2015.10.12 大分県佐伯(さいき)市 佐伯城下を散歩
蒲江の「道の駅 かまえ」に車中泊をして伊勢えびを買い 佐伯市内へ移動 佐伯城址のある城山に登り
侍屋敷の城下を散歩 腹が減ったので 2015 日豊海岸ぶんご丼街道のキャンペーンに誘われ海鮮づけ丼を食う
大分県佐伯市
佐伯の地名は 中四国・瀬戸内地方を中心に全国に散らばり 古代から佐伯姓を名乗る氏族も同様である
佐伯の文字は「サエキ・サヘキ・サヒキ・サイキ」などと読まれてきたが 漢字は和語の発音に当てたものである
後の『日本書紀』には 佐伯部はヤマトタケルの東征の際に捕らえられた蝦夷で 播磨・安芸・讃岐・阿波・伊予の
5国に 主にサエギ(遮)の任に就くため配備されたとあるが 勝利者の大和政権が主張する語呂合わせの感が強い
「姓氏辞典」佐伯の項には 同上の説以外に「佐比部(サヒベ)職業部のひとつにして鋤(スキ)を作る品部なれば、
鍛冶部の一種と考えられる。 常陸風土記(8世紀初頭)に「鍛冶佐備大麻呂」慶雲元年頃見えたり。」とある
古語の「サヒ」や「サイ」が もともと鉄のことで 中国地方に広く存在した「たたら製鉄」とセットで考えれば
製鉄と鍛冶の一大鉄鋼産業の繁栄が見えてくる 「サヒキ」が製鉄と鉄器の生産地で 佐伯部は産業従事集団とも
考えられることから 「鉄を制するもの国を制す」という 大和朝廷の国是にも通じるこの説に賛同を覚える
古代吉備国に鉄器産業の隆盛が興き 大和政権と対立するに及んだことは周知の事実である
8世紀初頭の大宝律令により 西海道の豊国を分割し豊後国が立てられ 日田・玖珠・直入・大野・大分・海部
速見・国埼の8郡が定められた 海部郡は現在の大分市及び臼杵市の一部・津久見市・佐伯市の大部分となる
8世紀の天平・聖武天皇時代に成立した『豊後国風土記』には 海部郡(あまべのこおり)の郷として
佐尉(さい)・佐加(さか)・丹生(にう)・穂門(ほと)の4郷が制定されたと記されている
佐伯(邑)は 穂門郷の南部に位置し 穂門の名は今も津久見市・保戸島の名に残されている
佐伯荘は 平安時代中期に穂門郷が荘園化したものである 荘園の開拓には土着の豊後大神氏が深く関わり
やがて荘園の支配者となり佐伯氏と名乗った 豊後大神氏の祖は 古墳時代に豊国に入り宇佐宮の前身である鷹居社を
創建した大神比義(おおがのひぎ)で 父は三輪身狭である 三輪氏は奈良の三輪山を御神体とする大神神社の
祭神・大物主神の子孫で 三輪身狭は同神社に祀られる太田田根子命の6世孫とされる
鎌倉時代に守護大名として大友氏が豊後に赴任しその配下となった 室町時代には足利将軍家の直勤奉公衆となった
弘安8年(1285)の『豊後国図田帳』に佐伯荘の名が初見され 本荘120町と堅田村60町からなると記される
惣地頭職は大友頼泰であったが 御家人の佐伯弥四郎正直が小地頭として本荘120町を支配し
堅田村の44町余も佐伯氏一族が支配していた
室町時代の大永元年(1521)には 第10代当主・佐伯惟治によって栂牟礼城(とがむれじょう)が築かれたが
天正6年(1578)豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久による耳川の戦いで 12代・惟教と13代・惟真が討死
14代・惟定が籠城して島津軍を撃退した しかし文禄2年(1593)文禄の役で失態を犯した大友氏が改易されると
佐伯惟定は豊後を去り豊臣秀保の客将となった 秀保没後はその旧臣藤堂高虎に仕えて伊予国に移った
慶長5年(1600)毛利高政が関ヶ原合戦において徳川方に加勢し 戦功によって佐伯2万石を与えられ
翌・慶長6年(1601)に 豊後国日田郡日隈城から佐伯氏の居城であった栂牟礼(とがむれ)城へ転封した
栂牟礼城は 現在の「道の駅 やよい」と東九州道佐伯ICに挟まれた標高223.6mの栂牟礼山にあったが
麓の平地も狭く領地の統治経営には不便であった
高政は栂牟礼城を廃し 番匠川河口近くの標高144mの八幡山に新たな山城を築いた
「佐伯の殿様、浦でもつ」と言われるほど海産物が豊富な浦方(うらかた)と 平地の少ない山間部の農村を
藩政の基盤とし 12代高謙(たかあき)の代に明治維新を迎えるまで 佐伯藩の毛利家による支配は存続した
明治4年(1871年)の廃藩置県を経て大分県の管轄となった 明治8年(1875)46村36浦1島に統廃合された
明治11年(1878)海部郡が南北に分割され 行政区画として北および南海部郡が発足
旧佐伯藩領の全てが南海部郡の管轄となり 郡役所が佐伯村に設置された
明治20年(1887)屋形島が蒲江浦に編入される 明治22年(1889)町村制の施行により1町23村に統廃合され
佐伯村が単独町制を施行して佐伯町が発足 明治44年(1911)蒲江村が町制施行して蒲江町となる
大正5年(1916)仮名表記の「さえき」を 地元の訛音に合わせ「さいき」に改称した
大正12年(1923)郡会を廃止 続く大正15年(1926)には郡役所を廃止
昭和12年(1937)4月 佐伯・鶴岡・上堅田の1町2村が合併し新制の佐伯町が発足 昭和16年(1941)4月には
佐伯・八幡・大入島・西上浦の1町3村が合併 市政を施行して佐伯市が発足 南海部郡より離脱した
昭和25年(1950)以降 昭和41年(1966)に至る南海部郡は 上浦町・弥生町・宇目町・鶴見町・蒲江町
本匠村・直川村・米水津村の5町3村まで統廃合が進められた
平成17年(2005)3月 南海部郡の5町3村が佐伯市に合併 旧佐伯藩領が佐伯市となり 南海部郡は消滅した
大分県佐伯市字城山 佐伯城址
佐伯城は 毛利高政が慶長7年(1602)から慶長11年(1606)に至る5年の歳月をかけ 八幡山に築いた城である
江戸時代初期の元和3年(1617)に 二の丸より出火し本丸と天守を焼失した 以後 天守は再建されなかった
寛永14年(1637)3代高尚によって 山麓に三の丸が増築され居館となった 山上の建物は放置され荒廃したが
宝永6年(1709)には 6代高慶によって天守以外の建物が復興または修復されている
明治4年(1871年)の廃藩置県により 佐伯県庁が置かれ佐伯城は廃城となった
三の丸以外の建物はすべて払い下げ撤去されたが 土地は旧藩主である毛利家に譲渡された
昭和45年(1970)三の丸御殿の一部を解体し民間の建物として移築された
翌年 跡地に市立佐伯文化会館が建てられた 現在は主郭部の石垣と三の丸御殿の正門が現存するのみである
正式名称として「佐伯城」と定めたという査証は存在しない 18世紀以降 幕府への書類では「佐伯城」
藩内に向けた文書では「御城」または「御山城」と記された
江戸中期の文書で「築城時に鶴ヶ城と呼んだ」とする記載があるが 定かではなく他文書に記載された痕跡がない
「鶴ヶ城」もしくは「鶴屋城」の由来は 明治以降の書物に記載されたが 諸説あり定かなものではない

