2015.05.19-20 鹿児島県薩摩半島の南端 指宿再訪と知覧武家屋敷通り散策

開聞岳登山のリベンジを兼ねて指宿を再訪する 今夜は前回同様「道の駅・いぶすき」で車中泊の予定
なので国道3号線をのんびりと南下 芦北町の星野富弘美術館と 時間も早いので知覧武家屋敷へも立ち寄る
知覧には午後5時過ぎに到着 すでに人気の無い「武家屋敷」界隈を散策する


熊本県葦北郡芦北町湯浦 芦北町立 星野富弘美術館
群馬県みどり市にある富弘美術館の姉妹館として 平成18年5月に開館
JAF機関誌「JAF Mate」で連載される 星野富弘氏と舘内端氏のコラム「風の詩」をいつも見ていたので立ち寄る

星野富弘氏は 令和6年(2024)4月28日 呼吸不全のため78歳で死去した
芦北町立 星野富弘美術館 公式サイト:http://hoshino-museum.com/

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13:47

鹿児島県南九州市知覧町郡 知覧武家屋敷通り 国選定重要伝統的建造物群保存地区

島津氏の出自と歴史概略
鎌倉時代初頭の元暦2年(1185)源朝臣忠久が 源頼朝より日本最大の荘園があった薩摩・大隅・日向の島津荘の
惣地頭に任じられ 島津と称して島津氏の始祖となった 後に越前国を含む4カ国の守護職に任ぜられ
鎌倉期における最大級の領地を有する守護大名となった その後は興衰を繰り返し 戦国時代の第16代義久により
薩摩・大隅・日向3国の再々統一を成し遂げた 天正14年(1586)一度は九州全土を手中に収めたが
豊臣秀吉の九州平定を受け 本領である薩摩・大隅・日向諸県郡の領有に戻され明治まで続いた

薩摩国 知覧郷
平安時代末期 知覧に初めて城を構えたのは郡司の知覧忠信と伝わるが 今も知覧氏没落についての定説はない
室町時代に 4代目当主・島津忠宗の三男忠光がこの地の領主となり佐多氏を称した
佐多氏は幕末まで知覧領主であったが 城は 後の一国一城令により廃された

江戸時代の給黎郡(きいれぐん)知覧郷は 薩摩藩麓の一つとなり佐多氏の御仮屋が郡村に置かれ武家集落が
   形成された 現在残る武家屋敷群は 18代佐多久峰が上郷地区に御仮屋を移し形成されたものである
江戸後期の知覧では 武家屋敷が約500軒で3500人程度 町屋は10軒たらずで人口は30人程度だったとされる

明治4年(1871)の廃藩置県で鹿児島県の管轄となった 明治12年(1879)行政区画としての給黎郡が発足
明治22年(1889)町村制施行により知覧村が発足 明治30年(1897)給黎郡が廃止となり川辺郡の管轄に入った
昭和7年(1932)知覧村が町制施行して知覧町となった
平成19年(2007)川辺郡知覧町・川辺町が揖宿郡頴娃町と合併して南九州市が発足 同時に川辺郡が消滅した

