2022.04.22  熊本県熊本市北区植木町豊岡 田原坂(たばるざか)

西南戦争(西南の役)は 明治10年(1877)肥後・日向・豊後・薩摩において 西郷隆盛を盟主として
勃発した薩摩士族主体による武力反乱である 明治初期に起きた一連の士族反乱の中でも最大規模のもので
日本国内最後の内戦となった 2月15日薩軍本隊が鹿児島を出発 2月19日政府は逆徒征討の詔を発し
正式に政府軍の出兵を決定した 同14日薩軍の動向を察知した熊本鎮台軍は 熊本城での籠城を決定した
22日には薩軍によって熊本城が包囲されたが城の守りは固く 薩軍は北進隊と城攻撃隊の二手に分かれた
同日早くも植木において政府軍の先鋭隊と遭遇しており 博多港では5600名の政府軍本隊が上陸していた
戦線は 山鹿・玉名・高瀬あたりで膠着状態となったが徐々に薩軍は押し戻され 3月に入ると田原坂
吉次峠の戦が一ヶ月間繰り広げられ 両軍合わせて約1万4千人の戦死者を出す例を見ない激戦地となった

田原は 高瀬から植木に至る途上の小丘陵で標高は100mほどしかなく 峻険と言えるほどでもなかった
しかし 加藤清正によって熊本城の北の守りとして重要視され 切通しの曲がりくねった道が設けられた
当時 博多から熊本に繋がる街道で 大砲を引いて通れる道幅があるのはこの田原坂だけであったため
政府軍は防御に適したこの坂道に殺到することになったが 熊本城を攻めあぐねた薩軍同様
築城の名手であった加藤清正と時を越えて戦う羽目に陥ったともいえる
4月に入り政府軍の物量に圧倒され 薩軍は退却の上敗走せざるを得なくなった

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政府軍進撃コース
1.熊本城 2.出町の切通し 3.豊前街道・植木町宿 4.田原坂 5.豊岡の眼鏡橋

熊本城は 植木町から南に伸びる舌状の京町台地南部の突端・茶臼山にある中世から近世の城である
元は室町時代に肥後国守護の菊池一族の出田秀信が千葉城を築いたのが始まりで その後 菊池氏配下の
鹿子木親員が隈本城を築き居城とした 戦国時代を経て豊臣秀吉による九州平定後は
島津氏に属していた城久基が城を明け渡し 佐々成政が肥後一国の領主となり城主として着任したが
肥後国人一揆の責を問われ切腹 加藤清正が肥後国の北半分19万5千石の領主となり隈本城に入った

清正は 天正19年(1591)から隈本城の改築に取り掛かり茶臼山丘陵一帯に城郭を築き始めた
慶長5年(1600)頃には天守が完成 また関ヶ原の戦いにおける論功行賞で肥後一国52万石の大名となり
慶長12年(1607)には「隈本」を「熊本」と改めた 寛永9年(1632)清正の子・加藤忠広の改易により
豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入り 幕末まで細川氏が藩主を務めた

加藤清正は藤堂高虎と並ぶ築城の名手として名高く 清正が築いた城の特徴は「扇の勾配」の石垣と
徹底した籠城対策である 石垣は武者返しとも呼ばれ西南戦争では薩軍の一人たりとも寄せ付けなかった
籠城対策では 場内各所に井戸を掘りその数約120ヶ所と言われ レンコンの栽培や梅や銀杏も植えられ
畳には芋茎(ずいき)を入れ 壁には干瓢を塗り込むなど 非常食の確保に尽力した

熊本城攻略を甘く見ていた薩軍は 城の攻防戦に時間を取られ 結果 政府軍に補給時間を与えてしまい
その物量の前に屈した 遡って秀吉の忠臣である清正が九州平定後に 九州覇権を目指した島津氏を
また 関ケ原の戦いにおいても東軍西軍に別れ対峙した島津氏を睨んで築城したとも考えられることから
明治にその威力を遺憾なく発揮したと思えば 西郷隆盛が「おいどんは官軍に負けたとじゃなか
清正公に負けたとでごわす」と嘆いたというエピソードも腑に落ちるところがある

