげ」と読み それが訛って「しゃくなげ」となったと言われている
ツクシシャクナゲは 紀伊半島以西の本州・四国・九州の山地などに自生分布する
花言葉は 威厳・荘厳 他に警戒・危険という花言葉もある
和名の蛍袋は 子どもが花にホタルを入れて遊んだことに由来する また「火垂る袋」意味から提灯花の名も
その他に釣鐘草(ツリガネソウ)の名があり 花色も赤紫色の他 白い花色のものもある
花言葉は 正義・忠実・愛らしさ・貞節
野生のものは準絶滅危惧種に指定 しかし栽培種か自生種かの見極めは困難である
花言葉は あなたを忘れない・変わらぬ愛・美しい姿
原産地は カナダ南部からアルゼンチン北部に及ぶ南北のアメリカ大陸 17世紀頃欧州に伝播し世界に広まる
花言葉は 「尊敬しているが恋愛ではない」の他
「知恵の泉・優秀・熱狂・快活・淋しい思い出・ひとときの幸せ・尊厳・尊敬・尊び・貴ぶ」など数多い
東北アジア(シベリア・モンゴル・中国)原産 日本への渡来は古く薬用および鑑賞用に栽培された
芍薬の花言葉は「恥じらい・はにかみ・つつましさ・謙遜」だが 花色による花言葉もある
世界中の旧称亜熱帯地域に分布し 2本の「世界の侵略的外来種ワースト100」に選定されている
シベリアから日本にかけ分布し 万葉集にも歌われ古代に愛された花
杜若 衣(きぬ)に摺り付け 大夫の(ますらをの) 着襲(きそい)ひ猟(か)する 月は来(き)にけり
大伴家持作 意:かきつばたを 衣に摺り付けて 大夫が着重ねて狩りをする そんな月(季節)が来ました
欧州・西アジア原産の帰化植物 明治頃に観賞用として導入され後に野生化 環境省の要注意外来生物に指定
中世より「卯の花」と呼ばれ 初夏のシンボルとされ歌に詠まれてきた 万葉集の24首に「卯の花」が登場する
卯の花の 咲くとはなしに ある人に 恋ひやわたらむ 片思にして
作者不明 意:卯の花のようには 明るく振る舞ってくれないあの方に 恋し続けるのかなぁ 片想いのまま
空木の花言葉は 秘密・古風・風情・乙女の香り・再生・新しい始まり
中国原産 室町時代に観賞用として移入され 強風を防ぐという迷信で農家の茅葺の棟に植える風習があった
英名のひとつが<roof iris> また学名の<tectorum>も屋根の意味 アヤメ科で一番先に咲くので「一初」
花言葉も 火の用心
原産地は 南米大陸のブラジル・ウルグァイ 繁殖力が強く 耐寒・耐暑にすぐれ病害虫にも強く管理が容易
スイレン科スイレン属 学名:Nymphaea 世界中に分布し約50種の睡蓮が確認されているが
日本国内に自生する睡蓮は未草(ヒツジグサ)のみである 未草は西洋睡蓮に比べ花弁が少ないのが特徴
睡蓮の園芸種は多く また広く栽培されているため本来分布していない地域にも帰化繁茂して環境の悪化や
未草など自生種の生育を阻害する 日本では睡蓮の園芸種は生態系被害防止外来種の重点対策外来種に指定され
繁殖力の強い外来の睡蓮や園芸種の除去が呼びかけられている地域もある
福岡県北九州市門司区大字白野江 部埼灯台(へさきとうだい)
慶応3年(1867)4月 幕府は英国との間で結んだ大坂条約の中で 明石海峡の淡路島江埼 紀淡海峡の友ヶ島
関門海峡の部埼 下関の六連島 兵庫和田岬の瀬戸内航路および港に関する洋式灯台5基の建設を確約した
同年10月の江戸徳川幕府による大政奉還により 明治新政府が条約の履行を引継いだ 兵庫開港を急ぐ政府は
英国人技師のリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により 瀬戸内航路の入口となる
