六郷満山 国東紀行

国東半島は 火山によって生成された半島で 鹿児島の桜島と同じである 中央に聳える標高721mの
両子山(ふたごさん)や それに続く文殊山・千燈岳などは 新生代の両子火山の溶岩ドームと思われる
半島の成立後に 北部が沈下し南部が隆起したため 北部にはリアス式海岸線が
西部・東及び東南部には 遠浅の浜や干潟ができたとされている
ただ 豊後高田から杵築へと連続する山塊は 半島の生成よりも古く 耶馬渓と同質の岩峰となっている
両子山から放射状に伸びる水量豊富な谷筋は 古くから「二十八谷」と呼ばれ谷川に沿って水田が拓かれ
邑ができた 後に田染(たしぶ)・来縄(くなわ)・伊美(いみ)・国東(くにさき)・武蔵(むさし)
安岐(あき)と呼ばれの六郷にまとまった しかし半島中央から流れ出る河川数は30を
優に超える よって「二十八谷」とは地形的なものではなく『妙法蓮華経』8巻28品に基づく数である

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国土地理院 傾斜量図+色別標高図
1.宇佐神宮・弥勒寺 2.両子山 3.文殊山 4.千燈岳 5.富貴寺 6.熊野磨崖仏 7.八幡奈多宮(宇佐別宮)
8.佐田京石(さだきょういし) 9.弥生のムラ安国寺集落遺跡公園
六郷:田染(たしぶ)・来縄(くなわ)・伊美(いみ)・国東(くにさき)・武蔵(むさし)・安岐(あき)
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姫島から見る国東半島

古代に宇佐神宮が建立され 大和朝廷の庇護を受けて 周辺に神領地としての荘園が営まれるようになり
海岸線にそって多くの八幡神を祀る宮が造営された 平安時代に宇佐神宮寺の弥勒寺が建立されたことで
八幡信仰は寺院の形態を取るようになり また古来より国東半島の峻険な山岳地は 信仰対象であったため
やがて神宮寺である弥勒寺を中心とする八幡信仰と 天台修験道と融合し多くが霊場や修験道場となった
国東は神仏習合による独特な山岳仏教文化の発祥地となり 最盛時には65ヶ所の寺院があった
六郷満山と呼ばれるこれらの寺院は 学問をするための本山本寺 修行をするための中山本寺
布教をするための末山本寺の三群に分けられた 現在においても33の寺と番外に宇佐神宮を加えた
「国東六郷満山霊場」(国東半島三十三箇所)が構成されている


2022.05.17  大分県国東市国見町伊美 伊美別宮社(いみべつぐうしゃ)

社伝によれば 平安時代初期の仁和2年(886)当時の領主片見貞信の命により 石清水八幡宮の分霊を
奉持して創建されたとされているが 26年前の貞観2年(860)に宇佐八幡宮から八幡神が都に勧請され
石清水八幡宮が創立されていることを考えると なぜ宇佐八幡宮ではなく石清水八幡宮なのか
説明が足りない気がする 約100年後の平安時代の中期には 宇佐八幡宮の神領は十郷三箇荘となり
国東半島六郷の内 伊美を除く残り五郷が宇佐八幡宮の神領となった このことから伊美郷成立の頃から
半島北部に孤立する豪族支配の伊美郷と宇佐八幡宮との勢力争いや確執があったものとみなされる

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参道の石造アーチ橋と(なぜか?)ベルギー国ブリュッセル出身の小便小僧
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頭に灯籠を乗せた曲芸的狛犬 睨まれても愛嬌が溢れすぎ
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楼門
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拝殿
扁額には「別宮八幡宮」
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一風変わった拝殿のしめ縄
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幣殿と本殿
東奥にある 日本三大珍宝 陰陽神
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男鳥居 女鳥居 子鳥居
日本三大珍宝 陰陽神

