2019.01.16 徳島県阿波市阿波町北山 阿波の土柱

土柱とは 砂や礫からなる段丘礫層(土柱礫層)が風雨で侵食され柱状になったものを指す 生成条件として
1.直立した崖をつくる礫層があること 2.頂部に比較的硬い侵食抵抗性のある地層があることが必須となる
極端に利用価値の低い悪地地形である 平安時代の延暦19年(800)に発見されたとの記録が残り
吉野川によって作られた段丘礫層が隆起し その後侵食されて出来たもので 約130万年前は
吉野川の川底であったとされている 付近一帯は県立自然公園にも指定され5ヶ所の土柱が点在する
最も大きいものは波濤嶽(はとうがたけ)と名付けられ 高さ10m前後の土柱が
南北約90m 東西約50mの範囲に林立し 阿波の土柱として昭和9年(1934)に国の天然記念物に指定された
その他にも 燈籠嶽・不老嶽・筵嶽・橘嶽が周辺に散在している
夜間にはライトアップされると聞いていたが 前々日の日曜日に高速道から見た限りライトアップは無かった
徳島自動車道の阿波パーキングエリアからも 徒歩約10分で土柱観光が楽しめる
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阿波市公式サイト<https://www.city.awa.lg.jp/>観光・文化/天下の奇勝「阿波の土柱」
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土柱そよ風ひろば・駐車場 15:45
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廃墟の旅館 観光客も土柱では宿泊しなくなった
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波濤嶽山頂
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上の展望台から
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上の展望台から下へ降りる
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下の展望台から 16:25 今日の車中泊予定の脇町「道の駅・藍ランドうだつ」に移動 17:00着
2019.01.16−17 徳島県美馬市脇町大字脇町 脇町の町並み散策
通称「うだつの町並み」ともよばれる脇町南町
江戸時代から明治にかけて脇町の中心は南町で 明治以前は本通り筋であった
天正13年(1585)徳島藩主となった蜂須賀家政は 阿波九城のうちの一城を阿北の要衝である脇町に築き
第一家老の稲田植元を脇城に入城させ この地域の産業の振興にも力を注がせた
脇町が 吉野川を利用する舟運及び畿内へ通じる撫養街道(川北街道)と 室町時代に拓かれたとされる
相栗峠越の讃岐往還が交差する交通の要衝であることから 各地から商人を集めて阿波藍づくりを奨励し
藍商を中心とした商人の町づくりを図った 以降は阿波特産である藍の吉野川中流域の集散地として繁栄
江戸時代から明治時代中期にかけて豪商の町となり 徳島・鳴門に次ぐ県下第3の都市として栄えた
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商家は 明治時代頃のものを中心に江戸中期から昭和初期の85棟の伝統的建造物が建ち並び
町並み全体の建築様式は本瓦ぶきの土蔵造りで 重厚な構えと装飾的な「うだつ」などに特色がみられる
卯建(うだつ)とは 二階の外壁面から突き出した屋根の両端に設けられた漆喰塗りの防火用の袖壁のことで
火よけ壁ともよばれる 建ち並ぶ「うだつ」の数は約50ヶ所あり 厚い白壁で建ち上げられている
卯建の他 格子造・蔀戸(しとみど)・虫籠窓が特徴として挙げられる
最も古い町家には宝永4年(1707)の棟札があり 近世・近代の景観がそのまま残される町並は
昭和61年(1986)に「日本の道100選」に選定 昭和63年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された
今夜は「道の駅・藍ランドうだつ」で車中泊 夕食後 夜の町並みを散策する
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18:35 静寂の町
翌朝 午前8:00から散策
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文政元年(1818)の脇町分間絵図
江戸時代、物資輸送の大動脈として重要な役割を果たしていた吉野川は、「うだつの町並み」のすぐ南側まで
流れ込んでいました。ここには船着き場があり、水運を利用して藍製品が集出荷されていました。
今も石垣やスロープが残されており、一部が「船着き場公園」に整備され、繁栄していた往時が偲ばれます。

吉田家
吉田直兵衛が寛政4年(1792)に創業した藍商で 屋号を「佐直(さなお)」と称した 約600坪の敷地には
江戸時代中期から後期にかけて建てられた母屋・質蔵・藍蔵など5棟が中庭を囲むように建っている
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吉田家(屋号・佐直)の船着場門
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吉田家 中蔵
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吉田家の船着場門をくぐると 「美馬市観光交流センター」と「うだつ茶房」がある
他に 道の駅付帯施設として藍蔵(あいぐら)があり 一階は物産販売 二階が食事処となっている
