2023.11.08 佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手(ヨシノガリチョウタデ) 吉野ヶ里歴史公園

吉野ヶ里遺跡は 佐賀県神埼郡の旧神埼町と旧三田川町・旧東脊振村の2町1村に跨る丘陵地にあり 弥生時代から
奈良時代に及ぶ日本最大の古代遺跡である 大正時代以前の 北部九州の考古学に於ける調査研究対象は
玄界灘沿岸域に集中し九州弥生文化の中心として認識されていた 沖積平野の広がる佐賀県では比較的標高の高い
東北部地域が中心となり 昭和初期には弥生時代の遺跡が相次いで発見され 特に甕棺墓の多さに注目が集まった

第二次世界大戦後の昭和27年(1952)に 段丘がみかん園として開墾された折り多くの甕棺が出現し1体の人骨と
前漢時代の銅鏡・連弧文昭明鏡が出土 一帯が「三津永田遺跡」と名付けられた
翌28年には 水害復旧の護岸工事で丘陵地から採土された際 多数の甕棺と甕棺内から38体の人骨および鉄器や
貝製腕輪・ガラス製の玉などの希少な遺物が出土したことから 日本考古学協会が主体となって 昭和29年7月まで
緊急発掘調査が行われ 弥生時代前期から後期にかけ この内陸部でも大陸との交流があったことが認識された
発見された39体の人骨は 以降 渡来系弥生人の標準的な骨格標本とされ 三津弥生人と名付けられた

その後 高度成長期(1955-1973)後半からの東脊振山麓に於ける大規模開発の増加に伴い 発掘調査も強化され
本格的に考古学的調査が実施されるようになり 山麓丘陵地から次々と 三津永田遺跡に酷似した甕棺墓主体の
墓地が発見され おびただしい数の銅鏡や鉄製武具・副葬品・装身品などが出土した
昭和55年(1980)には 現・遺跡公園内で弥生時代後期の高床倉庫と考えられる数棟の堀立柱建築物や河川跡が
段丘頂部では 竪穴住居跡のほか整然と二列に並ぶ18基の甕棺墓が発見され 甕棺内の人骨6体は三津弥生人と
山口県の土井ヶ浜弥生人と同じ渡来系の人骨であることが判明した

昭和56-57年 段丘周辺部の圃場整備に伴う水田地の発掘調査が佐賀県教育委員会によって実施され
弥生時代中期の高床倉庫と考えられる掘立柱建物群跡・壕跡などが発見され 炭化米や竪杵などが出土した
その後 昭和60-61年には佐賀東部導水路の建設に伴う段丘南部の調査が県教育委員会により実施され弥生時代から
中世に至る竪穴住居跡や掘立柱穴・甕棺群と弥生時代後期の壕跡などが発見された

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発掘調査された吉野ケ里のクニを構成するムラ
吉野ケ里歴史公園と三津永田遺跡

1980年代に入り 佐賀県は「80年代佐賀県総合計画」を策定し 農業振興とともに工業化の方針を打ち出した
昭和57年(1982)工業団地の最有力候補地として吉野ヶ里丘陵地南部を挙げたが 重要文化財の埋蔵懸念が残るため
事前発掘調査を翌年から始め 昭和61年(1986)には 遺跡が約59haという広がりを持つことが判明し
佐賀県は工場団地計画を縮小するに至った 平成元年(1989)2月に大規模な環濠集落跡が発見され
連日全国から大勢の見学者が訪れるようになり 全国的に遺跡保存の機運が一気に高まった
平成3年(1991)4月に特別史跡に指定され 平成4年(1992)には閣議によって国営歴史公園の整備が決定した

遡れば 昭和9年(1934)に 在野の考古学者で高校教師を務めた七田忠志氏が 日本の歴史を書き換える程の
重要な遺跡が吉野ケ里に眠っていると 考古学会誌に発表し啓発してから58年の歳月が過ぎていた
氏は昭和56年(1981)に逝去したが 志は子息の七田忠昭に引き継がれ 東脊振山麓の広大な遺跡の発見に繋がった