陰陽神由来略記(若干編集)
第58代光孝天皇の仁和2年に山城国・男山石清水八幡宮の分霊をこの地に勧請のみぎり 随伴した随神司官
藤原朝臣桐畑左京大輔盛重は 以来この地に在住し神明奉仕のかたわら 特に医術に長じ庶民の難病を
療した功績は多大であった 没後 別宮社創祀功労神として今熊宮に奉祀されてより 縁結び・子授け
安産・諸病平癒の神として広く崇敬され 女性は頭髪 男性は男根を彫刻して 献納祈願することになった
現在の陰陽神は 献納された男根の最大なもので 台石が女陰となっている
願主は伊美随一の名石工に命じ 現物の模写等数多の秘話や逸話を残して完成された逸物であるが
一時は風紀紊乱(びんらん)の謗りを受けて 土中埋没や海中投棄等されたが その行為者は悉く局部の
激痛や高熱に苦悶する等の神罰に遭い 恐懼(きょうく)し その非を悔いて此所に復座奉鎮した
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恵比寿大明神
何の神様かも解らぬ石祠
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大分県指定有形文化財 石造宝塔(別宮社国東塔) 造立は鎌倉時代中期の正応3年(1290)
明治初めの廃仏毀釈のおり取り壊されていたものを昭和初期に復元した国東塔である 基礎の三重は後補し
台座は複弁八葉の反花のみで 塔身は中央部に多少のふくらみをもつ円筒形で首部に奉納孔がある
笠は照屋根、軒口は薄く 軒返り隅に至って急に反転している
露盤の四面は二区に分かれ 各区分内に格狭間を刻む 塔身には銘文が刻まれており
つりあいのとれた優秀作である 総高は 4.76m

2022.05.17  大分県東国東郡姫島村西大海 アサギマダラ 春の休息地

伊美港から沖合約6kmの姫島にスナビキソウの自生地があり 花が咲く春には この花を好物とする
渡り蝶のアサギマダラがやってくる また同島の山あいにはフジバカマの自生地もあり
花の咲く秋に やはりアサギマダラがやってくる アゲハチョウの様に細かくバタバタ羽ばたかずに
ふわりフワリと飛翔し また人をあまり恐れずまとい付くように近づき美しい翅を持つことから人気がある

アサギマダラ(浅葱斑)学名:Parantica sita

タテハチョウ科マダラチョウ亜科に分類される 渡り蝶として有名で 越冬繁殖地である沖縄や南西諸島と
生息地である本州中部の高原地帯の間を長距離移動する
生息域は日本全土・朝鮮半島・中国・台湾・ヒマラヤ山脈と広く 分布域の中で数種の亜種に分かれている
日本に生息する亜種は 学名で P.s.niphonica と呼ばれている

古くは1960年代はじめ頃から1980年に論文として発表されるまで 沖縄在住者および在住経験者によって
アサギマダラが季節移動しているのではと考えられていた その考察に影響を受けた鹿児島昆虫同好会の
田中洋氏を始めとする有志により 1980年8月からマーキングによる調査が始められ 翌年には南下北上の
長距離移動が確認された その後 大阪市立自然史博物館の日浦勇氏が『アサギマダラを調べる会』を発足
『アサギマダラ情報』を発刊し各地の同好会組織も加わり調査が本格化した

夏に日本本土で発生した多くの個体が 秋になると南西諸島や遠くは台湾まで南下することが判明した
また春には 南西諸島や本土温暖地で繁殖または幼虫越冬した多くの個体が羽化後に
本土冷涼地での繁殖のため北上することが明かになった
しかし 集団越冬している場所や 大量の死骸が集中する場所などは未だ発見されていない

2011年8月19日に北海道函館市近郊の山から放蝶した個体が 10月24日に山口県下関市豊浦に飛来し
同年10月10日に和歌山県から放たれた個体が 途中の高知県でも捕獲放蝶され 83日後の12月31日に
約2500km離れた香港で捕獲され 世界第二位の長距離移動が確認されている

