2016.03.03  福岡県太宰府市 太宰府散歩

西鉄都府楼前駅から歩き始め 太宰府天満宮の梅園を観賞し 宝満山麓の竈門神社までのコース
車を「ゆめタウン筑紫野」に駐車する ここは太宰府市が指定するパークアンドライドの指定駐車場で
無料となっている 詳しくは太宰府市の公式サイト:太宰府市観光交通ガイドを参照
但し 1月1日〜3日・土日祝祭日・バーゲン期間は利用出来ないとなっている
西鉄の運賃は 朝倉街道駅−都府楼前駅 210円 太宰府駅−朝倉街道駅 210円 となる
往路は 都府楼址−戒壇院−観世音寺−太宰府天満宮−竈門神社 距離約6km
帰路は 竈門神社から西鉄太宰府駅まで 距離約3km 合計約9kmの行程である
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日田街道関屋追分 「さいふ詣り一の鳥居」と常夜灯
鳥居は 文久2年(1863)福岡藩主・黒田斉溥の寄進
元禄4年・さいふ道の道標「是ヨリひかしさいふ参詣道」
左・享和2年の道標「天満宮東従是二十五丁 享和二年」
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太宰府市立学業院中学 古代の学業院に因んだ名前
都府楼址の歩道
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都府楼趾(大宰府政庁跡)
「都督府古趾」の石碑は明治4年(1871)に建立された 「都督府」は太宰府の唐名によるもので
地元で呼ばれる「都府楼」の元となった 大宰(おほみこもち)とは地方行政を司る長官職で
大宝律令(飛鳥時代・701年制定)以前には 吉備大宰・周防総令・伊予総領などの地方長官が存在した
大宰府の前身は 6世紀のヤマト王権による筑紫君磐井の攻略(527年・磐井の乱)後 北部九州の支配と
朝鮮半島政策の拠点として 「那津官家(なのつのみやけ)」を置き出先機関としたのが始まりである
現在の福岡市南区「三宅」はこれに因む地名で 那津官家のあった場所である
660年に百済が唐と新羅によって滅ぼされ 3年後の663年に百済再興を目指す倭・百済軍と
新羅・唐の連合軍による「白村江の戦い」において 倭・百済軍は大敗を期してしまった
この敗戦によって急遽防衛のため 那津にあった大宰府を内陸部の現在地に移すと共に防御のため水城を築いた
ただ「鴻臚館」などの外交施設は那津に残され 後年には海浜に近い場所に移転し機能も強化された
701年の大宝律令の施行により吉備・周防・伊予の大宰が廃され 筑紫のみが残された
以後「大宰府」とは九州の地方政庁を指すようになる
平城宮木簡には「筑紫大宰」 後の長岡京木簡では「大宰府」と表記されている
外交と防衛を務めると共に 内政上は 筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・薩摩・大隅の西海道九国と
壱岐・対馬・多禰(大隅諸島)三島の行政・監査・司法を所管していた
範囲の広さと与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれていた
平安時代の12世紀頃から「宰府」と呼ばれるようになり 近代まで「さいふ」という呼び名が庶民に定着し
道標に書かれる文字も「さいふ道」が一般的なものとなっていく
応保元年(1161)平清盛によって博多津に日本で初めての人工港「袖の湊」が造られた以降
博多津が大陸との交易拠点となり賑わった 同時に行政機関も人が流入する博多に重きを置くようになり
大宰府が地方拠点の役目を果たさなくなっていた
建久3年(1192)鎌倉幕府が開かれたことにより 朝廷による施政が終わり大宰府の滅亡は決定的となった
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白村江の戦い以降の大宰府を第一期とすると その後第二期・第三期の工事が行われた
第一期大宰府は掘立柱による建築物で 前記で述べた諸般の事情により急遽移転建設が敢行され創建されたことを
物語っている 第二期建設工事は 推定ではあるが大宝律令施行後の和銅年間(708-715)に始まり
霊亀年間(715-717)頃には政庁自体の完成を迎えていたものと思われる この第二期工事は平城京遷都と
同時期とされており 平城京と同時か またはそれよりも早く唐の長安に倣った条里制がとられ
南北22条(2.4km)東西12坊(2.6km)の都市構造を持っていたことが現在では確実視されている
天慶4年(941)5月に藤原純友によって焼き打ちされ 第二期大宰府政庁は灰燼となった
天慶8年(945)純友討伐の将であった小野好古が大宰大弐に任命され 好古によって再建された
現在残る礎石は この第三期政庁跡である
