2019.06.01 長崎県大村市 城下町大村の散歩

大村は 多良山系の西側斜面を源とする郡川によって形成された扇状地にある
大村湾の水深は 激しい潮流によってえぐられる針尾瀬戸で最深54mに達するが 平均はわずか14.8mである
その他大村湾に流入する川棚川や彼杵川も扇状地を形成したが 比較的潮流のゆるい湾奥部が堆積しやすく
大村の扇状地が大きな面積に発達することになった 東海岸では中世に寺社の荘園が拓かれ
その後 長崎往来などの交通や海運の要衝となり栄えた
  また湾西部は 山岳とリアス式海岸が発達し平地が少なく 農業よりも漁業が盛んになった
歴史を遡れば 旧石器時代の大村湾は 氷河期で海水面が低く盆地であったと考えられているが
しかし遺跡分布などからは 野岳湖一帯などの中山間地に居住したと思われ
低湿地に人が居住する可能性は少なかった 約9千年前に針尾瀬戸から海水が入り盆地は海となった
その後 縄文時代を通して形成された扇状地に人が住みだし 縄文後期には水稲栽培が始まったとされる
市街地北部の黒丸遺跡では 縄文時代末期に使われていた「石包丁」が発見されており
検証の結果 大村における水稲栽培は日本伝播の比較的早い時期に始まっていた考えられている
黒丸の南・富の原遺跡には 弥生期の大規模なムラ跡が発見されており 後に豪族が現れ古墳時代を迎えた
 大村では 黄金山古墳・小路口鬼の穴古墳・玖島崎古墳群などが確認されている
奈良時代初期に編纂された『肥前国風土記』には 景行天皇が土蜘蛛と称された現地の豪族から得た玉を賞し
この地を「具足玉国(そないたまのくに)」と命名したとの故事が記載され
それが転訛して「彼杵」と称するようになったとしている また延長8年(930)頃の『和名類聚抄』において
肥前国彼杵郡内の郷名を記した中に「於保無良」として記され 大村に似る地名が初めて文献に登場した
その頃の彼杵郡は 現在の佐世保市一帯から大村湾を取り囲む地域から長崎半島に至る広い範囲とされ
郡内に彼杵郷・大村郷・浮穴郷・周賀郷の4郷があった 佐世保から彼杵に至る地域を彼杵郷とし
大村市一帯を大村郷とした 浮穴と周賀郷は不明であるが 周賀郷を野母崎付近とする説が有力視されている
古代律令時代の彼杵郡・郡衙(ぐんが)の所在地については 東彼杵町説と大村市内説があるが
現在に至るまで 共に確証を得る郡衙遺跡は発見されていない 大村家史料による中世以降の歴史では
平安時代の正暦5年(994)伊予に土着した反乱貴族の藤原純友の孫である藤原直澄が寺島に上陸して
久原に本拠をかまえ大村氏を名のったとあり 以来14代500年近く久原に館を構え大村を支配した
この間に京都大番役・鎌倉幕府の地頭を務め西国武将として名をあげたと記されているが
大村氏の出自については 記述された文献もなく伝承の域を出ない
戦国時代に入ると 肥前国に君臨する有馬氏や龍造寺氏に比べ大村氏の勢力は急速に衰え
15世紀末には 大村氏は有馬氏の従属下に置かれることとなった 第17代当主・大村純前の時代に
有馬晴純の圧迫を受け 実子の又八郎を武雄の後藤氏に養子として出し 有馬家の次男純忠を養子として迎え
天文19年(1550)に大村家の家督を譲った なお純忠の母は大村純前の姉弟で純忠は甥に当たる
永禄4年(1561)貿易港の平戸で ポルトガル商人と現地商人の諍いからポルトガル人殺傷事件が起こり
ポルトガルの平戸撤退に際し 永禄5年(1562)純忠は領内の横瀬浦を開放し 元亀元年(1570)には
長崎を開港した 当時の長崎は寒村にすぎない辺地であったが 以降良港として大発展していった
この頃 大村純忠は洗礼を受け日本初のキリシタン大名となって篇教政策に傾き 領民の反発及び
家臣団の分裂や反発を招いた また 龍造寺氏の圧迫を受け天正8年(1580)に降伏し従属関係に陥った
天正12年(1584)龍造寺氏は沖田畷の戦で 九州攻略を目指す島津氏に敗れ龍造寺隆信も戦死したが
龍造寺方として従軍していた大村氏は 島津方に参戦していた親族の有馬氏との戦いには終始消極的であった
そのため敗戦後も 大村軍は島津軍の追撃も受けずに開放されたといわれている
  天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定においては秀吉に従軍し所領を安堵されたが 同年純忠が死去した
嫡男の喜前は戦国末期の政情不安から 新たに慶長3年(1598)に築城を開始し翌慶長4年に玖島城が落成した
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に属し徳川家康から所領を安堵され
大村喜前が肥前大村藩の初代藩主となり玖島城が藩庁となった
