2016.10.25 長崎県南島原市深江町丁 しまばら散歩 土石流被災家屋保存公園
道の駅 みずなし本陣「土石流被災家屋保存公園」
水無川一帯では 平成2年(1990)11月17日に始まる雲仙岳の噴火活動による堆積物の土石流がたびたび起きた
平成3年(1991)6月3日に起きた大火砕流の傷も癒えない6月30日に発生した土石流は 国道57号を寸断し
国道251号を越えて海岸線まで達した この時 家屋の全半壊は148棟であった
平成4年(1992)8月8日には 台風10号の影響で大規模土石流が発生し 約30ヘクタールの地域で氾濫が起こり
島原鉄道・国道251号が土砂に埋没し 家屋の全半壊は355棟に上った
翌平成5年(1995)4月28日〜5月2日には水無川・中尾川で土石流が発生し 水無川河口より2kmの地点で
約70ヘクタールにわたり扇状に氾濫して 国道・島原鉄道が広い範囲で土砂に埋没した
家屋の全半壊は338棟となっている さらに 6月13日から7月17日にかけて大規模な土石流被害が頻発した
この保存公園は 平成4年(1992)8月8日〜14日にかけ発生した大規模土石流により被災した家屋11棟を
当時のまま保存(内1棟は移築)している この周辺は深さ約2.8〜3mほどの堆積物により埋没したが
土石流の速度が比較的緩やかであったため 建築物の倒壊は免れそのままの姿で埋没した



(旧)大野木場小学校と大野木場砂防みらい館(大野木場監視所)
大野木場小学校は平成3年(1991)9月15日に発生した火砕流で焼失した 被災した校舎を現地保存するとともに
火山活動や土石流等の監視と避難場所の確保などを目的として 大野木場砂防みらい館を併設している



2016.10.25 長崎県島原市 しまばら散歩 武家屋敷通り・島原城阯・森岳
島原市下の丁 島原武家屋敷と鯉の泳ぐまち
戦国時代はキリシタン大名の有馬晴信が日野江に城を構え この地を治めていたが
慶長17年(1612)に 家康の命に依り甲斐国に幽閉され その後切腹に処された
嫡男の直純に対しては家督と所領が安堵されたが 慶長19年(1614)延岡藩に加増の上転封となった
その後 天領となったが 元和2年(1616)松倉重政が大和国五条藩より4万石で入封し島原城を築いた
重政は領民に苛酷な圧制を敷きキリシタンを厳しく弾圧した 重政の後を継いだ勝家も領民に対し
父以上の残酷な年貢取り立てとキリシタン弾圧を行った また 幕府の歓心を得るために4万石の取立て高を
10万石と過大申告するなどの悪政を貫き 領民にとって 島原はまさに地獄であった
唐津藩主寺沢堅高の飛地領・天草諸島の民も同様に キリシタンへの迫害及び領民の酷使や 過重な年貢負担を
強いられていた その上飢饉の被害まで加わり ついに両地領民の怒りが爆発し天草島原で一揆が起こった
寛永14年(1637)ついに天草四郎を総大将とした反乱軍が組織され
「島原の乱」が勃発した 領民の怒りは凄まじく 先代の有馬・小西両家に仕えた浪人および土着の武士や
松倉配下の武士まで領民側に加担するなどして 松倉氏単独では鎮圧することができなかった
一般的に九州諸侯の記録によれば 反乱の原因を年貢の取りすぎにあると記しているが
島原藩主であった松倉勝家は自らの失政を認めず 反乱軍が絆の元としてキリスト教を用いたいたことで
この反乱をキリシタンの暴動と主張し 江戸幕府も島原の乱をキリシタン弾圧の口実に利用したため
圧政に対する土着武士や領民の反乱という側面よりも キリシタンによる反乱という曲解が定着した
寛永14年(1637)11月 幕府は鎮圧軍の総大将として板倉重昌を派遣するが
小身小録の重昌では九州諸侯軍の統制が取れず なおかつ 自ら攻撃の先陣を切った重昌は被弾して戦死した
幕府は改めて老中・松平信綱を大将とし九州諸大名およそ12万を総動員して鎮圧を計った
信綱は原城を兵糧攻めにし 3ヵ月後に漸く反乱軍は鎮圧され天草四郎をはじめとする反乱軍は皆殺しにされた
その数は 推定で3万7千人とされ(27000人という説もあるが)その内 女・子供は半数を数える
結果的に 国の宝とされる領民の殆どを殺戮してしまうという愚行であったことは否めない
その一方では 領主の松倉勝家も幕府の怒りを買い 苛酷な政治の責任を厳しく問われ
反乱軍の鎮圧後 大名の身分でありながら切腹も許されず斬首刑に処された
天草を支配していた寺沢家は天草領を没収され 失意の堅高は後に自殺し寺沢家は断絶した
その後 島原には徳川譜代の高力忠房が遠江国浜松藩より4万石で入封し 乱によって減少した領民数と生産高を
巧みな農業政策や植民奨励政策などによって補い 荒廃した島原地方の復興に尽力した
しかし 後を継いだ隆長は藩体制の確立に焦りが見え 失政が多く 寛文8年(1668)に改易となった
代わって丹波国福知山藩より松平忠房が6万5千石で入封し5代にわたって島原を支配したが
寛延2年(1747)に 下野国宇都宮藩の戸田忠盈が7万7千石で入封 松平氏は入替わりで宇都宮へ転封した
戸田氏は2代続いたが 安永3年(1774)に再び宇都宮から松平氏が6万5千石で再び戻り
戸田氏も再度宇都宮へ戻った 以後は明治維新まで松平氏が8代にわたって支配し
明治4年(1871)の廃藩置県において島原藩は島原県となった その後 長崎県に編入され現在に至る
なお 島原半島は気候温暖であるが中央部に火山地帯があり 耕地面積も少なく地味が痩せていて
実際の年貢の収穫高は表高よりも少なかったと言われている
篠塚邸
この屋敷の主は代々篠塚順右衛門を名のり 出自は三河の深溝である 扶持米は8石から13石2人扶持を給され
主として郡方祐筆(書記)や代官などを勤めた 屋敷坪数はこのあたりすべて3畝(90坪) である

