2017.01.17 香川県高松市 屋島と高松城

屋島

侵食されたメサ台地で南北に長い台地状の地形を持ち 山頂は平坦で端部を急崖で囲まれている
この屋根のような特徴的な形状が名称の由来となっている 
大きさは南北5km・東西3km 北嶺は標高282m 南嶺は標高292mある 両嶺は細い尾根で繋がっている

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地理院地図 色別標高図
P.駐車場 1.北嶺・遊鶴亭 2.魚見台 3.談古嶺展望台 4.屋島ケーブル屋島山上駅跡 5.屋嶋城跡 6.屋島寺

新生代中新世の約1300万年前~約1500万年前の瀬戸内火山活動の溶岩などでできた讃岐層群からなる
基盤は花崗岩で 火山活動の溶岩などが湖を埋めた後に土地が隆起したとされている
その後 長期にわたる浸食で山頂部にある硬質の讃岐岩質安山岩を残す形でメサ台地が出来た

古来から瀬戸内海路の目印となり また海路に面した要衝でもあり 飛鳥時代の663年に起きた白村江の戦いの後
中大兄皇子が唐・新羅の侵攻に備え 屋島山上に山城を築いたとされる
江戸時代まで島であったが 明治以降 四国本土間が塩田開発や干拓によって埋め立てられ
運河を隔ててほぼ陸続きとなった 昭和9年(1934)3月に初の国立公園として瀬戸内海国立公園に指定され
同年11月には 国の史跡および天然記念物「屋島」に指定された

屋島は 源平合戦の一ノ谷の戦いに破れた平氏が 安徳天皇を奉じて内裏を置いて本拠とし 平知盛を大将に
長門の彦島にも拠点を築いて瀬戸内の制海権を握ったが 元暦2年(1185)屋島で源氏に敗れ西へと落ち延び
長門壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡した 南嶺に四国八十八ヶ所84番札所の古刹・屋島寺がある


談古嶺からの展望
山上の三大展望台のひとつで 明治30年(1897)村雲 日栄尼(後の日蓮宗中檀林総裁)が 各地を巡教した際
屋島に登り 源平古戦場の史談を聞き源氏の武士や平家公達を偲んで命名した

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談古嶺から北嶺を見る 尾根伝いに北嶺先端の遊鶴亭展望台まで距離2.1km・徒歩約30分である
今回は時間の都合で南嶺のみの散策としたが 一度は歩いてみたい路である
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観光地としての衰退を物語る旅館・ホテルの廃墟
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廃墟の前が素晴らしい眺めの展望所 庵治半島と四国最北端の竹居岬
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屋島ケーブル屋島山上駅前 土産物屋も廃墟となっている
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屋島山上駅々舎

四国八十八ヶ所84番札所の古刹・南面山 千光院 屋島寺
開基は唐僧の鑑真和上と伝えられる 鑑真和上が朝廷からの要請をうけ四度渡航に失敗するも 失明の後
天平勝宝5年(753)五回目の渡航で漸く薩摩の坊津に漂着した 翌年東大寺に船で向かう中 屋島の沖で
山の頂から立ちのぼる瑞光を感得し長崎鼻に船を着けさせ上陸した そして苦労して北嶺に登り普賢堂を建立し
普賢菩薩像を安置して経典を納めたと伝わる 後に和上の弟子・東大寺戒壇院の恵雲律師が堂宇を建立し
「屋島寺」と称し初代住職となった 弘仁6年(815)に弘法大師が嵯峨天皇の勅願を受けて屋島寺を訪れ
北嶺にあった伽藍を南嶺の山城・屋嶋城の破却に伴う跡地に移し 十一面千手観音像を本尊として安置した
南北朝末期には 屋島普賢寺の名で奈良・西大寺(真言律宗)の末寺であったことが記され残っている
関ヶ原後の慶長6年(1601)に高松藩主となった生駒一正によって屋島寺の寺領は安堵され 江戸時代を通じ
寺は高松藩の保護下にあった 現在も国有林部分を除く屋島山上の敷地の大部分は屋島寺の所有となっている

