2017.01.27 筑前岩屋城と太宰府散歩

岩屋城は戦国時代の16世紀の半ば(永禄元年頃)に 宝満城の支城として大友氏配下の
高橋鑑種(あきたね)により築城されたが 後に鑑種が毛利方に寝返ったことから
永禄12年(1569)に高橋家の家督を 剥奪され追放されてしまう
その後 鑑種は毛利氏に引き取られ小倉城主となっている
新たに岩屋城主となったのは 大友氏の配下 吉弘鎮里(しげまさ)である 後に鎮里は高橋家の家督を継ぎ
高橋紹運(たかはしじょううん)と改名した 天正13年(1585) 天下統一を目前としていた秀吉は 同年7月に
朝廷より関白を任官され 朝廷の権威を似て 九州の戦国大名である大友氏・島津氏に対し停戦の令を発した
すぐさまこれを受諾した大友氏に対し  島津氏側は家中激論となったが一応受諾の方針を決定したとされる
しかし 天正14年(1586年)1月に 島津家第16代当主の義久が 源頼朝以来の名門島津が
秀吉のごとき 成り上がり者を 関白としては礼遇しない旨を表明し 秀吉の発した停戦令を無視した
同年3月 これに対し秀吉は 島津氏に対し占領地の過半を大友氏に返還する国分案を提示したが
島津側はこれを拒否 大友氏への攻撃を再開して九州統一の戦を再開した
4月5日 秀吉は大友宗麟の謁見を大阪城で受け 10日には毛利輝元に対し九州出陣の準備を指示した
   しかし 秀吉の九州入り前に九州統一を成し遂げたい島津軍は 6月には出陣して筑前へと攻め入り
鳥栖の肥前鷹取城を陥落させ 7月10日には勝尾城を開城させた 7月12日には天拝山に本陣を移し
高橋紹運が守る筑前岩屋城・長男の立花宗茂が守る立花山城・次男の高橋統増が守る宝満山城を攻撃の目標とした 
これに対し秀吉は近隣諸国の大名に 朝廷の逆徒として島津征伐を命じたが 毛利輝元が出陣したのは翌月の
8月16日であった  この間 総勢3万以上の島津勢に抗い続けたのは 大友氏配下の紹運親子だけであった
天正14年(1586)7月12日 岩屋城の紹運に対し島津軍は降伏勧告を出すが 紹運がこれに応じず
763名の籠城兵士による徹底抗戦を決行した 14日には島津の総攻撃が始まったが島津側の消耗が激しく
城を陥落させたのは半月後の27日であった 紹運は自害し 紹運以下763名全員が討死した
体制を立て直した島津軍が紹運の子・立花宗茂が守る立花山城に進軍したのは8月も中旬になった頃で
時すでに遅く 秀吉軍の先鋒毛利軍が九州上陸を果たした頃であった  以後 薩摩軍の撤退が始まり
立花宗茂は島津方が残る高鳥居城を奪取し 8月末までには毛利の先遣隊と連携し岩屋城と宝満山城を奪還した
天正15年(1587)3月28日 秀吉が九州に上陸し小倉に入城  5月8日には島津氏が降伏した 島津義久は
秀吉軍の到着前に九州平定を目指したが 岩屋城の徹底抗戦によって目算が狂い 降伏を招いたと言える
岩屋城址には「嗚呼壮烈 岩屋城址」と刻まれた石碑があり 城跡から道を隔てた南西側に高橋紹運の墓がある