鹿児島県南九州市知覧町郡 知覧武家屋敷通り

市役所前の駐車場に停めたが 午後5時過ぎといえども しっかりと駐車料金を徴収された

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17:27
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各屋敷の見学時間は PM17:00までとなっている
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知覧武家屋敷群公園
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三差路の突き当たりにある石敢当(石敢當)
魔除けに建てられ 魔物が当たって砕け散ると信じられてきた 江戸時代に琉球経由で伝わった中国の信仰
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市指定の文化財 知覧型二ッ家
鹿児島独特の2棟分離型二ッ家建築の中でも 屋根を同じくして合体させた知覧型二ッ家建築
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豊国姫神社跡
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18:08 復元された富屋食堂
「富屋食堂」は 昭和4年(1929)に開業 昭和16年(1941)12月 大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所開設
翌年の昭和17年に帝国陸軍の指定食堂となった 昭和20年(1945)3月知覧特別攻撃隊が編成される
陸軍沖縄戦の特攻隊員1036名のうち,439名が知覧から出撃した 隊員たちは食堂経営者の鳥濱トメを
母のように慕った 戦後 トメは飛行場跡に墓標を建て隊員たちを供養し 訪れる隊員の遺族や知人たちのため
富屋旅館を始めた 昭和30年(1955)9月 知覧特攻慰霊顕彰会によって観音堂が建立され慰霊祭が始められた
昭和50年(1975)4月 知覧特攻遺品館開館 昭和62年(1987)2月 知覧特攻平和会館開館
平成4年(1992)4月22日 鳥濱トメ死去 享年89歳
富屋旅館公式サイト http://www.tomiyaryokan-chiran.jp/
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19:08 知覧亀甲城公園
中世の城跡 別名で蜷尻城とも呼ばれる 螺旋状の道が頂上まで達し 井戸や曲輪・堀切・土塁などが残る
北面に麓川が流れ石造アーチ二重橋の矢櫃橋が架かる 亀甲城は知覧城の出城で鹿児島方向からの外敵侵入に
備えた城塁とされ 南面大地の通路を経て知覧城との連絡が成された
山頂には「南朝義臣知覧氏彰忠碑」がある
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矢櫃橋
江戸時代 後岳(うしろだけ)や木床(こどこ)・鹿児島城下との往来のため多くの人馬がこの橋を渡った
橋は 嘉永5年(1852)の永久橋修復工事で出た残石を使用し 同年内に架設された

鹿児島地方法務局知覧支局裏の末広温泉で入浴後 「道の駅・いぶすき」に移動し車中泊


鹿児島県指宿市西方 捍海堤(かんかいてい) 別名:三日月突堤・ガンギシ

現在は埋め立てが進み、岸と繋がっている捍海堤ですが、もともとは三日月形の離岸堤で、当時の指宿地方では
大きな防波堤でした。指宿小学校に残る『揖宿邑捍海堤記』には、この防波堤建設の経緯が
次のように刻まれています。
「宮ヶ浜の海は遠浅で、船を安全に停泊させるところが無く、台風で船が転覆する恐れがあった。
天保4年(1833)それを知った第27代薩摩藩主島津斉興が長さ230m、高さ5mの防波堤を築かせた。
工事は天保4年の12月に始まり、翌年の7月には完成した」
 濱崎太平次ら指宿の海商たちは、山川、指宿湊、田良などの港で黒砂糖貿易・密貿易を行っていたといいます。
山川は藩港として整備されていたと考えられますが、指宿湊、田良の海岸は砂浜で大型船が接岸できるような
整備はされていませんでした。島津斉興の内庫金を使い、しかも短期間でこの防波堤を作らせた理由は
そうした貿易に絡む港としての役割をもたせるためであったのかもしれません。
なお、捍海堤には、阿多カルデラから噴出された溶結凝灰岩が使われており、『揖宿邑捍海堤記』によると、
12月14日に知林ヶ島から石を取り始めて、翌年1月6日に大根占の城ケ崎、同月10日には今和泉の城山の下から、
そして、2月4日には谷山の五位野から運ばれてきていることが分かります。

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灯台の役割を果たした常夜灯 錦江湾(鹿児島湾)と桜島
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鹿児島県指宿市東方 知林ヶ島 砂のかけはし

