2018.02.17  大分県玖珠町の散歩

玖珠盆地は 標高300〜400mの火山性盆地で周囲を万年山・伐株山・青野山・大岩扇山・小岩扇山・鏡山などの
メサ(テーブル状の侵食性台地)に取り囲まれている この地形は 更新世中期から後期の
紀元前77万9千年〜9千7百年前に噴出した溶岩が侵食されて形成されたものと通常考えられているが
これとは別に盆地の成因をカルデラであるとする説も存在している
筑後川の上流である玖珠川が東から西に貫き 内陸部で寒暖の差が激しいため秋冬の朝霧が名物となっている 
天平12年(740)頃に成立した『豊後国風土記』によれば 豊後国八郡のひとつとして球珠郡と記されている
この球珠郡の条に「昔此村有洪樟樹因曰球珠郡」と書かれ この地にあった大樟が地名の由来となっている
 伝えによれば 大昔 1本の巨大な樟が生えそびえ立ち その木陰となって作物が育たなかった
ある日 困った里の衆が通りがかりの大男に 巨木を切り倒すよう懇願し 大男が苦労の末に樟を切り倒すと
ようやく日が当たり作物が育つようになった 倒された大樟の切株が伐株山で
樟が倒れた時に跳ね上がった土が積もって山となったのが万年山(はねやま)である
以後この地を「クス」と呼ぶようになった また『延喜式』には荒田駅が置かれたとあり
交通の要衝ではあったが 駅名通り荒田が多く生産性は低かったと思われる
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国土地理院標高図
中世期の平安時代には 豊後から豊前・筑後に抜ける交通の要衝として 武装集団の玖珠郡衆に支配された
鎌倉時代には 豊後守護職の大友氏の統治下に入ったが「国侍」といわれる勢力を保ち続けた
同時代の弘安年間(1278−1288)には 森朝通により標高576mの角埋山に角牟礼城が築かれたと伝わるが
歴史上その存在が記され確認できるのは 室町時代の文明7年(1475)が最初である
戦国時代には 豊前大内氏と豊後大友氏との争いを背景にして城は堅固に補強された
天正14年(1586)の島津氏による豊後国侵攻の際には 玖珠郡衆が籠城し落城することなく守り抜いたが
戦国末期に大友氏が滅亡するとともに所領を失い 武士団の玖珠郡衆は歴史上からその姿を消した
文禄3年(1594)から慶長5年(1600)にかけ 日田の毛利高政が玖珠の拠点として角牟礼城を整備したが
江戸時代に入り慶長6年(1601)来島長親が入封し森藩が立てられたが 1万4千石の無城大名であったため
角牟礼城は廃され山麓に陣屋が置かれた 来島氏は瀬戸内・村上水軍の末裔である来島村上家であり
伊予国の来島に本拠を置き1万4千石の領地を有していた 関ヶ原の戦いでは西軍に属したが
長親の妻の伯父にあたる福島正則の取りなしで 本多正信を通じて家名存続の沙汰を得ることが出来た
しかし 転封地が四方を山に囲まれた豊後国玖珠郡と完全に海から遠ざけられ 水軍の末裔としては
幽閉に近い処遇であった 転封に伴い陣屋内に伊予大三島の大山祇神社を勧請して三島神社を造営した
元和2年(1616)二代目藩主の通春が「来島」を「久留島」と改めた
天保8年(1837)八代目藩主の通嘉が 幕府に対し三島神社の改築を口実として 石垣や茶屋「栖鳳楼」の
増築と藩主御殿庭園・栖鳳楼庭園・清水御門庭園を造営し城構えのように整えたが
これら藩主が体裁を繕うための贅に対し 使役に駆り出された領民による不平は今も続いていると思われる
明治4年(1871)廃藩置県により森県となったのち大分県に編入された 明治22年(1889)に
行政区画内の23村が 森・万年・北山田・八幡の4村に統合され 明治26年に森村が森町に
昭和2年に万年村が玖珠町にそれぞれ改称し 昭和30年には4町村が合併して現在の玖珠町となった
久留島家子孫の童話作家・久留島武彦の業績を記念し昭和25年より「日本童話祭」を開催している
「道の駅 童話の里くす」に車を停めて散歩開始 田町の陣屋跡を目指す
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大字帆足字戸刈「童話の里」看板
畑の中にある石組井戸
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旧道に入る
大字森字新町
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新町 崖下の家並み
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新町の旧道
軒下の地蔵

城下町森の散歩
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街角のかぐや姫石像 説明に「主人公で世界最古の書物に出た宇宙人です」とある
他に 桃太郎・浦島太郎・金太郎の「三太郎を」はじめ 鬼・一寸法師・一休さんなどがある
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下町・中町・上町のメインストリート
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専光寺への路地
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浄土真宗本願寺派 慈雲山 専光寺
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山門
鐘楼
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明治41年(1908)9月竣工の本堂
森まちなみ情報発信施設 カネジュウ館(以前は久留島記念館)
荒木本家・旧カネジュウ酒造所 食事と各種イベント 今は「おきあげ雛」を展示中
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レンガ蔵は荒木本家衣装蔵 大正期の建築
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下町 カネジュウ館表側
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中町 粕屋
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中町 昭和8年(1933)建築の郵便局を改装した カフェ レトラス
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中町の路地
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廃業した薬局の妻壁
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童話の里のくすりや
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歪みがある大正から昭和初期の古い硝子板
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末廣神社(三島神社)鳥居 三島公園への道
住本食料品店(スーパー)清水御門への道