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正面山門の南面門(仁王門) 徒歩巡礼路は屋島中町から西南斜面を登る
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四天門と本堂
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飛鳥時代の古代山城・屋嶋城
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讃岐平野
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高松港と女木島
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高松港-小豆島池田港フェリーと女木島帆槌ノ鼻 背後は大槌島・児島港・日比精錬所の煙突
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高松港

香川県高松市玉藻町 高松城(玉藻城)

玉藻城は 柿本人麻呂が万葉集で讃岐の枕詞に「玉藻よし」と詠み 辺りを玉藻の浦と称したことに由来する

天正15年(1587)豊臣秀吉による四国平定後 生駒親正が讃岐一国の領主となり「野原」と呼ばれていた港町に
天正18年(1590)城が築造されたのが始まり 寛永16年(1639)生駒氏が出羽・矢島藩1万石に転封

寛永19年(1642)初代水戸藩主徳川頼房の子・松平頼重が東讃岐12万石で入封 明治まで松平家が高松藩主となる
寛文9年(1669)3層5階の天守が完成 寛文11年から北の丸の大改修を始め 披雲閣御殿を三の丸に移し
東の丸が造成され米蔵や艮櫓・巽櫓が建てられた 延宝元年(1673)初代藩主・松平頼重が隠居後に出家するが
城の改修は引き継がれ 延宝4年(1676)には月見櫓が建てられ その後 水手御門・渡櫓・鹿櫓が建造された

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国土地理院空中写真 築城当時の高松城の海域と堀
1.本丸 2.二の丸 3.北の丸 4.三の丸 5.東の丸 6.桜の馬場 7.西の丸 8.武家地
かつて桜の馬場には 虎櫓・鳥櫓・太鼓櫓があり 当初は南中央に大手門があった
A.天守跡 B.月見櫓・水手御門 C.披雲閣 D.桜御門跡  E.艮櫓(うしとらやぐら・太鼓櫓跡)
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高松城および城下町絵屏風 寛文11年(1671)以前の姿
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駐車場からすぐに見える艮櫓(うしとらやぐら)
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旭門と旭橋
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寛文11年(1671)の大改修で桜の馬場の南中央に大手門があったが 披雲閣御殿が三の丸に移され
新たに桜の馬場東端に旭橋と旭門を設けた 木橋から石造に変わったが 元から筋違い橋であった
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東門(大手門)枡形
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重要文化財 高松城旧東ノ丸艮櫓(うしとらやぐら)
三重三階の隅櫓 入母屋造 本瓦葺
東ノ丸は現在の県民ホールのあたりをいい、寛文11年(1671)頃より行われた大改修の際、新たに堀を開削し
海に面して新たに構えられた郭です。艮櫓は、もともと東ノ丸の北東の隅櫓として建てられたもので、
北東の方角のことを丑寅(艮)ということから、この名前があります。
記録によれば延宝5年(1677)に完成されたようで、現在残されている月見櫓と同時期に建てられたものです。
昭和40年(1965)8月に当時の所有者であった日本国有鉄道より高松市に譲渡され、昭和40年10月より工期2年を
を費やして解体修理を行い、東之丸の東北隅より現在の旧太鼓櫓跡に移築復元されました。この移築にあたって、
艮櫓の規模に合わせ城内側に石垣の拡張工事を施し、また石落しの位置関係から建物を90°右に回転させています。
櫓の構造としては南北に大きな千鳥破風を設けているほか、各階の窓の上戸に特異な形状をもち、
さらに2、3階には城内側にも銃眼を設けるなどの特徴が見られます。移築修理の際、この櫓は建立直後に補強的な
改造を受けているほか、安政3年(1856)には、ほとんど解体に近い大修理を受けていることがわかりました。
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東の丸跡の香川県県民ホール(レクザムホール)と香川県立ミュージアム
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桜御門跡 電波塔は西日本放送
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三の丸から見る天守台