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遺跡というより 市民が憩う公園広場という存在
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満開の梅
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大宰府展示館に寄り観世音寺に向かう 途中に高橋紹雲(たかはしじょううん)墓所への道標がある
高橋紹雲は 戦国時代から安土桃山時代にかけて豊後大友氏の家臣で戦国武将である
天下統一を目前としていた秀吉は 天正13年(1585)7月に朝廷より関白を任官され 朝廷の権威を似て
九州の戦国大名である大友氏・島津氏に対し停戦の令を発した すぐさま停戦令を受諾した大友氏に対し
島津氏は家中激論となったが一応停戦令受諾の方針を決定した しかし 天正14年(1586年)1月に
島津義久が 源頼朝以来の名門島津が秀吉のごとき成り上がり者を関白として礼遇しない旨を表明した
同年3月 これに対し秀吉は島津氏に対し占領地の過半を大友氏に返還する国分案を提示したが
島津側はこれを拒否 大友攻撃を再開して九州統一の戦を再開した
4月5日 秀吉は大友宗麟の謁見を大阪城で受け 10日には毛利輝元に対し九州出陣の準備を指示した
   しかし出陣準備にてまどう間に島津氏は筑前・筑後攻め落とす勢いであった 秀吉は各大名に対し
朝廷に対する逆徒として島津氏の征伐を命じたが 毛利に対する出陣命令は8月にずれ込んだ
この間 総勢2万の島津氏に抗い続けたのは 筑前岩屋城の高橋紹運と宝満山城主で紹運の次子・高橋統増
立花山城主で紹運の長子・立花宗茂といった大友氏の配下の紹運親子だけであった
天正14年(1586)7月12日 岩屋城の紹運に対し島津軍は降伏勧告を出すが応じず
763名の籠城兵士による徹底抗戦を行った 14日には島津の総攻撃が始まったが島津側の消耗が激しく
城を陥落させたのは半月後の27日であった 紹運は自害し 紹運以下763名全員が討死した
体制を立て直した島津軍が紹運の子・立花宗茂が守る立花山城に進軍したのは8月も中旬になった頃で
時すでに遅く 秀吉軍の先鋒毛利軍が九州上陸を果たした頃であった  以後は薩摩軍の敗走が始まる
天正15年(1587)3月28日 秀吉が九州上陸 小倉城に入り  5月8日島津氏が降伏した
秀吉軍の到着前に九州平定を目指していたが 岩屋城の徹底抗戦によって目算が狂い降伏を招いたと言えよう
岩屋城址には「嗚呼壮烈 岩屋城址」と刻まれた石碑が 城跡から道を隔てた南西側に高橋紹運の墓がある
臨済宗 妙心寺派 戒壇院 博多・聖福寺の末寺
奈良時代において出家者が正式の僧尼となるために必要な戒律を授けるために設置された施設 別名「筑紫戒壇院」
古くは観世音寺の一部であった 中央戒壇(奈良・東大寺) 東戒壇(栃木・下野薬師寺)とともに
「天下三戒壇」のひとつで西戒壇(さいかいだん)と呼ばれる
奈良時代中期の天平勝宝5年(753)12月20日に仏舎利を携え薩摩坊津に上陸した鑑真和上が
同26日に太宰府を訪れ この地で上陸後初の授戒を行ったことで開山は鑑真和上とされる
鑑真和上の足跡は 翌年の天平勝宝6年(754)1月には 平城京の東大寺に至っている
日本書紀では天平宝字5年(761)に聖武天皇の勅願により観世音寺境内の一角に戒壇院が設置されたとある
以後 戒壇院は奈良時代以来同じ場所にあるとされている 中世期には衰退したが江戸時代に再興が図られ
寛文9年(1669)博多・崇福寺の智玄和尚によって本尊の修理が施され その後 黒田藩三代藩主光之の命により
黒田家家老・鎌田昌勝の采配と 福岡簀子町の豪商・天王寺屋浦了夢(うらりょうむ)らの資金による
諸堂宇再興を経て 元禄16年(1703)に観世音寺から独立した
現在の堂宇は 延宝8年(1680)再建のものとされている
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戒壇院 本堂 安置される木造盧舎那仏坐像は国の重要文化財である
天台宗 清水山 観世音寺
平安時代に著された『続日本紀』によると 観世音寺は天智天皇が母斉明天皇の追善のために発願したとされる
推定される観世音寺創建着手時期は白鳳年間(661−683)のことであると思われるが
完成したのは発願から約80年も経った奈良時代 聖武天皇在位・天平18年(746)の説が一般的である
現在残っている建物はすべて近世の再建であり昔の面影はなく 嘗て在った南大門や回廊などは失われている
創建当初の中心伽藍は東西93m 南北78mの敷地を持ち 周囲を回廊で囲み南には南大門がそびえ
中心伽藍内は約2200坪あった 中心伽藍は中門と講堂を繋ぐ回廊の中に 東に五重塔 西に金堂が建ち回廊の
南面中央に中門が北面中央に講堂が建っていた これら中心伽藍の金堂は南でなく東を正面とし
