2017.03.17 柳川雛祭り「さげもんめぐり」も兼ねて町中散歩

柳川市
市全域・77.15平方キロメートルの 約2/3が沖積地 残り約1/3が干拓地である
干拓は江戸時代から始まり 昭和にかけて徐々に陸地が広がってきた為 市内各所にその時代の堤跡が見られる
市全域の標高は全て5m程度で 最高地点は三角点のある柳川城址で海抜6.9m程度となり
見渡しても丘や山林というものは皆無で 単調な平野が広がる
16世紀初頭の文亀年間に 下筑後地方の領主であった蒲池治久が蒲池城の支城を築き これを本拠地とした
この城が後の柳河城となって 周辺に城下町が形成されたのが町の始まりである
豊臣秀吉の時代には 筑前岩屋城々主・高橋紹運の長男・立花宗茂が南筑後13万2千石の領主として
柳河城に入城したが 慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦い」で西軍についたため所領を没収された
その後 立花氏に代わって田中吉政が岡崎城から筑後国32万5千石の領主として入城し 柳河藩を立藩したが
田中氏は2代で「無嗣断絶」となった 一方 関ヶ原後に浪人となっていた立花宗茂は その力量を買われて
徳川家康に引き上げられ 慶長15年(1610)には陸奥棚倉3万5千石の大名となっていた
元和6年(1620)田中家断絶後 旧領の柳河に10万9千石の大名として返り咲き 関ヶ原に西軍として参戦し
一度改易されてから旧領に復帰を果たした唯一の大名となった 以後明治まで立花氏が藩主を務める
さげもん
柳川地方の雛壇には 必ずと云ってよいほど添えられる「さげもん」があり その由来は江戸末期に遡る
「さげもん」とは 「女の子」の初節句のお祝いに 知人や親戚から贈られた着物の端切れを用い
無病息災・良縁など「女の子」の「幸せ」と「健康」を祈願して 鶴・亀・海老・三番叟など
縁起の良いものを形どり 一つ一つを袋状にして縫い上げた「縫いぐるみ」を 縦に七個ずつを横七列に
また 鮮やかな七色の糸で巻いた大鞠二個を中央にして それらを竹と布で作った紅白の輪に吊るし
数の合計が「51」となるように作られた下げもの飾りのことである
当時は人生50年と言われ 一年でも長生きしてもらいたいという 切なる親の願いが込められている
現在では 兎・宝袋・鶏・這い人形などや アニメのキャラクターなども仲間入りする
市内各所に「鞠」や「さげもん」の教室が開かれ 年々「さげもん」の数が増え
雛祭りの期間中は 作品の発表展示会も兼ね いたる所で「さげもん飾り」を見ることができる
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AM 8:50 観光無料駐車場の船着き場
宮永町 御堀橋上から
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並倉
三橋町江曲 創業明治3年(1870)鶴味噌醸造(株)の煉瓦倉
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鶴味噌醸造
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檀平橋から並倉と掘割
出来町 天満宮
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真勝寺山門と石橋
山門の木組
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浄土真宗大谷派 田中山 真勝寺本堂
慶長5年(1600)の関ケ原の戦に敵将石田治部少輔三成を捕らえた功により、三河国岡崎城主から
筑後一国33万石余の国主となった田中吉政は、柳川城の整備、天守閣の築造、筑後川・矢部川の治水事業、
道路の新設・整備など土木事業に多くの業績を残した。真勝寺の寺伝では、遺命により2代忠政が
慶長16年(1611)吉政の遺骸を藤吉村に葬り、その墓上に一大伽藍を建立した。それが今の真勝寺で、
本堂下にある吉政の墓石は、極めて質素な四角柱で、本堂自体が吉政の墓になっている。
墓石は、本堂の北側から床下を通って参拝できるようになっている。また真勝寺には田中吉政の絵像がある。
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柳川城堀水門 水門橋から
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柳川城堀水門口 中国からの観光客
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柳川市椿原町 安田歯科医院
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柳川市隅町 鋤崎土居
旧藩時代、柳川には交通や戦略上の役目を備えた水路が縦横に掘られた。ここ鋤崎土居の堀は、奈良朝条里の
堀を広げてつ<られたもので、東方を衛る外城の土塁跡である。堤上には大樹が茂り、昼なお暗く
人々を怖がらせたところである。昔は、このような堀を擁した土塁が、「外城三里」を囲んでいたと言われている。