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P.東口パーキング A.東口メインゲート B.田手川と天の浮橋 C.展示室 1.南内郭 2.環濠内見学通路 3.北内郭
D.甕棺墓列 4.北墳丘墓 5.甕棺列墓 E.古代植物の森 F.古代の森体験館 6.祭りの広場・赤そば畑 G.市の広場
7.倉と市 H.弥生の大野 8.水田 9.南のムラ J.祭壇 K.西口 I.弥生くらし館

吉野ヶ里歴史公園
計画面積:117ha 国営面積:50% 佐賀県営面積:50% 2023年1月現在の一般開放面積:105.6ha
開園:2001年4月21日 当初の開園面積:47.3ha
Link:吉野ヶ里歴史公園 マップ
整備計画区域内に未発掘および未調査の部分を多数抱えた状態で開園されたため 順次発掘調査終了後に
盛土によって遺跡を保存し その埋戻し地盤上に建築物の復元や植樹を行い公園が拡張されていった

管理運営は 一般財団法人公園財団が国と県の共同代行指定管理者という形で受託しており
公園整備は 国営海の中道海浜公園事務所・歴史公園課と佐賀県神埼土木事務所がそれぞれの整備計画に基づいて
行っている 現在も続く発掘調査及び収蔵物管理は佐賀県教育委員会の管理となっているが 全国47都道府県で
埋蔵文化財センターがないのは 熊本・宮城・佐賀の3県だけとなっており
近年増え続ける吉野ケ里遺跡関連の 出土品に対する調査研究や保管場所・展示について懸念が持たれている

北墳丘墓の西側・約140mの丘陵上に日吉神社が存在していたが 2022年9月に 東へ約210mの位置に鳥居や鈴を
引き継ぎ神殿を新築し遷座した 旧神社敷地内では甕棺墓の石蓋とみられる板石や弥生土器片などが確認されており
遺構遺跡を多数埋蔵している可能性が高いとされていた しかし社が鎮座していたため史跡指定地に含まれてはいたが
吉野ヶ里歴史公園の区域には含まれておらず 神社の敷地内における発掘調査は全く行われてこなかった
神社移転後の発掘で 弥生時代後期のものとみられる石棺墓を新たに発見したことが 2023年5月29日に発表された

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東口メインゲート・エントランス
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筑後川水系 田手川
脊振山系蛤岳(はまぐりだけ)に源流域を持つ川であるが 自然河床ではなく条里制に基づいた丘陵開削による
人工河床とされ 築造の推定年代を近世とする見方も存在し 弥生時代から古墳時代には無かった川である
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田手川下流側に雲仙普賢岳を遠望する
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環濠と防御杭
外壕は丘陵袖部を巡るように掘削されており 南北1km以上・東西は最大で0.5km 面積は40ha以上と考えられる
外壕の他 中濠・内濠の各外部壁上にも土塁が築かれていたと思われる
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南内郭
中濠に囲まれた支配者層の居住空間 物見櫓4棟・竪穴住居11棟・集会の館や煮炊き屋など合計20棟の建物を復元
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環濠の張り出し部分に建つ4ヶ所の物見櫓
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人が動くと少し細かく揺れる
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寄棟屋根の下級住民の竪穴住居
『魏志倭人伝』の記述などから 弥生時代後期の倭国における身分階級は クニ(大規模集落)の支配階層である
王・神司・官僚の「大人」 一般的なムラ人である「下戸」 最下層の「生口」に分けられていたとされる
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王の住居として 排煙口を設けた入母屋造りの屋根に棟飾りを載せる 飾りは現代人の古代人に対する忖度
竪穴住居は地面の痕跡と炭化した木材や屋根材が埋蔵されているのみ 建築物はあくまで想像の産物である
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茅葺き技術の基本は現在と変わらない 家大工の技術と違い集落内の「結」という組織で伝授されてきた
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地震の揺れを分散させ倒壊を防ぐ掘立柱と伝統的貫工法による櫓 近代まで日本でのトラス工法例は少ない
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掘立柱の建築物は「集会の館」と想像されるもの
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集会の館
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環壕の復元は 発掘された遺構の底部より50cm以上盛土した上に往時の深さと幅で復元しコンクリートで舗装
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北内郭に接する屋根倉(穀物・種籾倉) 高床倉庫(供物倉)
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高床倉庫
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高床供物倉内部小屋組み