知林ヶ島は 薩摩半島南端東部・田良岬の沖合に浮かぶ 周囲約3km・面積約60haの無人島である
田良岬との間に 春3月から秋の10月にかけ 大潮・中潮の干潮時に長さ約800mの砂州が出現し
陸続きとなって歩いて渡ることができる 平成20年度に遊歩道や展望台も整備されて島内も散策できるように
なったが 現在災害により遊歩道の崩落が発生し 島内への立ち入りは禁止となっている
1957年建造の灯台と船着き場を除けば 現在は殆ど手つかずの自然が残っている 過去においては
無霜地の島内で畑作が行われ ジャガイモ・サツマイモ・ナタネなど 豊富に収穫され「宝の島」と言われていた
最近は島と繋がることによせて 縁結びの道・愛の道とも呼ばれ「パワースポット」として紹介されることが多い
また 標高214.8mの魚見岳からの眺望も美しく 潮のかおり漂う風景は 環境省「かおり風景100選」にも
認定されている また大河ドラマ「篤姫」のロケ地としても有名である
砂州カレンダーは 公式サイト「いぶすき観光ネット/観光/観る/知林ヶ島〜ちりんがしま〜」で検索
https://www.ibusuki.or.jp/tourism/view/chiringashima/

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魚見岳より 10:10の写真
砂州カレンダーによれば 本日の砂州出現予測は 12:15〜17:00となっている
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11:05 渡渉二人
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AM 11:20 すでに徒渉する人が数人いる
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砂州は完全に繋がった

急ぎ山を下り 指宿駅前商店街の「さつま味」で まかない丼・1080円を喰らう 美味い!

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13:13 砂州はもっと大きくなっていた
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魚見岳と砂のかけはし
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知林ヶ島 渡島証明は100円
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13:55 左は小島

姉妹都市 オーストラリア・ロックハンプトン市訪問団来訪記念植樹林 「オーストラリアの森」

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オーストラリア原産の「ブラシノキ」
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14:50 魚見岳を見上げる
2月に訪れた「ふれあいプラザ なのはな館」は 莫大な予算を使って結局は巨大な廃墟にしてしまった
同じ予算を投資するなら この公園地区一帯を無電柱化するべきであったと 今回は強く思ってしまった

2015.05.20-21 山川散歩と開聞岳登山

鹿児島県指宿市山川 夕刻の山川漁港

山川湾は 約5700年前の火山噴火によって形成された その大きさからカルデラにも分類される円形火口である
近くにある池田湖・鰻池・開聞岳など 火山・カルデラ・火口湖・マール(円形火口)が多く見られる
これらは同時期の火山噴火でできたとされる その後 東側の火口壁が後に海食されて海水が流入し
東南側に砂嘴が発達して外海と区切られる現在の形になった
東北側を開口部とし 他の三方は切り立った崖地が湾曲した周囲4km・最深部51mの深い入江となった
そのため湾内には風波が入りにくく荒天時も穏やかなため 中世から大型船も停泊できる国際貿易港として栄えた
現在でも台風接近時などには避難港として利用されている
空から見ると砂嘴が「鶴のくちばし」に 陸地が「左右に広げた翼」に見えることから「鶴の港」とも呼ばれた

文献による最古の記述は鎌倉時代の建保5年(1217)まで遡り 当時は南蛮貿易における重要な中継地の一つで
都市を形成していたと考えられている 天文16年(1547)ポルトガル人探検家のジョルジ・アルヴァレスが
著した『日本報告』で 山川に触れたのが日本を初めて西欧諸国に紹介した記述であった
島津氏の直接支配は 信長没後の天正11年(1583)頃からで 島津氏の拠点港として機能していくこととなる

江戸時代 国外貿易の徳川家独占(鎖国令)により南蛮貿易が終息した後は 薩摩藩による琉球支配と
幕府公認の琉球貿易の拠点となったが 密貿易も盛んに行われ薩摩藩の財政を潤した

明治以降は 沿岸漁業の拠点港となり 第二次大戦後は 遠洋漁業によるカツオ漁が盛んとなったが
漁獲量は 昭和53年(1978)の20432トンをピークに減少傾向となり 水産加工業にシフトしている
現在も枕崎漁港と並び 鹿児島県の「かつお節製造業」における県下二大生産地を形成しており
労働力として雇われたアジア系女性労働者を多く見かけるようになった