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朝7時に家を出て伊美港到着9時20分 伊美港9時50分出航 姫島到着10時10分 アサギマダラ来島時期は
スナビキソウ自生地まで無料バスが運行されている ただ全てのバスがフェリーの入出港時間に
連動しているわけではない 姫島港10時20分発のバスで約5分 歩けば2.3km・約30分の道のりである
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第二姫島丸の船尾から見る九州本島の伊美港 姫島に渡るのは2回目である
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初写真 吸蜜間は翅を閉じる 撮影には手強い相手
飛び立つ瞬間を狙うが非常に難しい
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スナビキソウ(砂引草) 学名:Heliotropium japonicum
ムラサキ科キダチルリソウ属の多年草で 別名にハマムラサキ(浜紫)がある 和名:砂引草の由来は
海岸の砂地の中に地下茎を長く伸ばして繁殖することによる 花言葉は「私を愛して下さい」
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広くはないスナビキソウ自生地
帰りは第一姫島丸で

2022.03.16  大分県国東市国見町伊美 くにみ海浜公園(道の駅 くにみ)

姫島が間近に見える国東半島先端部のリアス式海岸に位置し 本州や四国等の島々が見える風光明媚な地で
権現崎にはキャンプ場があり 西に隣接する伊美港からは姫島へのフェリー航路がある
道の駅では 美味い地ダコの「たこ飯」が食べられる

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櫛来港海岸から見る文殊山・両子山・千燈岳
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沖合5.6kmの姫島
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霞む島影は山口県光市と上関町 姫島沖は瀬戸内航路の船が頻繁に行き来する
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刺し網
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権現崎自然公園キャンプ場
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権現崎 万葉歌碑
海原の 沖辺に燈し いざる火は 明かして燈せ 大和島見む 第15巻 天平8年遣新羅使・作者不詳
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半島北部に砂浜はない
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開運くにさき日の出スポット
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キャンプ場のバンガロー
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2022.03.16  大分県国東市国見町伊美 馬ノ瀬(まのせ)

大高島と小高島集落間の岬北方にある岩礁 南北に細長く 最高点は標高22m 長さ約400m 幅約50mで
半島の一部が海食作用により沖合に取り残された島だが 干潮時には陸続きになり歩いて渡ることができる
横から見ると馬の背のように見えることから名前が付いた 先端部に海食洞がある

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国土地理院 空中写真
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2015.08.18 長崎鼻から見た馬ノ瀬
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左から右へ時計回りに歩く
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高島漁港から見た馬ノ瀬

2017.03.28  大分県豊後高田市臼野 粟嶋公園・粟嶋社

寛永2年(1625)紀州和歌山加太の淡嶋神社を勧請し創祀した 祭神は一寸法師のモデルとなった
少彦名命(スクナヒコナノミコト)で 元は医薬の神とされるが 縁結び・安産祈願・婦人病快癒
女性の幸福誓願成就など幅広く 近年流行りの縁結び恋愛成就の祈願パワースポットでもある

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扁額には「縁結」
粟嶋社拝殿
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拝殿と海
拝殿中の祠宮
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方角的には出雲大社の遥拝洞か?
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愛鍵モニュメント
一足早い鯉のぼり(鯉=恋?)
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ハートを模った縁結びモニュメント「結」 球体は男女を表している 祈願方法は現地で・・・

2014.09.27  大分県豊後高田市中真玉 真玉海岸の夕陽

真玉海岸は大分県で唯一 水平線に沈む夕陽を見ることができ「日本の夕陽百選」にも選定されている

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PM 17:35
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PM 17:40
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PM 18:20 夕陽は低い雲に隠れる
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PM 18:24 旧暦9月4日の月が出る

2014.10.08  月光の真玉海岸
「日本の夕陽百選」に選定されている真玉海岸 夕陽が美しく映える処は月光にも映えて美しい
これが私の持論 しかし月光に輝く海に向かってカメラを構える人は少ない
この日も私達夫婦の外は誰もいない 無人の海岸は静かに朝を待つ

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夜に皆既月食となる2014年10月8日 午前3時33分の真玉海岸
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午前4時00分
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午前4時11分
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午前4時30分

