2009.09.19  肥後街道豊後今市宿 七ッ森彼岸花

雲一つない快晴 瀬の本高原を経て野津原へ行く
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亀石峠から阿蘇五岳遠望
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瀬の本あざみ台展望所から久住連山
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あざみ台ではヘリコプターの遊覧飛行開催中でした あざみ台の正式名は「宇見台」 標高:1036.0m 四等三角点

大分市野津原(旧野津原町) 史跡今市石畳道路
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今市は七瀬川と芹川との間の台地 (標高450m) にできた集落で 古くからの物資の集散地でした
文禄3年 (1594) 中川秀成が岡藩7万石の領主として入部 今市も岡藩の領地になりました 中川氏はやがて
野津原村以西の肥後街道を参勤交代道路の一部として利用するようになったのです 今市が宿場として
整備されたのは慶長年間 (1596〜1615) のことで 庄屋伝兵衛の祖先が藩命により 開発したと伝えられています
岡藩のお茶屋は元禄8年 (1695) 上町に移されて西の御茶屋と呼ばれるようになり 延享元年 (1744) に
廃止されました 肥後藩の御茶屋は 寛永10年 (1633) 下町に移りました
宿場の東西には上構 下構と呼ぶ門があり 警護に当たっていました
石畳道路  総延長 660.0m  幅員 8.5m  石畳幅 2.1m
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丸山八幡神社楼門
慶長15年(1610)に藩主の加藤清正により 参勤交代旅程の安全を祈願し天満社を勧請した事に始まる
万治3年(1660)宿場に逗留した岡藩主中川久清に庄屋佐藤三吾兵衛善次が八幡社の建立を願い出て許可を得
 寛文3年(1663)に米納(よない)の城原八幡社の分霊を勧請し天満社境内に八幡社を創祀した
以来 藩主中川氏が参勤交代の都度八幡社へ道中の安全と領民の繁栄を祈念した為「丸山八幡」と称された
この立派な楼門は 享保5年(1720)今市の豪商である小倉屋松田庄右衛門尉長次によって寄進されたもの
明治2年(1869)政府の神社合祀令より天満社を合祀して「丸山神社」と改称され 同5年には村社に列された
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枡形の信玄曲から熊本側
枡形の信玄曲大分側
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御客屋と宿屋の違いは 自炊の木賃宿と旅籠(食事を提供する宿)だと思われる
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大きな宿屋や店の前は全面に石が敷かれている
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大分側は側溝も昔のまま残っている
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大分側構門跡から宿場側

竹田市七ツ森古墳群 ヒガンバナ群生地
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これだけの数があれば「曼珠沙華」の名がピタリとあてはまる
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<上>祖母山を背景のヒガンバナ
<左>阿蘇谷秋景色
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外輪山のススキ原
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