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ショーウインドウの蛸壺
ポストの足下が何か不自然?
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17:45 指宿南交番 尖塔屋根の上には風見鶏ならぬ「風見鰹」が潮風に泳ぐ
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高松宮殿下御成記念碑 昭和14年3月22日
現役の煉瓦煙突
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煉瓦造の鰹節乾燥場 蔦が絡まり見えない
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蛸壺 プラスチック製とコンクリート製
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かつお節燻製用燃料材
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燻しと加熱で乾燥させる工程を焙乾と呼び 鰹節の製造ではこの作業を何回も繰り返し行う
薪にはコナラ・クヌギなどが一般的に使われ 鰹節1トン当たり薪を0.5〜0.8トン程度消費する山川に比べ
枕崎では1.5〜2.0トンの薪を消費する
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18:05 夕方の漁港は静か 漁具倉庫前
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18:10 山川港埠頭
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廃屋はハトの巣
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地蔵さん
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先ほどのポストの台座があった
唐人町跡の石塀 近辺で採れる火山性凝灰岩
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浄土真宗 正龍寺
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石造の金剛力士像は 明治2年(1869)の廃仏毀釈により廃寺となった臨済宗正龍寺のもの 作成年代は不明
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正龍寺の石塀
遠洋漁業で財を成した鰹御殿の石塀

道の駅・山川港活お街道で車中泊する 根占港行きフェリー乗り場のある山川港は
薩摩半島の突端東にあるため通過する車はない その上道の駅に違法常駐する車もない
そのため夜間は驚くほど静かである 南隣には漁師料理の店「むげん」が夜遅くまで開店している
車中泊で新鮮な海鮮料理を食べ 生ビールや焼酎まで飲める こんな道の駅はまだ他には知らない


2015.05.21 鹿児島県指宿市開聞十町 開聞岳登山

開聞岳は鹿児島薩摩半島の南端にあり 岸辺の海抜0mから立ち上がる端麗な円錐形の姿から薩摩富士とも呼ばれる
火山として 4千年前頃から活動を開始したとされ 有史後の噴火記録は6世紀頃が最初で 7世紀末及び
貞観16年(874)と仁和元年(885)に大噴火を起こしている この噴火により山頂に溶岩ドームが噴出し
二段式の山容となった 主な山体構成岩は低粘度の玄武岩で山頂付近の溶岩ドームは安山岩で構成されている

昭和39年(1964)指定の霧島屋久国立公園にあり 日本百名山・新日本百名山・九州百名山に選定されている
標高924mは 基準が1500m以上とされた日本百名山の中では例外的に低い山ではあるが
海抜0m付近からの登坂となるため その際の標高差は900m以上ある 海岸にある独立峰として
また山頂部が露岩に覆われており 360度の展望が得られることで名山の地位を得た

山麓の南西半分は海に面しており 周辺の海岸や岬にある名勝地の主役でもある
早春1月には麓一体に菜の花が咲き 登山シーズンの到来は早い
夏場は早朝登山が盛んであるが 岩場も多く存在し 夜間の登頂は奨められない

午前中に開聞岳に登る 2月に雨にたたられ中止した登山の再挑戦
2合目登山開始 6:35 5合目 7:30 山頂 9:10 下山開始 9:40 下山 11:35 全行程5時間
Link 春夏秋冬/山歩記/開聞岳登山

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5:52 鹿児島県指宿市開聞仙田 鏡池に映る「逆さ薩摩富士」
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昨日は黄砂と桜島の降灰で霞んで見えなかった 今日も午後には灰が降った
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2合目登山口付近に駐車
6:35 2合目登山口
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9:10 山頂
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9:53 先程 桜島が噴火 火山灰が池田湖を越えて向かってくる 早々に下山開始