月光に映える「夕陽百選」をもう一つ
今年の春に佐世保・石岳展望台より九十九島の夕焼けを撮影した ここも「夕陽百選」に入る

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2014年4月24日 午後6時50分 夕陽の九十九島
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1998年1月13日 午前4時頃の石岳展望台より見る九十九島
月明かりによって「金箔銀箔の蒔絵」のように照り輝く九十九島の海は最高であった

2009.07.15  豊後高田市田染平野 熊野磨崖仏

昭和30年 国指定史跡 昭和39年国指定重要文化財に指定された 国東六郷満山の拠点の一つであった
胎蔵寺から山道を約300m程登ると 鬼が一夜で築いたと伝えられる自然石の乱積石段にかかり
この石段を登ると見える左方の巨岩壁に刻まれた日本一雄大な摩崖石仏は 不動明王と大日如来であり
これらの石仏群が熊野磨崖仏である 伝説では養老2年(718)宇佐八幡の化身・仁聞菩薩が造立したと伝わる

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胎蔵寺が記録にあらわれるのは仁安3年(1168)の「六郷山二十八本寺目録」であるので
磨崖仏の造立は藤原末期と推定されている


2015.06.21  豊後高田市田染小崎 田染ノ庄

田染荘園は中世鎌倉時代以前より宇佐神宮の荘園として存在し 特に田染小崎区は畦や小道など
当時の姿を伝える唯一の保存地区である 間戸の夕日観音から見る風景は中世農山村の風情を今に伝える
宇佐神宮を奉じ祀り また 後の平安京を構築した秦氏の故郷でもあり
京都と同じく桂川が 豊後高田市を流れるのは けっして偶然ではない気がする

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2009.07.15 撮影
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間戸の岩屋・夕日観音から見る田染ノ庄
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西叡山は標高570.8m
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標高140m 間戸の岩屋
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間戸の岩屋と曲がりくねった道
曲線を描く田の畦
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2009.07.15  杵築市山香町大字山浦 泉福寺石風呂と佐田京石

金亀山泉福寺は8世紀初頭の養老年間に仁聞菩薩(にもんぼさつ)の開基と伝えられている
観応3年(1352)に再建されたが 明治初年に廃仏毀釈によって廃寺となった
石風呂の構造は上下二階式で 上部が浴室 下部が火ぶくろとなっている 浴室入口の両側と上部は板碑
  浴室内の四壁は岩盤を削り板碑や各種の石材を積み重ね 天井や床は板碑や板状の石材を用いている
石風呂は全国的に横穴式・炭竃式のものが多く このような二階式のものは類例が少ない 使用法は
下から火を焚き 床に石菖やヨモギ等を敷きつめ 熱くなると水をかけて中に入り身体を温めて治療する
蒸し風呂であった 浴室入口の高さは90cm 奥行きは150cmである 製作年代は不明であるが
江戸時代中期の記録に「病人多く集り焚く」とある 国指定重要有形民俗文化財に指定

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上部が浴室 下部が火ぶくろ
浴室内部

2009.07.15  宇佐市安心院町佐田 佐田京石(さだきょういし)

太古の祭祀場か? 鳥居の原形か? 埋納経の標石か?定説は未だありません
通路を登って左側の柵内はマウンド中央の石柱から半円形を描くように石柱が配された環状列石と推測されます
また 右側の柵内にはドルメン(支石墓)と思われる巨石があります 石柱の表面にはペトログラフ(岩刻文字)の
存在が指摘されています 背後にある山は米神山と呼ばれ 山頂部にも環状列石があります またここから
宇佐方面へ行った地点右側の 水田中に米神山側に先端が向いた立石があり その上に小さな肩平石を
載せたものが立っています 地元ではこしき石と呼ばれ蓋石を取り除くと暴風に なると伝えられ
暴風石とも呼ばれています この様に山の名やこしき石等 米に係る名が多く有りますので弥生時代頃の
ものとも思われますが定かではありません  宇佐市教育委員会

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田圃の中にぽつんと立つ? こしき石(暴風石)ではない?
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