その後転封改易もなく古来からの領地を支配したまま明治維新を迎えた極めて稀な藩であった
そのため家臣の整理も無く石高に比べその数が多く 幕末においても半数以上が城下外の郷村に居住していた
明治4年(1871)廃藩置県により大村県となり 後に府県統合により長崎県の管轄となった
明治11年(1878)東彼杵郡が発足し郡役所が大村町に設置された 明治22年(1889)町村制の施行により
大村町・大村・西大村・竹松村・萱瀬村・福重村・松原村・三浦村・鈴田村が発足
大正14年(1925)大村町と大村が合併した大村町が発足 昭和14年(1939)西大村・竹松村を吸収合併
昭和17年(1942)大村町・三浦村・鈴田村・萱瀬村・福重村・松原村が合併して大村市が発足
昭和38年(1963)東彼杵町の武留路郷が大村市に編入され現在に至る
玖島城址 大村公園
玖島城は慶長4年(1599)大村家19代喜前によって築かれ、30代純熈(幕末)まで、12代約270年間に亘って
大村藩2万7千石の居城でした。喜前は豊臣秀吉の死後、天下の乱れることを恐れ、
慶長の役で朝鮮へ出陣した時、海辺にある城は守りに強いと言う教訓を生かし、
玖島の地を選んで城を築きました。玖島と言う名の通り元は島で、今の国道側を埋め立てました。
慶長19年(1614)20代純頼の時に城の大改修を行ない、それまで城の北側にあった大手門が
現在の南側に移され、今日に至ってい ます。
この大改修に先立って、肥後の加藤清正に意見を聞いたと記録されています。
城には天主閣はなく、館造りの建物でした。明治初頭、建造物は取り壊されましたが、石垣はそのままで
往時を偲ばせています。現在では緑に囲まれた大村公園として、四季折々の花が人々の目を楽しませています。
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国土地理院空中写真 白線は城の外郭
1.本丸跡(大村神社) 2.船着き場 3.大手門 4.板敷櫓(再建) 5.内堀(長堀と南堀・共に菖蒲園)
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国立国会図書館デジタルコレクション 日本古城絵図 西海道之部(1)大村城図
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大手門跡の大村神社鳥居
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大手門を入ると東側に穴門と呼ばれる潜り門がある
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板敷櫓と二の郭(二の丸)石垣塀 平成4年(1992)に再建された
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県指定天然記念物 玖島崎樹叢
この樹叢は、玖島城の本丸を取り囲むように茂る自然林で、城の東側の斜面から教育センターの手前まで
広がっています。樹叢の中には、クスノキ、シイノキ、ナナメノキ、ヤマモガシ、ヤマモモ、バクチノキなど
主に暖地性の樹木があり、また、大陸性のコバノチョウセンエノキも見られます。樹下には、
クシマザサ、イワガネ、シロヤマシダ、ホウチャクソウ、ムサシアブミなど珍しい植物が生えています。
特に注目されることは、諫早が北限とされていたヒゼンマユミが樹叢内でいくつか発見されたことです。
玖島城には、江戸時代に既に大きな樹木があり、大村を来訪した文人の日記にも
お城の建物が樹木で見えないという工ピソードが出てきます。
廃城となった後、人の手が入らなかったため、林が自然の状態へと戻っていき、
現在のような大木を含む樹叢になりました。
この樹叢は、自然保護の上からも、学術的にも、極めて貴重なものであり、
昭和49年に県の天然記念物に指定されました。現在も自然の状態で保護されています。
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板敷櫓から見る対岸の多良見町舟津・竹島と鹿島 眼下に新蔵波戸の船着き場
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南堀の菖蒲園
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虎口門跡
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玖島城本丸跡
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 玖島城は 慶長4年(1599)に築造され 慶長19年(1614)に大改修が施され それまで北側にあった大手を南側に移し 同時に虎口門・台所門・搦手門の形が定まったとされる