柳川市古文書館の松井家・立石家のお雛様とさげもん
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柳川市隅町 柳川橋西詰
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三柱神社の欄干橋と船乗り場
柳川橋から北側
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三柱神社
約2万坪もの敷地を持つ三柱神社の神域は 現在高畑公園として整備されて 春には桜まつりが開催される
参道は 直線で300mと長く 3月末の春季大祭では流鏑馬が奉納される
祭神は 西国一の強者と賞賛された武将の立花宗茂・岳父の戸次道雪・宗茂正室のァ(ぎん)千代の
三柱の霊を祀ったことから三柱神社と称す 由緒は 天明3年(1783)に7代藩主・立花鑑通(あきなお)が
柳河城内三の丸にあった長久寺境内に社を建立し 戸次道雪を梅岳霊神として祀り梅岳宮とした
文政3年(1820)9代藩主・立花鑑賢(あきかた)により 宗茂に松陰霊神 ァ千代に瑞玉霊神の神号を与え
坂本町の日吉神社近くに祀り唯一宮と称した 文政6年(1823)には 松陰霊神と瑞玉霊神を梅岳宮に合祀し
三柱宮に改称したが 文政8年(1825)高畑の現在地(約2万坪)に より規模の大きい社殿の建立を計画し
翌 文政9年(1826)に新しく三柱宮が造営され 旧8月16日に遷宮が執り行われた
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柳川は卓球場発祥の地 時間無制限200円です
欄干橋上から松月乗船場
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柳川のさげもんめぐり 個人宅・森田家の「さげもん」 見学無料自由だが遠慮して窓外から撮影
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京町通り 吊り下げ行灯の「さげもん」
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旭町の御堂
Google Map>ではむつみ会? 廃墟?
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京町通り「紙久本店」の五月人形の「さげもん」
男の子には 駒犬・鶏・馬・三番叟・桃・海老・白鼠・鳩・鶴・そして何故か「赤蛸」
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古賀新きもの館 きもの屋さんの「さげもん」
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有限会社龍川魚商店 うなぎ屋さんの「さげもん」 おじゃみの鞠と駒犬
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町中を縱に走る水路
水引の「さげもん」

京町・朝日屋化粧品店 「さげもん」と人形教室
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蝉・兎・ひよこ
京町通り 京町
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京町通り 巨大さげもん
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「さげもん」のラッピングバス
アンパンマン・ドラえもん
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縫いぐるみの雛飾り
辻門阯の石碑から水辺の散歩道へ
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樹上にアオサギの巣
水辺の散歩道
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柳河城外堀
ウグイス橋
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クモ手網と川下り舟
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三ノ丸戊亥門(いぬいもん)跡
弥兵衛門橋
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堀めぐり(川下り)の会社は 柳川観光開発・大東エンタープライズ・水郷柳川観光・城門観光・柳川リバー観光
の5社があり全て会社組織となっている また個人所有のボートやカヌーでの堀めぐりも自由に行えるようである
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日吉神社
正応3年(1290)に近江国・日吉大社を勧請したことに始まる 明治以前は山王大権現と呼ばれていた
拝殿は18世紀中頃 本殿は18世紀初め頃の建立とされる お多福面は年末から3月末まで設置される
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創業文政年間・喜多屋(八女)の水上レストラン
ヤブツバキの花

御花
3代藩主・鑑虎が元禄10年(1697)に 総面積約7千坪の別邸を構え「集景亭」と名付け 後に会所とした
5代藩主・貞俶が元文3年(1738)に 奥御殿として使われていた二の丸座敷を「集景亭」に移築し
増築などの普請が加えられ 「御花畠」と命名されたのが「御花」の始まりである
以降 御花畠は柳川藩国元の奥御殿として 明治維新まで歴代藩主の家族の住いとして使われた
藩主の政所は柳河城の本丸御殿にあり 御花畠と城を行き来していたが 嘉永3年以降は御花畠に居住した
明治43年(1910)に 伯爵となった立花家14代当主・立花寛治によって和洋の邸宅と庭園が造られた
第二次大戦後の昭和25年(1950)に 16代当主の立花和雄が「柳川御花」として料亭と旅館の営業を開始し
現在も立花家が経営する観光旅館となっている 昭和53年(1978)8月に屋敷地の西半分が
「松濤園(しょうとうえん)」として国の名勝に指定され 平成23年(2011)9月には東庭園が追加指定されて
屋敷地全域が国の名勝となり 名称を「立花氏庭園」に改めたが 今でも「御花」と呼ばれることの方が多い
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御花の「さげもん」
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庭園 背後は「かんぽの宿・柳川」
沖端
水天宮のある旧稲荷町や旧沖端町は 柳河城西裏の木戸門前から連なる商家や船大工・漁師の集まる漁村であった
水天宮は 明治2年(1869)に久留米水天宮の分霊を勧請し 同地区内にあった稲荷神社と弥剣祇園社を合祀した
稲荷神社は文禄3年(1587)に立花宗茂により創祀され 弥剣祇園社は文化年間(1804−1818)の創祀である
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沖端水天宮
沖端
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御花のなまこ壁
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御花の裏 「出逢い橋」上から
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御花の裏 「出逢い橋」上から
からたち文人の足湯 PM 14:45
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