大宰府政庁跡(都府楼跡)の駐車場に車を停め 筑前岩屋城址を目指す
高低差245m 距離約2km 登頂に要する時間約55分
imgimg
大宰府政庁跡の無料駐車場 11:20
大宰府政庁跡の北東角から出る
imgimg
市民の森方向へ
民家の軒先から見る岩屋城址
imgimg
市民の森への道
市民の森入り口
imgimg
メタセコイヤ
img
案内図 @ 高橋紹運墓 A 岩屋城址
急坂を登り詰めて右へ行く
imgimg
岩屋城跡への登り口 11:48
自然林の中 急坂の道が続く
img
筑前岩屋城・二ノ丸跡
img
城主・高橋紹運の胴墓 12:07
imgimg
二の丸跡から本丸跡へ
四王寺林道に出て少し右へ
imgimg
林道の「高橋紹運公之墓」の石碑
本丸への登り口
imgimg
本丸への階段
最後の登り
img
「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑 12:17
imgimg
裏面 昭和30歳乙未仲秋
Viewpoint
img
大宰府政庁(都府楼)跡を見下ろす
img
上・宝満城のあった宝満山頂 下・水瓶山の雲龍神祠
img
太宰府天満宮と九州国立博物館(右下)
img
今にも泣き出しそうな空 12:58
imgimg
少し高い所が山頂
標高281m 三角点は無い
imgimg
下山開始 13:00
二ノ丸跡から岩屋谷の磨崖石塔群へ
imgimg
足元悪くかなり急な下り
岩屋磨崖石塔群へ
img
磨崖石塔群 13:17
imgimg
梵字は読めない
何か彫ってあるが分からない
imgimg
戦国時代・福岡県萩尾姓の始祖 萩尾大学の墓
馬の背道 ついに雨が降り出す
img
史跡 観世音寺境内および子院跡 推定 金光寺跡
所在地 福岡県太宰府市大字観世音寺字金光寺  指定年月日 昭和45年9月21日
貝原益軒著『筑前国続風土記』に観世音寺の子院(別院)として49院の名が記されており、そのなかに
「金光寺」の寺名が見える。現在、この地は小字名を金光寺(コンコウジ)と称し、金光寺と音通することから
有力な比定地にされてきた。昭和53年から九州歴資料館によって本格的に発掘調査が実施され、
遺構の全容がほぼ明らかとなった。検出された主な遺構は礎石建物6棟・池・石塔群・火葬処などである。
これらは建物の建て替え・改修等から大きく3期に分けられ、
存続した年代は13世紀後半〜16世紀前半にわたっている。
(第T期・13世紀後半〜14世紀中頃 第U期・14世紀中頃〜14世紀末 第V期・14世紀末〜16世紀前半)
この遺跡の最盛期は第U期で、下図のような中央の広場を中心にして建物が整然と配置され、こうした建物間の
往来には通路を設け、建物の周囲には排水のための雨落溝が巡っている。
この遺跡の特徴は礎石建物に伴って石塔群・火葬処が近接した場所に造営されていることである。
下図の建物Dのように墓処に対する礼拝堂(三間堂)的性格を帯びた建物もあり、また
出土遺物としては膨大な量の土器・陶磁器・瓦・木製品・金属製品がある。
img
この遺跡の性格については観世音寺子院の一つ金光寺に比定する見方が有力であるが、武士の居館跡とする
見方もある。復元整備に際しては盛り土を行なって遺構を保護し、上面に模造の柱等を用い表現している。
img
一度市民の森に入り「安之浦池」に出る 雨脚が強くなってきた 13:48
imgimg
市民の森ゲート
都府楼跡へ戻る道
img
大宰府政庁(都府楼)跡から筑前岩城址
img
雨が降りしきる大宰府政庁(都府楼)跡 14:05到着

梅が枝餅を食べたくて天満宮へ
img
雨の参道
img
飛梅は まだ三分咲きにも満たない
img
紅梅と絵馬 日本語でない絵馬も 大丈夫だろう天神様なら
img
楼門と紅梅
img
心字池のほとり 大楠
img
大楠と太鼓橋
img
参道の「スタバ」 みんなスマホでパシャリ なので自分もデジカメでパチリ
img
なんとも和む お福さん
<九州の旅・INDEX>  TOP