 本丸敷地内の西半分・大村神社本殿の一帯には大広間など政庁となる侍詰所があり 東半分・稲荷神社のある一帯に藩主の居館があった 城に天守はなく平屋の御殿であった
 本丸を巡る石垣の上には塀を巡らして矢狭間・鉄砲狭間・石火矢狭間を設け 護摩堂や多聞櫓があったと記録されている
 左の絵図は江戸後期の本丸を描いたもので 政庁や藩主居館の位置や 間取りを見ることができる 明治の廃藩置県で大村県庁が置かれた後間もなく長崎県に合併し建物は取り壊された
 明治17年に旧藩家臣により 大村家歴代藩主を祀る大村神社が建立され現在に至る
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大村神社拝殿
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国の天然記念物 オオムラザクラ
(右写真の出典:お花の写真集 http://www.flower-photo.info/
学名:Prunus lannesiana 'Mirabilis'
昭和16年 当時大村女子師範学校の教官であった外山三郎氏(後に長崎大学名誉教授)によって発見され
同氏によってオオムラザクラと命名 学会に報告された希少種の八重桜である
花は一般的な八重桜をふたつ重ねたような独特な二段咲きで 下部の花を外花 上部を内花と呼び
基本的に桜の萼片は5枚であるが オオムラザクラには10枚の萼片がある また花弁の数は100枚前後あり
最も多いものでは200枚に達するものもある 大村市の市花となっており大村公園に多く見られるが
大村神社拝殿前の二本が 昭和42年に「国の天然記念物」に指定された
開花時期は八重桜と同じ様にソメイヨシノに比べると遅く4月中旬ごろである
佐世保市上柚木町の西光寺にあるものが 現存するオオムラザクラ最古の木とされている
江戸時代には平戸藩ゆかりの寺で 宝暦3年(1753)頃に平戸藩主から苗木を拝領し庭に植えたと伝わる
伝承では かつて平戸亀岡神社に古木があったことが判明しており 原産地は大村ではなく平戸と考えられる
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搦手門跡
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台所口門跡 藩主が出入りする門
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城下町散策
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1.五教館御成門 2.久原城址 3.中尾元取締役旧宅 4.家老稲田家屋敷跡 5.斉藤道場跡
6.家老浅田家屋敷跡 7.武家屋敷楠本家 8.春日神社 9.旧円融寺庭園 10.五色塀
本小路(ほんこうじ)武家屋敷跡
慶長4年(1599)に大村喜前が玖島城を築城した際 城下に5つの小路を設け武家屋敷を配置した
城の大手(城跡駐車場の北側)を起点として東北東に400m程続く直線路であり 小路を割り出した本筋から
「本小路」の名が付いた 上級家臣の家老など広い屋敷が多く 道幅は往時のままである
開発が進み屋敷跡の面影は皆無である 藩校の五教館や大村藩牢屋敷もこの通りにあった
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藩校・五教館御成門
五教館の起源は四代藩主・大村純長が 寛文10年(1670)に城内に創設した集義館にさかのぼり
聴講を広く一般にも許可したことが特徴とされた 元禄7年(1694)に静寿園に改名し
桜田(大村公園桜田の堀付近)に移設後「五教館」と名を変え 文武両道を学ぶ藩校として整備された
五教館の名称は『孟子』が説いた「父子親あり 君臣義あり 夫婦別あり 長幼序あり 朋友信あらしむ」の
五倫道に因む その後入学者の増加に対処するため 天保2年(1831)に現在の地に移転した
明治6年に廃校となり 一部を校舎として玖島小学校(現・大村小学校)が開設された
この御成門は通称「黒門」と呼ばれ 藩主が来校した時の専用門として使用された
現在では 大村小学校の入学式と卒業式の時だけこの門が開かれ生徒がくぐる
石井筆子(きよし)像
近代の女性教育と知的障害児の教育・福祉の先駆者として 市制施行60周年記念事業として建立された
ものです建長された。文久元年(1861)大村藩士渡辺清と妻ゲンとの間に生れた
若くしてフランスに留学し 津田梅子と共に華族女学校の外国語教師を務め 大日本婦人教育会の設立や
