2014.04.10 大分県 杵築の散歩
日本唯一「サンドイッチ型」と呼ばれる城下町 南北の高台に武家屋敷が並び 中ほど東西の谷筋に
商人町があることから名付けられた 地形により商人町から高台へは多くの坂があり特徴的な城下町を形成する
元々杵築の地所は 豊後大友氏の一族である木付氏の所領で 四代目頼直が居城を竹ノ尾(杵築市鴨川)から
海と断崖に囲まれた要害堅固の台地である現在地に移した 城は応永元年(1394)に竣工し木付城と呼ばれた
文禄2年(1593)に 大友義統が豊臣秀吉によって改易となると 木付氏も同時に追放され所領没収となった
その後 杉原長房・早川長政が相次いで入封したが 慶長4年(1599)に細川忠興が 丹後国宮津12万石に加え
木付の6万石を領有し 松井康之・有吉立行などを木付城代として統治させた
慶長5年の関ヶ原合戦の戦功により 豊前一国を加増された忠興は 本拠を中津城に定め木付も領地として治めた
後に細川家は藩庁を小倉城に移し小倉藩となり 寛永9年(1632)には熊本藩に転封となった
小倉藩には小笠原忠真が入封 木付には忠真の弟・忠知が 旗本から大名に栄達独立し入封 木付藩が成立した
正保2年(1645)小笠原忠知は三河国吉田藩に転封 代わり豊後高田藩より松平英親が移封され明治維新まで続いた
三代目藩主重休の正徳2年(1711)に 幕府より与えられた朱印状において「木付」が「杵築」と書き誤っており
幕府に伺いを立てた上で この地を「杵築」と表記するようになったと伝わる
明治初年の「旧高旧領取調帳」に記載される杵築藩の所領地は
速見郡が杵築城下1町および42ヶ村 国東郡が83ヶ村2浦であった
明治4年(1871)の廃藩置県を経て大分県の管轄となった 明治11年(1878)行政区画としての速見郡が発足
明治22年(1889)の町村制施行により 杵築・南杵築・馬場尾・宮司の4ヶ村が合併して速見郡杵築町が発足した
昭和8年(1933)東国東郡大内村を合併 昭和11年(1936)速見郡東村を編入
昭和30年(1955)速見郡八坂村・北杵築村・東国東郡奈狩江村と合併 市制施行し杵築市を新設した
同年 速見郡南畑村の一部を編入 平成17年(2005)杵築市・速見郡山香町・西国東郡大田村が合併して
新制の杵築市が発足 これにより西国東郡が消滅し速見郡は日出町のみとなった
和楽庵 中根邸
三河国中根村出身の
杵築藩家老・中根長兵衛末治の隠居宅 文久2年(1862年)建築
勘定場の坂 城から藩の事務所とも言える勘定所に向かう坂 藩校跡もあり 今は小学校となっている
杵築城は 慶長元年(1596年)の震災と続く慶長2年(1597年)の暴風雨により天守などが損壊し
城にかわり台山北麓に藩主の居館が建設された 正保2年以降は松平氏により山上の城郭群が廃止されている

杵築城は 室町時代初期に台山上に築かれたが 慶長元年(1596)の震災と続く慶長2年(1597)の
暴風雨により天守などが損壊し 台山上の城郭部にかわり 台山北麓に居館が建設された
正保2年(1645年)以降は山上の城郭群が廃止された
山麓居館は 現在の杵築神社・杵築中学校に位置しており 神社北側に石垣が残り東側に庭園遺構が残存する
御殿跡には現在図書館と公民館が建っている