九州最北端・企救(きく)半島の部埼に石造灯台を竣工した 初点灯は明治5年(1872)1月22日である
当初は石油ランプと固定レンズであったが 明治28年(1895)にフランス製の回転式のレンズに改められた
明治42年(1909)8月 下関の竹ノ子島台場鼻と門司側の部埼に潮流信号所が設けられ腕木式信号機が置かれた
信号機が現在の電光掲示板方式になったのは昭和54年(1979)からである 昭和56年(1981)10月に無人化
部崎の岩場
古来から難所と言われ暗礁が多く海難事故が絶えなかったことから狐崎や念佛崎とも呼ばれた
天保7年(1836)豊後国東出身の僧清虚が高野山へ修行に向かう船中で 一帯が難所で犠牲者が多い事を知り
船を降りて岬の辺崎山に庵を結び 航路の目印となる火焚を毎日行った 日中は托鉢を行い糧を得たが
大半を薪代に費やし 1日1食の生活を続けた 後に人々の手によって火焚場の造成が始まったが
嘉永3年(1850)に火焚場の完成を見ること無く清虚は亡くなった 清虚の焚火は13年に及んだとされる
清虚の死後 焚火は洋式灯台が竣工する明治5年までの21年間 住民の手によって絶え間なく行われた
塔高(地上高):9.7m 灯火標高:39.1m 光達距離:閃光17海里(約32km)・不動光10海里(約18km)
当時の火焚場は 現在の灯台後方山頂付近に建造されていたが 大雨で流出落下し現存していない
清虚の偉業を後世に伝承するためこの地に火焚場を復元した
福岡県北九州市門司区門司 和布刈公園
古城山砲台のあった旧下関要塞跡地を公園化したもので 総面積 37.1ha 最高地点は標高175mの古城山
下関要塞は明治20年(1887)に着工され 明治28年(1895)4月には下関要塞司令部が設置された
和布刈周辺には 和布刈砲台・古城山砲台などが設けられ 第二次大戦時には高射砲台も設置された
敗戦後に施設は全て破棄され 後に一帯が公地となり公園化されていった
1.門司砲台 2.古城山砲台(門司城跡) 3.門司堡塁(第1展望台駐車場) 4.門司兵器修理所 5.門司海軍炭庫
『豊前志』など古書の記述では 元暦2年(1185)壇ノ浦の合戦に際し平知盛が家臣に命じて城を築いたとされる
鎌倉時代の建長7年(1255)に藤原親房が豊前代官職として入城し 門司氏(もんじし)を名乗った
戦国時代には 大内・大友・毛利氏による攻防戦の舞台となったが 最終的には毛利氏の勢力下に置かれた
関ヶ原後 豊前小倉城に細川氏が入り門司城を改修して城代を置いたが
元和元年(1615)一国一城制の発布により元和3年(1617)に廃され 後の明治25年に下関要塞の一部となった
源平壇ノ浦合戦絵巻
この壁画は赤間神宮の社宝 安徳天皇縁起図を参考にして描かれた 渦潮の中で繰り広げられたであろう
壇ノ浦における源平合戦図である 原画を忠実に有田焼の陶板タイルに写し仕上げられたものである
福岡県京都郡苅田町 新北九州空港連絡橋 展望所
新北九州空港連絡橋に自転車道路が併設され 橋の西詰に展望所があるというので見に行った
Googleマップで確かめると橋の途中にも2ヶ所の展望休憩所があり自転車で空港まで行けそうである
正式名は福岡県道245号新北九州空港線 Googleマップには北九州カニ・カキロードの名も記載されている
一番下にあるのが自転車道のランプウェイ 直線路は左から自転車道・空港行自動車道・本土行自動車道
福岡県築上郡築上町弓の師765 メタセの杜
緑のメタセコイア並木を見に行く