婦人倶楽部万国大会の日本代表となるなど 女性の教育と地位向上に貢献した
小鹿島 果との間に生まれた子が知的障害児であったことから 障害児の福祉と教育に携わるようになった
果との死別から11年後 日本初の知的障害児施設滝乃川学園(東京都国立市)の創設者・石井亮一と再婚し
共に運営に尽力した 亮一の死後は園長として戦時下の学園を守ったが 昭和19年(1944)に死亡した
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牢屋の辻 右側の角に牢屋敷があった
牢屋の坂 牢屋の坂の橋は小姓小路の起点
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久原城址
小姓小路の石垣塀
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中尾元取締役旧宅勝手口(非公開)
線路に分断された小姓小路
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小姓小路武家屋敷街
慶長4年(1599)領主大村喜前が玖島城を築き 城下の武家町に本・上・小姓・草場・外浦の五小路を通した
後には武家町も拡大し 岩船・久原・日向平などにも武家町ができた
小姓とは藩主の御側衆のことで 初め小姓衆が住んだ城に近い通りであることから小姓小路と名付けられた
小路はJRを越えて「牢屋の坂」の上まで続いており 武家屋敷街の中でも最もまとまって石垣の残る所である
小路の西端には 大村氏が最初に入ったとされる久原城があった場所と大村氏の記録で伝えられている
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家老稲田家屋敷跡
寛延3年(1750)に元締役の稲田利左衛門が住んで以来 明治5年(1872)に西彼町小迎村に転居するまで
122年間にわたり稲田家の屋敷となった その後 稲毛惣左衛門が譲り受けたが火災で全焼した
現在も個人所有が続き非公開である 郷村記によると「表口の長さ35間3尺 面積は3反3畝」とある
庭園は10代藩主純昌の設計によるもので 書院の内部はすべて純昌の自筆の絵が描かれていたが
火災前に小迎村の下屋敷に移されていたため焼失は免れた 天保年間(1830〜1844)に訪問した広瀬淡窓は
「大村侯は、実に礼儀正しく至れり尽くせりで、諸大名の中でも学問好きである。
また家老以下の重臣達もみな主君に仕え、その中でも稲田又左衛門は最も温厚な君子で家老としてふさわしい」と
記している 現在建物は残っておらず 高い石垣と堂々とした門の跡が残っているのみ
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岩船武家屋敷街の最西端にある門の跡
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門から玄関までの長いアプローチ
広大な敷地の一角
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岩船武家屋敷街
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野面積みの石垣
愛宕山公園(愛宕神社)入り口
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本小路武家屋敷通り 大村市玖島2丁目の元武家屋敷 石垣は新しい切石積
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JR大村線のガードを潜って大村幼稚園の角を右へ 玖島郵便局の角をまた右へ 上小路の坂を上がる
九州鉄道会社長崎線の早岐−大村駅間が 明治31年(1898)1月20日に開通した後
このガードの上を汽車が走るのは 大村−長与駅間が開通し 大村駅が途中駅となる同年11月のことで
前年に開通していた長崎(現・浦上駅)−長与駅間に接続し 早岐経由の鳥栖−長崎駅間が全通した
明治40年(1907)に国有化され 昭和5年(1930)12月 長崎本線が有明ルートに変更され大村線となった
上小路
当初は尾上小路と呼ばれ 家老針尾家屋敷から長崎往還まで続く長い通りで 斉藤道場・家老浅田家屋敷
松林・飯山などの武家町が続き 五小路の中では最も長い通りである
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斉藤道場跡
道場跡の祠 中は空で敷地内に三体あった