北内郭
中濠と内濠の 二重環濠に囲まれた区域で 祭祀や政事を司る重要な場所とされる 主祭殿・斎堂・東祭殿
高床住居・竪穴住居・物見櫓4棟および二重の板壁などが復元されている

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北内郭・従者の住む竪穴住居 背後に高床住居(最高司祭者の住居)と物見櫓
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三階建の主祭殿と物見櫓
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主祭殿三階 巫女(シャーマン)
主祭殿二階 長(おさ)による祀り事
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北内郭・物見櫓
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従者の住む竪穴住居と最高司祭者の住まいだったと考えられてい高床住居

環壕集落の北部に位置する北墳丘墓は 2200~2100年前の弥生時代中期前半から中頃にかけて築造され
南北約40m・東西約27mのほぼ長方形で 築造時の高さは4.5m以上あったと考えられている

周辺の甕棺墓と比べて「すべてが大人用甕棺で甕棺の埋葬密度が低い事・甕棺の内外部を
漆または炭などの黒色顔料で真黒に塗る・銅剣や管玉・絹などの副葬品が多数出土した」などの特徴から
支配階級の墳墓と想定されている 14基の甕棺が発掘され うち6基の甕棺から少量の歯や骨片が採取された

北墳丘墓の中央・立柱・祀堂・主祭殿の中央・南祭壇の中央を通る線が 吉野ケ里遺跡の南北中軸となる

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北墳丘墓の拝殿 祀堂
北墳丘墓と祖霊が宿る立柱
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北墳丘墓内の地下展示場
北墳丘墓は 発掘後に遺構保存のため埋め戻され 平成20年(2008)に墳丘墓内部を展示施設として公開
発掘当時の状態を再現し 本物の遺構および甕棺を見学することができる
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北墳丘墓内の地下展示場

甕棺墓列
甕棺は世界中で見られる歴史的墓制である 一般には小児および乳幼児の埋葬に用いられていた墓制だが
弥生時代の前期後半の北部九州で それまで木棺に埋葬し支石で覆う成人の墓に使用されるようになった
この時代に大型土器の製造が可能となったことも一因として挙げられる なお 支石墓は弥生時代初期に
朝鮮半島からの流民によって伝播したものとされるが 甕棺墓は偶発的に北部九州で広まった考えられる

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子供用から大人用まで 甕棺の大きさはマチマチである
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祭りの広場 赤ソバ畑
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赤蕎麦(アカソバ) 品種名:高嶺ルビー(タカノ株式会社)
原産地:ネパール ヒマラヤ山麓 標高3800mの山地 1987年に信州大学の氏原暉男教授によって採種
タカノ株式会社との共同研究によって品種改良され市販される 観賞用 海外持ち出し禁止(農水省公示)
ということで 赤蕎麦と弥生時代は一切関係なし
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クヌギの柵
縄文時代から実が食用とされ 伐採後の萌芽が早く繰り返し利用できるため 薪炭や建築・船・器具・家財に
利用され 樹皮や実の皮は染料にも用いられた 故に古代から多く植えられ利用されてきた樹木とされる
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弥生時代の水田について
吉野ケ里では水田の発掘がされていないため 他所の発掘例を参考に 一枚あたりの面積を10~20平方mとし再現
稲の栽培法には直播きと苗代から移植する方法がある 1977年に岡山県の百間川遺跡で整列した稲株跡が
発掘されたことから 当地では移植法を採用した 吉野ヶ里遺跡で採取された炭化米は 現在のジャポニカ品種と
ほぼ同じもので 白米・赤米・紫米を栽培している また 遺跡では鋤・鍬・エブリなどの農機具が発掘されている
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内壕の無い「南のムラ」は 下戸層とされる一般住民の生活の場であったと考えられている ただし
吉野ケ里環濠集落内で有ることを考えれば クニでの地位は高いものの環濠集落内では従者であったとされる
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穀物倉 掘立柱にある円盤状の板はネズミ返し
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吉野ケ里歴史公園公式サイト:https://www.yoshinogari.jp/introduction/virtualtour/

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