末広山西側の清水御門庭園
清水御門は 三島神社の正面参道にあり 門の石段下に湧水を使った庭園が
造成され 堀をめぐらしたお城仕立ての大手門に擬している 北側の土手からは年中涸れることなく清水が
涌きいで「玉水」と名付けられ お茶を立てるのに適した水とされた 門の傍らには清水茶屋が建てられた
門を潜り石段を上ると玉濃井(たまのい)という井戸があり 桜の馬場を抜けて三島宮の拝殿前に着く
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清水御門から庭園のほぼ全景を見る
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常夜灯 文政十三年庚寅歳秋八月建之(西暦1830年9月)
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丸木御門
清水御門

森陣屋跡の三島公園
旧久留島氏庭園は、末広山の斜面と裾部を利用した御殿に接する「藩主御殿庭園」と末広山の南端に建てられた
栖鳳楼の周囲につくられた「栖鳳楼庭園」、末広山西側の清水御門前の堀の一部を庭園化した
「清水御門前庭」の三つから構成されています。三つの庭園は、末広山の高低差・地形・眺望を
最大限に利用して配置され、園路によって有機的かつ効果的につながれた回遊式の庭園と考えられます。
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掲示板より旧久留島氏庭園周辺図(部分図・1200x800ピクセル)
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藩主御殿庭園から御殿跡
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御長坂
古記録に「長坂道」と記されている御長坂は、お城仕立ての境内によく似合う参道で、上り詰めると
右上に忍者返しの石組があり、更に進むと栖鳳楼・末廣神社拝殿・御神殿(鞘堂づくり)にたどり着く。

太平の世の中にあって また藩財政を立て直すさなかでの「無用の城普請」とも言える作事である
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末広神社拝殿
慶長6年(1601)初代森藩主久留島康親が藩の守護神として三島宮を愛媛県大三島より勧請した
その後文化文政の頃 第八代久留島通嘉によつて境内並びに神殿・拝殿その他の建物などが造営整備され
現在の姿になつた 明治五年に妙見宮を合祀して社名を「末広神社」と改称し現在に至る
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村上水軍 折敷に縮み三文字の紋
容量七石 日本一大きな手水鉢
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栖鳳楼(せいほうろう)
森藩の記録には、「紅葉の御茶屋」と記されておリ、天保2年(1821)に完成。真言宗の高僧・不退堂によって
栖鳳楼と名付けられた。神社祭典の為の参篭(御通夜)や、月見・花見の宴などにも使用されていた。
ニ階からの眺望は、素晴らしく、お城の天守閣の趣をなしている。一階は御茶屋風になっておリ、
その庭園は久重連山や城下町の遠景を取リ入れたもので、豪華な飛石が配置されている。
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陣屋跡の三島公園から見る角埋山(つのむれやま)と角牟礼城阯
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末広山
三島公園のC11型蒸気機関車
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かつては森機関区に所属していた270号機
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左側 蒸気機関士席
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右側 機関助士席
三島公園から下り鉄砲町・金山町を経て戦車道で道の駅まで戻る
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鉄砲町から見る大岩扇山 標高691m
登録有形文化財 屋号「酢屋」の荒木家住宅
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酢屋・荒木本家 酒蔵 大正3年(1914)建築
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大正11年建築の母屋と勝手蔵
母屋二階のタイル張り洗面
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荒木本家・酢屋 「出桁造」が特徴の母屋
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片平田 末広神社御旅所清水御門社 明治以前は妙見宮
鳥居の建立 元禄一六年癸未十二月(西暦1704年1月) 常夜灯は天保13年と寛永3年の銘あり
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戦車道のフォトスポットから大岩扇山
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自衛隊駐屯地から日出生台演習場へ通じる戦車道
高速大分道の玖珠IC手前の赤鬼像
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赤鬼と高速大分道森川橋
豊後森機関区
昭和9年(1934)開設 ディーゼル化にともない昭和45年(1970)に廃止された
現在も残る扇形機関庫は 京都の梅小路蒸気機関車館と同規模である
平成18年(2006年)3月に玖珠町が機関庫をJR九州から買い取り 平成21年(2009)2月6日に機関庫及び
転車台が「旧豊後森機関区の関連遺産」として近代化産業遺産に認定され 平成24年(2012年)8月13日には
「旧豊後森機関庫」及び「旧豊後森機関庫転車台」として国の登録有形文化財に登録された
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1785平方mの面積を有する鉄筋コンクリート造扇形庫で 最盛期には21両の蒸気機関車が所属していた
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転車台と扇形機関庫
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保存する大正8年(1919)製の国鉄9600形蒸気機関車「29612」号機は 福岡県志免町から無償譲渡されたもの
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