披雲閣
藩政時代の三の丸には披雲閣と呼ばれる現在の2倍の規模の書院風建物があった
明治5年(1872)に老朽化によって取り壊され 大正6年(1917)に松平家高松別邸として建築された

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内苑御庭
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重要文化財 高松城北ノ丸月見櫓(続櫓)水手御門 渡櫓
高松城は、日本三大水城の一つに数えられています。月見櫓は、松平氏入封以後新たに海面を埋立てて作られた
郭の隅櫓として延宝4年(1676)二代賴常の時代に、完成されたものです。
ことに渡櫓は生駒氏築城による海手門を改修して建てられました。かつて、これらの櫓の外まで海であって、
船からこの水手御門を経て、直ちに城内へ入れるようになっていたところからみると、この櫓は海手出入りの
監視防備のための隅櫓であったものとおもわれます。月見櫓の特色としては、
内部に初層から三層の屋根裏まで通じる4主柱が中央に通っていて、それに梁をかけて組立てていることや
外壁に装飾的な黒い長押を廻していること、軒は垂木形を塗り出さず一連の大壁としていること、
月見櫓より渡櫓に至る一連の建築構造美などが挙げられます。
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水手御門
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月見櫓(続櫓)
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水手御門と月見櫓
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水面にある月見櫓と水手御門
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「松ぼっくり」のツリー
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二の丸隅櫓・武櫓(跡)石垣

鞘橋
二ノ丸から本丸へ架かる唯一の橋で この橋を落とすことで本丸を防御する要であった
当初は 「らんかん橋」と呼ばれ屋根のない橋であったが 後の文政6年(1823)の絵図では屋根付の橋として
描かれている 現在の鞘橋は 明治17年(1884)の天守解体時に架け替えられたものと伝わっており
大正期には橋脚が木造から石造に替えられたことが判明している 1971年に老朽化による解体修理がされ
2006年からの天守台石垣の修理工事に伴い本丸側の一部が解体され 2011年に修復された
橋台部分の石垣が修理されたことで 解体前よりもやや全長が長くなっている

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鞘橋
本丸天守台
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本丸天守台石垣 野面積
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1月17日 瀬戸内・早咲きの梅
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高松城は 伊予今治城・豊前中津城と共に日本三大水城の一つに数えられている
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天守台石垣内部
天守は層塔型で地下1階地上3階の4層 初層平面が東西13間2尺(約26.2m)・南北12間2尺(約24.2m)
高さ13間半(約24.5m)で 現存する高知城や松山城の天守を凌ぐ四国最大の規模であった
また4階平面が3階平面より大きく 1階も天守台から外に張出して石落としを設けていたと考えられている
生駒氏による創建時の天守は下見板張りの黒い外観であったが 松平氏による大改修で白漆喰総塗込の天守に
改修されたと見られている 残念ながら老朽化により明治17年(1884)に解体されている
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二の丸・鞘橋 マリタイムプラザ高松シンボルタワーとJRホテルクレメント高松
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修復後の天守台石垣
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三の丸から見る天守台 かつての天守は海に浮かんでいるように見えたといわれる
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艮櫓 15:50
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サンポート高松アート広場 「国境を越えて・海」制作:台湾・林舜龍(リン・シュンロン)
海は国を隔てず交流を運ぶというコンセプトで制作された「種実」を形どったオブジェ
2009年台湾南部で約700人の犠牲者を出した台風後に拾われた流木を材料にしている
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五色台展望所から瀬戸大橋遠望 16:40

今日の車中泊は 高松市香南町の「道の駅・香南楽湯」ここから距離約23km 明日は早朝から栗林公園に行く

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