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国見家住宅
宝永4年(1707)に建てられた。この通りでは一番古い建物である。
敷地は表通りから当時の吉野川に達する広いもので、川岸に門があり石段を通じて吉野川の船着き場に
出ることができた。屋根架構は、登り梁折置組み中引梁で合掌に組み、その上に直接棟木を置いている。
指物を用いず、丸太梁に鴨居と敷居を入れ丸太に近い在が古風である。
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田村家住宅
宝永8年(1711)の棟札をもち、この通りで2番目に古い建物である。
うだつを取り入れた建築様式以前のものであり、2階の部分が低く古風な構えを呈している。
敷地は表通りから当時の吉野川川岸まで占められていたと言われ、藍商を営む赤谷屋のものであった。
田村家は明治初期に入居し現在に至る。
主屋の規模は桁行8間に梁間4間、裏に身舎(もや)屋根をそのまま葺き下ろした1間半の下屋が付く。
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美来工房・旧脇町税務署
明治32年(1899)に脇町税務署として建築され、その後、昭和27年(1952)に税務署が移転し、
昭和63年(1988)まで法務局、そして美馬市伝統工芸館「美来工房」として現在に至っている。
構造は鉄筋コンクリート造りではあるが、外観は税務署時代の擬洋風デザインで、
町並みに違和感無く溶け込んでいる。館内は美馬市伝統工芸である美馬和傘や竹工品の展示、
観光案内所も併設され、観光情報発信やガイドの予約受付を行っている。
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古くは町の石垣の沿って流れていた吉野川も 明治のはじめ頃には河川敷となり 藍畑や桑園が広がっていった
しかし 昭和50年に吉野川堤防が完成しその風景も変わった
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森家住宅
森家は室町時代の天文年間(1532−1555)より脇町に居住し、江戸時代末期の弘化年間(1844−1848)から
醸造業を営んでいた。当家屋は明治13年(1880)に建て替えられたものである。明治の郵便制度発足後、
七代目当主が郵便局長を拝命、郵便局として使用されていた当時の窓口がそのままの形で残っている。
九代目当主が大正8年(1919)に当家で医院を開業し、昭和29年(1954)まで診療を続けていた。開業当時の
診療施設が、そのままの形で現在も保存されている。なお、当屋敷は中町通りまで裏庭を隔てて貫通しており、
裏に門屋敷・長屋門が現存している。
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吉田家住宅(左)
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吉田家では 毎年1月には華道展「うだつをいける」を開催している
今年は 華道家・假屋崎省吾による「〜美彩繚乱〜」
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吉田家の卯建
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野崎家住宅
寛政3年(1771)の棟札を有する建物である。初代野崎儀平が、安政3年(1856)に呉服商を創業し
一代で財を築いた。その当時から現在に至るまで続いている唯一の呉服商で、屋号は「さのぎ」で知られている。
電話番号は脇町一番であった。明治時代には、京都の丸紅伊藤本店の特約店となり、婚礼物を主として
高級品を取り扱い、販売は伊予、讃岐にまで及び盛況をきたしていた。
店に入ると帳場が昔のまま残されており、江戸時代の面影が感じられる。
なお、板垣退助も逗留した別荘が中町にある。
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出格子の家
脇町劇場・オデオン座
昭和9年(1934)に建築された750人収容で回り舞台の付いた 芝居や映画上映用の劇場である
別称「オデオン座」の由来は フランス・パリにある国立劇場「オデオン座」の外観からとされる
戦後は歌謡ショー等が公演され大勢の有名人が訪れており、地域住民にとっては欠かせない娯楽の殿堂だった
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その後は主に映画館として利用されていた 平成7年(1995)に老朽化により閉館し取壊す予定であったが
平成8年(1996)の夏に 松竹映画・山田洋次監督 西田敏行主演「虹をつかむ男」のロケ地に決まり
一躍有名となった これを契機に平成10年(1998)美馬市指定文化財となり修復後一般公開されている
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午前9時過ぎ 阿波・脇町をあとに讃岐・高松を目指す 国道193号線の清水峠は
相栗峠越の讃岐往還に代わる新道として明治になって開削された その後は道幅も拡張・整備され
美馬から高松へ抜ける交通の要となっている 香川県に入り三木町奥山の三差路から右折し国道377号に入り
さぬき市多和(たわ)駐在所前から直進して県道3号志度山川線に入る
駐在所前から1.2km さぬき市多和額東(がくひがし)の国指定重要文化財・細川家住宅に寄る
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