五重塔と向かいあう形で建てられていた この配置を「観世音寺式伽藍」と呼ばれている
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講堂の北側には僧坊があり 後の戒壇院は寺内の南西部に建てられた
平安時代以降はたびたび火災や災害に見舞われ 創建当時の堂宇や仏像はことごとく消失している
寛永7年(1630)の暴風雨では当時唯一残っていた金堂が倒壊し 観世音寺は廃寺寸前となった
寛永8年(1631)に金堂が 元禄元年(1688)には講堂が藩主黒田家によって復興された
平安時代後期以来奈良東大寺の末寺であったが 明治以後は天台宗寺院となった
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現在の金堂
金堂屋根と福岡空港から飛び立つ飛行機
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元禄元年(1688)藩主黒田家によって復興された講堂(本堂)
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国宝の梵鐘 京の妙心寺と兄弟鐘 糟屋多々良で鋳造
僧坊跡の礎石
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御笠川に架かる白川橋と橋名石碑
二ノ鳥居と賑わう参道

大宰府天満宮
学問の神様 菅原道真を祀る神社 平安時代の延喜5年(905)に安楽寺にあった道真の墓上に
祠宮が建てられたのが始まりである 安楽寺は明治の神仏分離令で廃絶された
関白藤原基経亡き後の寛平3年(891)より始まる宇多天皇による寛平の治と呼ばれる政治改革に重用され
醍醐天皇の代・昌泰2年(899)に右大臣の官職まで上り詰めたが 昌泰4年(901年)左大臣藤原時平に讒訴され
大宰府へ大宰員外帥として左遷された 大宰府の人員にも数えられず無給で政庁内に入ることも 許されなかった
住居として与えられた廃屋(今は立派な榎社)で従者もなく侘び住まいを強いられ無念の内に
延喜3年(903年)2月25日に没し亡骸は安楽寺に葬られた
道真の死後平安京に異変が相次いだ 讒訴によって道真を追いやった藤原時平が39歳で病死 次いで保明親王と
慶頼王が病死 清涼殿に落雷があり 道真の子を流罪とすることに関与した大納言藤原清貫など要人が死亡
それから3ヶ月後に醍醐天皇も崩御する これらの出来事を道真の祟りと恐れた朝廷は道真の子の流罪を解き
道真の罪を許し贈位を行った 落雷事件から道真は天の神とされ火雷神(ほのいかづちのかみ)が祀られていた
北野に神殿を建立し祟りを鎮めようとした 天満宮が全国に広まると道真の学問に秀でていた功績から
庶民の間で天神様は学問の神様として信仰を集めるようになった
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三ノ鳥居
太鼓橋
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心字池に架かる石造の太鼓橋と平橋はそれぞれ「過去」「現在」「未来」を表す
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満開の白梅
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拝殿(本殿)
京から道真を慕って飛んできた「飛梅」
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神殿裏の大楠
お石トンネル 昭和3年寄進
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竈門神社への道しるべ
宝満宮竈門神社(鳥居の扁額は寶満宮)

宝満宮の下宮(別名:竈門神社)
祭神:玉依姫命(海神・大綿津見神の娘)
宝満山々頂に上宮 嘗ては中腹にも中宮があった 大宰府の鬼門位置にあり大宰府鎮護の神社とされた
宝満山は過去には御笠山と呼ばれ御神体とされていたが 平安時代以降は天台密教による修験道の山となった
神宮寺と神社が一体となり御神体を「宝満大菩薩」と呼んだことから山の名も「宝満山」となった
竈門の名は 神功皇后の出産の折 この山麓に竈門を立てたことから付けられた
明治以降神宮寺と修験道場が廃され「竈門神社」となった 現在は「宝満宮竈門神社」と二つの名を併称する
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参道の石橋
拝殿

天満宮の梅園に戻り 大宰府駅から帰る
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