佐伯と国木田独歩
文豪国木田独歩は、矢野龍渓、徳富蘇峰の推挙で、毛利高範旧藩主が創建した鶴谷学館 の教師として赴任した。
佐伯在住はわずか一年足らずであったが、彼ほど佐伯の山野を深く愛し、遍く歩き、
広く天下に紹介した作家は他にない。 源おぢ、春の鳥、鹿狩、小春、 忘れ得ぬ人々、豊後の国佐伯、欺かざるの記
などの名作は、湖畔詩人ワーズワースの詩境と佐伯の自然とを結んだからこそ生れた独歩 独得の文学作品である。
傑作春の鳥ゆかりの城山に此の碑を建てて独歩文学発詳の記念とする。
佐伯史談会 佐伯独歩会

城下の武家町を散策 大手町・城下西町・城下東町

佐伯市城下町観光交流館
昭和11年(1936)建築の「つたや旅館」を保存し休憩所として また 市民の文化交流の場として開放されている
入館は無料で館内どの部屋でも休憩することができる 美味しい珈琲が100円で提供され 居心地の良い空間である
1階に和室3室・洋室1室 2階に和室(研修室)1室と研修準備室がある 庭も広く手入れが行き届いている
再び城下の武家町を散策
藩医の今泉元甫(げんぽ)が 飲料水に苦しむ城下西町の人々のために私財を投じて掘った3ヶ所の井戸
今泉元甫の三義井(みぎせい)の「安井(あんせい)」「唖泉(あせん)」「甘泉(かんせん)」の一つです
昼食は葛港の「金太郎」で 海鮮づけ丼を食う すっごく美味ーい
庶民的な店で ビジネスマンが昼飯にしていたラーメンも美味そうだった