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斉藤道場と浅田家間の路地
上小路は上り坂で 今度は踏切
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家老浅田家屋敷跡
現在は西川家住宅として主屋・石垣・塀・庭園がまちづくり景観資産に指定されている
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五色塀
上小路 坂の一番上

旧楠本正隆屋敷
楠本正隆は 天保9年3月(1838)60石取りの下級藩士楠本家の嫡男として生まれた
五教館の監察頭を務め 中老として尊皇攘夷による倒幕運動で活躍した
維新後は新政府に出仕し 明治5年に外務大丞を経て新潟県令に就任し県の近代化に努めた
大久保利通の腹心として知られ 利通からは「天下随一の県令」と賞された
明治8年(1875)8月に内務大丞 12月に東京府権知事を兼任 明治10年(1877)1月 東京府知事となる
府知事を一期2年努めた後は元老院議官となった 明治22年(1889)には東京市会議員となる
明治23年(1890)に衆議院議員に当選 明治26年(1893)から衆議院副議長及び議長に就任した
政党活動を通じて立憲改進党などを組織し また政治活動以外に都新聞社主や会社社長も務めるなどした
明治29年(1896)議員を辞職 明治35年(1902)享年65歳で死去した
屋敷は大村市が所有し 有料で開放されている
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春日神社
寛永17年(1640)三代藩主・大村純信が京都・西院春日神社を勧請して創建
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老朽化で倒壊の危険があるため柵内は立ち入り禁止
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春日神社表参道 下りれば草場小路
旧円融寺庭園
天台宗松林山大乗院円融寺は、承応元年(1652)4代藩主大村純長により、3代将軍徳川家光の位牌を祭るため
創建された寺院で、その後、歴代将軍の位牌が祭られ、明治元年に廃寺となりました。
純長は幕府勘定奉行伊丹勝長の4男で、3代藩主純信の養子となりましたが、幕府の正式な許可がおりる前に
純信が亡くなったため大村藩は存亡の危機を迎えました。将軍家光の裁可により相続が許され、
藩の存続がなされ、その恩義に報いるため、特に幕府に願い出て建てられたものです。
本堂及び書院の裏庭として造られた枯山水の石庭が残されています。
廃寺になった後、石庭はツツジなどに覆われ、その姿を満足に現すことが出来ませんでしたが、
昭和44年、東京農業大学に在学中の大村市出身の一学生により発見されたことから、
庭園研究家の目にとまり、その価値が全国的に認められました。
山の斜面を利用して、これを築山風に見立て、高さ8m・幅50mの斜面に青石を主材とした
約400個もの自然石を使い、三尊方式の石組みを基本とした立石が配置されています。
中央部及び左側には、数段の水落石を用いた豪華な枯滝があります。水落石には白色の石を用いており、
いかにも自然の滝の水が落ちているようです。川の流れは、白い玉砂利で表されています。
規模の雄大さと傑出した石組みは、江戸初期の庭園様式を伝えるものとして国の名勝に指定されました。
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旧円融寺参道
明治以降は護国神社
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石組みが珍しい 旧円融寺の石塀
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草場小路の枡形
武家屋敷跡の五色塀
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大村市玖島一丁目 大村小学校の裏手武家屋敷跡 寺井医院の主屋
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大村小学校の裏手 玖島城の正面になる
佐賀県杵島郡大町町大町 土井家住宅
当初は造り酒屋であったが明治の初め頃に農業を営む土井家の所有となった
平瓦と丸瓦を交互に葺く本瓦葺の手法が用いられ
町家及び農家の両方の風情を醸し出す構造が貴重とされ 昭和49年に国の重要文化財に指定された
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