島田邸
島田家は藩主松平氏の草創以来の古い家柄で 藩主の転封にともなって 三河国吉田・丹波国福知山と転じ
島原へは 寛文9年(1669)に入った 歴代地方代官や郡方物書などを勤めたが 幕末には独礼御目見格へ昇格し
7石2人扶持となって 材木奉行や宗門方加役・船津往来番などの重職についた


長崎県島原市城内1丁目 島原城跡
長崎県指定史跡 平成28年2月18日指定
島原城は、島原半島東部に位置し、雲仙普賢岳からのびる低丘陵上に築かれた近世城郭である。
元和4年(1618)に松倉重政が着エし、寛永元年(1624)頃に主要部分が成立したとされる。
中世から続く森岳城跡を踏襲し構築された城郭で、江戸時代に幕府が新規の築城を原則禁止していた中で、
島原城跡は全国でも数少ない新設の城郭であった。その内部構造は極めて特徴があり、大手ロから
本丸に至るまでの複雑な城道や三十基を越える外曲輪の櫓群など、防御を意識した堅固な遺構が残っている。
また、本丸の入りロなどには、桃山時代からの伝統的な様式の巨石石垣が認められる一方、
各曲輪の高石垣には江戸時代前期の先進的技法を見ることができ、築城技術の転換期の様子が良く残っている。
県内の藩庁として機能した五城(島原市島原城・対馬市金石城・平戸市平戸城・五島市石田城・大村市玖島城)
の中では、敷地面積や櫓・門数、建築・石垣の規模の点で最大の城郭である。
中心部は、本丸・ニノ丸・三ノ丸が南北に並ぶ構造で、その北側には家臣団屋敷を取り込んだ外曲輪を構えて
城の外郭線を形成している。敷地全体の規模は、東西約350メートル、南北約1200メートルで、
平面は長方形を基調としている。島原藩の政庁として存続した後、明治6年(1873)の廃城令で
城地は民間に払い下げられ城の建物は解体された。
指定された史跡の範囲は、本丸跡、ニノ丸跡、大手ロ跡の一部、外曲輪の屋敷跡(小早川邸)である。
長崎県教育委員会 島原市教育委員会
長崎県島原市上の町 『こころ豊かな時間を過ごせる街』森岳商店街
森岳商店街公式サイト:http://www.moritake-s.jp/
「さらく」は長崎弁で「歩いてブラブラする」の意味 「さるく」ではなく「さらく」が正しいらしい
この界隈 古い商家や建築物が多いらしいので 今度はゆっくりと「さらくって」みたい
合資会社 猪原金物店 創業は明治10年 茶房&ギャラリー「速魚川(はやめがわ)」併設
島原市万町/堀町/中堀町 サンシャイン中央街
湧水の有る商店街 ゆとろぎの湯(520円)とゆとろぎの足湯(24時間・無料)がある




島原市中堀町 水頭の井戸
この辺りは 寛政4年(1792)の島原大変前には波止場水頭といわれ船番所があった所で
今でも水頭という地名で呼ばれている 昭和16年(1941)に地元住民が共同で井戸を掘ったところ
自噴する清冽な水が湧き出た また 井戸の横にいる亀に年齢の数だけ水を掛けると長生きすると伝わる
しかし 70回近い水掛けは辛い


島原を代表する水屋敷 庭内には大小3つの池があり 一日1000トンの清水が湧きでる


ェ政4年(1792)島原半島の主峰普賢岳の火山活動による眉山の大崩壊とともにてきた湖です。
このときの大地変でこの一帯に地割れが生じ、地下水が噴き出して南北10町(約1km)
東西3〜4町(約3〜400m)の池となり、なお水嵩は増すばかりでした。
藩庁では領内から1万人の人夫を集め、池の水を海に流すために水路を造りましたがその水路が現在の音無川です。
白土湖の広さは約1万平方m、湧水量は日量4万トン、水温16度、水のまち島原を代表する湧水であります。
昭和56年に国土庁から水緑都市モデル地区の指定を受け、昭和60年には環境庁の名水百選に選ばれました。
島原市白土桃山2丁目 銀水と浜の川湧水
ここも ェ政4年の眉山大崩壊で海が埋まり そこに水が湧き出したものです
この湧き水を使い 明治時代に生まれたのが 島原名物となった白玉団子の「かんざらし」です










