2012.03.24  博多川端散歩

魚眼レンズ片手に博多区川端を撮影散歩
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明治15年(1882)創業の老舗うどん店 かろのうどん 博多訛りで「角のうどん」という意味
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那珂川の中州東側から川端ぜんざい広場裏
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川端ぜんざい広場
川端ぜんざいは大正初期に博多の上新川端で創業した 川原家四姉弟 キク・甚五郎・平一郎・清蔵の
丁重な仕事ぶりから生み出される強い甘味が評判となり博多の庶民に親しまれた
 昭和20年6月の福岡大空襲で店は焼失 長女キクも亡くなった 二男平一郎が  南太平洋から復員した
昭和23年(1948)に同区住吉で営業を再開 同年には川端に戻り博多の名物と呼ばれるほどの
人気を博していたが 残る三兄弟も次々と亡くなり 昭和60年(1985)を最後に看板を下ろす
その後 川端ぜんざいを 懐かしむ声が高まり 地元商店街が主体となり 旧店舗のこの場所に
博多名物川端ぜんざい広場を開店営業する  祭りの期間中と毎金土日に営業 ぜんざい 450円
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川端ぜんざい広場の飾り山笠
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明治28年(1895)創業 門田提灯店

福岡・博多散歩

天神 水鏡天満宮
昌泰4年(901)左大臣の藤原時平に讒訴(ざんそ)され 突然太宰府に左遷された菅原道真が
追われるように都を後にした長い旅の末  博多津に上陸したおり
清流の水鏡に姿を写したといわれるその地に 社殿を建立し 水鏡天神(姿見天神)と称した
その清流は四十川といい 庄村(今の中央区今泉)の 薬院あたりを流れていた  姿見橋という橋もあって
神社もその付近に建立されていたが  慶長17年(1612)黒田長政が築城の際
福岡城の鬼門にあたる現在地に福岡城の守護として遷宮し
その後 寛永18年(1641)二代藩主黒田忠之が社殿を再建して現在に至っている
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博多区住吉2丁目 楽水園の博多塀
この土塀は 豊臣秀吉が進めた博多町割を語り継ぐ歴史的な遺跡である
秀吉による天下平定前に灰燼と帰した博多の 焼け残った石や瓦等が塗りこめられている
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福岡市博多区御供所町 聖福寺山門と通津橋
聖福寺は山号を安国山 寺号を聖福至仁禅寺という 建久6年(1195)源頼朝よりこの地を授かり
頼朝を開基として創建された日本初の禅寺である 当寺を開山した栄西禅師は この寺を建てるまでに
二度宋国に渡り 二度目の渡宋時に中国の虚庵禅師より印可を得て臨済宗黄龍派の法を継承し
建久2年(1192)に帰朝した また宋より「茶樹」を持ち帰り 境内や背振山などに植えて各地に広めた
同時に宋風の喫茶も伝え『喫茶養生記』を著し 茶文化の先導的な役割を果たして後に「茶祖」と呼ばれた
聖福寺の境内地は 創建当初は鎌倉幕府より方八町を授与され 七堂伽藍を建立して
丈六の釈迦・弥勒・弥陀の 三尊を安置していたと伝えられている
かつての広大な境内地の一部は 寺中町を形成していたと云わり
寺伝の『安山借屋牒』(1543)には 当時312人の借屋人がいたと記載されている
今に残る普賢堂・中小路・魚町・店屋・蓮池・西門などの地名は 当時の寺中町からのものである
天正15年(1587)の太閤町割により寺域も方四町に狭められ ほぼ現在の伽藍配置となり
山門・仏殿・方丈・庫裡・禅堂などの禅宗様式の七堂伽藍が立ち
周りに勅使門・開山堂・護聖院・経蔵や塔頭が立ち並び  昭和44年(1969)に国の史跡に指定された
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通津橋を渡る散歩する人
福岡城
慶長5年(1600)黒田孝高・長政父子は関ヶ原の戦功により豊前国中津16万石から
筑前一国52万3千石に加増され筑前名島城に入封した 名島は筑前の旧領主小早川秀秋の居城であった
地理的な便宜から名島城を廃し新たな築城を決め より博多に近い警固村福崎の丘陵地を城地とした
慶長6年(1601)に築城が開始され 7年の歳月を経て慶長12年(1607)に城は竣工した
築城にあたり 警固村福崎を黒田家の故国である備前国福岡(岡山県瀬戸内市長船町福岡)に因み
「福岡」と改めた 以降明治まで福岡藩黒田氏の居城となった
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下之橋御門と潮見櫓
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