山から下りて 鹿児島県指宿市山川福元のヘルシーランドへ
目当ての露天風呂「たまて箱温泉」は木曜定休日だったので ヘルシーランド 温泉保養館で汗を流す

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13:53 ヘルシーランドのグランドから竹山 グランドは約13haの広さがある
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スヌーピーが犬小屋の上で仰向けに寝ている姿に 山容が見えるらしい
それで別名「スヌーピー山」という こちらの頂きはスヌーピーの後ろ足先となる
5〜6万年前マグマが地表に噴出する手前で急に冷えて固まった火成岩塊で
その後周りが浸食され露出したもの 標高は約200mあり 修験道の霊場であったとも伝えられる

鹿児島県南九州市頴娃町郡 瀬平公園 国道226号線富士見PA

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14:26 遊泳禁止の浜村海岸
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薩摩富士開聞岳と国道226号線

番所鼻自然公園 番所鼻・海の池と竜宮の道

海の池が生成されたのは 二度の火山活動により噴出した溶岩流によるもので
一回目の約24万年前に噴出した鳥浜火砕流により形成された溶岩塊を 二回目となる約11万年前発生の
阿多火砕流の溶岩が覆い その阿多火砕流による溶岩の割れ目から 雨や海水が入り込み
下部にあった鳥浜火砕流の地層を徐々に浸食し空洞となった その後 屋根部分の溶岩が崩れ落ち
現在の形となったものである  頴娃町から坊津に至る海岸線で今でもみられる黒い岩礁は
約11万年前の阿多火砕流が海岸を埋め尽くした名残で 太古の火山活動の凄まじさを物語るものである
またほぼ円形の岩礁が残るこうした地形は全国的にも珍しいものと言える
数十万年前の火山活動とその後の浸食により形成された天然の岩礁は 海に浮かぶ池の様に見えることから
「海の池」と呼ばれる 薩摩半島の海幸彦・山幸彦の神話にまつわる竜宮伝説の舞台とされ
独特の神秘的な地形からこの「海の池」の中には竜宮城の入り口があったとの伝説が残る
池を囲む岩礁の連なりを「竜宮の道」と言い 好天時には周回することができる

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ミョウガガイ科カメノテ属 亀の手(カメノテ) 学名:Capitulum mitella
貝ではなくエビやカニと同じ甲殻類の1種であるが 足が無く移動が出来ないため干潮時に姿を表す
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波によって窪みの中で石が廻り作られた甌穴が多く見られる 中には取り残された小生物がたくさん

鹿児島県南九州市頴娃町別府 釜蓋神社

正式名は射楯兵主(いたてつわものぬし)神社と言い 祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)である
高さ30mの自然石が御神体として祭られ 必勝祈願の「武の神」として参拝される
近年 サッカー「なでしこジャパン」の沢穂希選手や日本代表の中村俊輔を始めとして
多くのスポーツ選手や芸能人などが参拝し 話題としたことから一躍有名になったパワースポットである
由来は 飛鳥時代に天智天皇と妃の大宮姫が大勢の供連れで 頴娃に住む安東実重中将を訪ねたおり
接待に要する飯を大きな釜で蒸していると突風が吹き 大きな釜の蓋は天高く吹き飛ばされ
風に運ばれ大川浦(今の釜蓋神社のある場所)に落ちた 驚いた大川の人々はこの釜蓋を拾い神として祀り
「釜蓋大明神」と呼ぶようになった 後に素戔嗚尊を合祀し現在の「釜蓋神社(射楯兵主神社)」となった
戦時中は 釜蓋を頭にかぶって参拝すると 無事に帰って来られるとして 多数の参拝者が訪れた

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15:36 背後の岩山が御神体
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頭の上に釜蓋を載せての参拝 礼の必要はないが拍手と賽銭は必要なので難しい
右隅の2人用の釜蓋など大変である 「カミさん」には 何をお願いしたのか恐ろしくて聞けなかった

鹿児島県南さつま市加世田高橋 県立吹上浜海浜公園

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18:29 万之瀬川河口部に架かるサンセットブリッジ
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サンセットブリッジ
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吹上浜の夕日を見る
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19:02 吹上浜海浜公園

今日の車中泊は 芦北町「道の駅・たのうら」 そして明日午前中に帰宅予定とする

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