「田の神さあ」について

「田の神さあ」は 南部九州地方の旧薩摩藩領域に 元々分布していた「田の神」のことで
集落ごとに杓子やすりこぎを持った「田の神」を 水田の際にまつる風習が多くみられる
江戸期では薩摩藩領への出入りが厳しく制限されており 他所への伝播はほぼ皆無である
明治以降はその分布がやや拡大したが 現在も薩摩・大隅・日向の一部(都城周辺)に限って分布する
代表的な事例では 春に 田の神に化粧が施され 背中に背負って戸外へかつぎ出し
村人と共に花見をする これは「田の神おおなり」などと言われ 水田への宿移りの祭事である
秋の収穫後には 再び戸外から家の中へと移動する祭事が執り行なわれる
「田の神さあ」は18世紀(1700年代)初め頃よりつくられ始め 同じ形の石造がひとつとして存在しないことが
大きな特徴である 仏像形・僧形・神像形・神職形・神楽舞形などの宗教信仰にもとずく形態の他に
女形や農民形などが存在することも特徴である
「田の神さあ」を初めて知ったのは 40数年前 永 六輔氏出演の旅番組「遠くへ行きたい」でした
それから半世紀近くたって 初めて「田の神さあ」を訪ねました

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えびの市発行の「田の神さあガイドブック」より
田の神さあの里えびの
田の神は、冬は山の神となり、春は里におりて田の神となって田を守り、豊作をもたらすと信じられています。
田の神石像ができた頃は、霧島の噴火・天災などが原因で、農家にとって大変きびしい時代でした。
江戸時代からの赤字経済を建て直すため稲作を奨励し、少しでも収穫を増やしたかった薩摩藩の政策の中、
農家は霧島の噴火をやめさせ、稲作の豊作を願う「よりどころの像」を作るようになったといわれています。
薩摩藩独特の石像
「田の神」信仰は、全国的な民俗行事として農村に浸透していますが、「田の神」を石に刻んで
豊作を祈願する風習は薩摩藩独特の文化です。

回り田の神
農家を次々に回つて豊作を祈願する「回り田の神」の風習は今でも市内各所に残つています。
当番の家では、田の神像に化粧をし、ごちそうを作つてまつり、大事に床の問に飾られて、
春・秋交代で次の座元へ回つていきます。 昔、「平日、村で打ち寄り酒を呑む事」が禁止されていた時代、
この日だけはお酒を飲んでも良かったそうです。

オットイ田の神
昔は、タノカンオットイ(田の神盗み)という風習がありました。 豊作の続く地方の田の神像を置くと、
米が良くとれるようになるといわれたからです。又、田を新しく開田したところには田の神がないので、
よその田の神を盗んだそうです。 実際には、借りてくるのですが、盗まれたところは、
盗んだところが返しに来るのを待つていました。盗んだ田の神像は3年以上置くと不作になるので、
盗んだ集落では3年経つたらお礼として籾や焼酎、ニワトリなどを持つて正装して楽器を鳴らしながら
にぎやかに送っていきます。盗まれた村では、サカムケ(坂迎、酒迎)の準備をして待ち、
合同で盛大な酒盛りをしたそうです。

● 田の神さあには4つの型があります。
1. 自然石の田の神さあ
田の神の石像が造られる以前は、自然石を立てて田の神をまっっていたといわれています。
2. 地蔵型の田の神さあ
地蔵型は、最古の田の神像です。鹿児島県鶴田町紫尾に作られたものが最も古い地蔵型の田の神像です。
製作は江戸期の宝永2年(1705年:将軍徳川綱吉の時代で 赤穂浪士吉良邸討ち入り後2年)
島津藩の一向宗禁止のためか、この型は数が少ないです。
3. 神官型の田の神さあ
神官型の田の神は、衣冠束帯または、それに近い服装で手にはシャクを持つものが多く、神官が神前に
座るような姿をしています。 神官型は、霧島噴火の被害地方に多く、宮崎県で始まったとされています。
4. 農民型の田の神さあ
シキを被り、右手にメシゲ、左手にお椀を持って表情豊かにユーモラスに踊る姿が農民型の典型です。
数の多さと姿から田の神像の代表とされています。 えびの市でもこの型が最も多くあります。
シキとは縄を螺旋状に巻いた敷物(座布団)のことです メシゲとは御飯しゃもじです
尻に敷く座布団を被り しゃもじとお椀を持って踊る 酒宴での百姓・滑稽踊りがモデルだと私は思います
行儀の良いことではありませんが にっこり微笑みかけて
さぁ メシくえメシくえ もっと食え〜と言っているようです

この農民型の「田の神さあ」後ろから見ると「男根」(陽石)を表現しているのが特徴である
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