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政府軍進撃コースの標高グラフ  A.田原坂 B.植木町 C.熊本城・城北の空堀
田原坂 一の坂公園駐車場に車を止めて歩く
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豊岡の眼鏡橋 架橋は江戸時代後期の享和2年(1802)旧暦10月
明治10年当時は 山本郡豊岡村に属す 明治22年(1889)鞍掛・後古閑・富応・平原・鈴麦・豊岡の
6村が合併して田原村が発足 村名は有名な田原坂を有するところから命名されたと想像する
明治29年(1896)4月 山鹿・山本の2郡が統合され鹿本郡となった
昭和30年(1955)1月 吉松・山本・菱形・桜井・山東・田原の6村が植木町と合併
平成22年(2010)3月 植木町全域が熊本市北区に編入された
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眼鏡橋の上から田原坂入口
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県道31号熊本田原線 田原坂入口
田原坂 一の坂公園駐車場入口
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掲示板 田原坂「一の坂・二の坂・三の坂」
麓の豊岡眼鏡橋からの標高差は僅か80mの田原坂。 一の坂、二の坂、三の坂と頂まで1.5kmの
曲がりくねった道が続く。 この道だけが唯一大砲を曳いて通れる道路幅(3m~4m)があり、この坂を
越えなければ官軍の砲兵隊は熊本へ進めなかった。 また、官軍にとっては生死を制する道である。
ともに戦略上の重要地であり、この平凡な坂道が激戦の舞台となった。 熊本城からこの田原坂まで
くり抜いた凹道となっている。 故に、前方の藪や左右の高所より銃撃を受けやすく攻め難い要地であった。
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一の坂公園駐車場
一の坂
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廃屋
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一番勾配の大きい「一の坂」
復路 上から見下ろす「一の坂」
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九州自然歩道
「二の坂」の手前 平坦部
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二の坂
鋼板製の案内板 穴は弾痕を表現する
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みかん畑から「三ノ岳」を遠望 激戦地の吉次峠は山の右麓
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樫の木の花 今年は当たり年で花が多い 秋には沢山のドングリが実る
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「二の坂」は短く すぐに平坦部となる
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西南の役戦没者慰霊碑
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谷村計介の碑
宮崎県諸県郡倉岡の生まれにして、明治5年徴兵により歩卒として熊本鎮台に入隊する。
明治7年2月佐賀の乱に際して戦功をあげ、6月陸軍伍長となり、8月第11大隊に属して征台の役に従軍した。
明治10年西南戦争に際しては熊本城内にて守備軍として活躍し、命により密使として征討軍本営との
連絡にあたり、使命を果たし、再び第一線に参加して、3月4日田原坂にて戦死する。 25才
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木葉川(このはがわ)と鹿児島本線が通る舟底谷
「三の坂」 右奥の高台が田原坂公園
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かすかに雲仙岳が見える
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田原坂頂上
頂上から振返り 豊岡眼鏡橋まで約1.2km
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田原坂崇烈碑 陸軍大将熾仁親王撰文
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田原坂「三の坂」
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馬に乗った美少年像
植木町が平成2年に建立した像 民謡『田原坂(豪傑節)』の歌詞にある美少年をモチーフにしたもので
歌詞の二番に「右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱 馬上豊かな美少年」と歌われている
そのモデルといわれるのが薩軍の村田新八(むらたしんぱち)の長男・岩熊で
米国留学から帰国後 19歳で田原坂に散った ただ32万発から34万発とも言われる弾丸が飛び交うような
文明開化後の近代戦で 19歳の将兵が馬に乗って進軍するはずがないと歴史家から指摘されている
建立した植木町では「西南の役・田原坂の戦いで散った若者たちすべての象徴」としている
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田原坂攻防戦詳報・攻略図
明治10年古写真 石橋と茶店と田原坂
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田原坂パノラマガーデン 「田原坂の戦い」
明治10年の日本国内最後の内戦「西南戦争」における最大の激戦地「田原坂」を中心とした当時の
地形および政府軍、薩軍の戦闘布陣を再現したものである。
熊本鎮台(熊本城)を包囲した薩軍は援軍(政府軍)の南下を阻止するため田原坂を拠点とした
山岳丘陵地帯に地形を利用した強力な防御線を構築した。
これに対して政府軍は熊本に至る本道(田原坂)を突破するため3月4日攻撃を開始した。 これを起に、
十七昼夜にわたり両軍の壮絶な死闘がくり返され、3月20日ついに田原坂の薩軍の防御線が崩れ、
この時西南戦争の大勢は決した言われています。
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西南戦争当時、田原坂の頂上(植木町大字豊岡字休居2244番地)にあった松下彦次郎家の土蔵は、
両軍の銃弾で無数の疵を受けました。 田原坂の戦い直後に、長崎の写真師上野彦馬氏撮影の写真と、
明治13年頃に、熊本の写真師富重利平氏撮影の写真が残されています。
(明治24年に松下家は、他県へ転出されていますので、その頃土蔵は、取り壊されたかもしれません。)
植木町では昭和63年に、冨重氏の写真を参考にして、土蔵を復元しました。
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復元された土蔵
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展望台から三ノ岳
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展望台から田原坂西方の激戦地俯瞰 背後に霞む雲仙岳を遠望
西南役戦没者慰霊之碑
政府軍6923名・薩摩軍7186名・その他殉難者29名を祀る
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田原坂公園のツツジ
ネット上で「見頃を迎えた」との情報を得たので来てみれば クルメツツジは確かに見頃を迎えてはいるが
大半を占めるヒラドツツジはまだまだ早い状態である 九州の場合 クルメツツジとヒラドツツジを
混植する事が多く また両方の種を単に「ツツジ」と呼ぶ人が多く惑わしい
「花の咲く期間が大幅にずれていることを考慮した植栽や情報発信が望まれる」と自分は思う
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クルメツツジは満開状態 しかし少数派
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白花のツツジが多い
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新緑も綺麗です
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カラスアゲハ(烏揚羽) 学名:Papilio dehaanii
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