2022.06.15 大分県豊後大野市朝地町上尾塚 普光寺 磨崖仏と紫陽花

高野山真言宗 筑紫山 普光寺 別名「紫陽花寺」
寺伝によれば 6世紀頃・百済王に仕えた日羅によって創建されたと伝わる
日羅の父・阿利斯登は 大連である大伴金村の仕官で 肥後国葦北の国造刑部靭部に勤める役人であった
古墳時代の6世紀半ば宣化天皇の代512年 百済からの要請により朝廷の命をうけて朝鮮半島に渡った
日羅は阿利斯登の子として朝鮮で生まれ 長じて後に百済王に仕えた高位の日本人官僚であった
『日本書紀』によれば 583年に敏達天皇の要請により来日し 百済を帰服させる方策を
朝廷に奏上したとされ 百済国役人によって難波宮で暗殺された 墓所は父の出身地である葦北に現存する
後年 聖徳太子伝暦や今昔物語では 太子が師事した百済国の高僧であると伝えられ 豊後国大野川流域や
日向国などに多くの密教系寺院を開基し磨崖仏を建立した また薩摩半島の坊津に その地名の起源となった
龍厳寺3坊(後の真言宗一乗院)も開基している 後の享和3年(1803)に著された『豊後国志』によれば
日羅は豊後国内に7箇所の寺を創建し それぞれの境内に磨崖仏を彫ったとされ 普光寺もそのひとつである
天正14年(1586)豊臣秀吉による島津征伐の際に打ち壊され衰退したが 岡城の鬼門に当たることから
岡藩主・中川氏の帰依を得て寺領も寄進された かつては普光山筑紫尾寺と称していたが
「筑紫尾」が「畜生」とも聞こえることから不吉とされ
寛文2年(1662)に 第3代藩主中川久清によって現在の山号寺名に改められた

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山門
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本堂
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磨崖仏が彫られている崖は 約12万年前の阿蘇火山の3回目の噴火による火砕流によるもの
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境内に彫られた磨崖仏は 高さが11.4mあり 国東半島の熊野磨崖仏とともに
大分県内で最大の磨崖仏で 日本国内でも最大級のもので 鎌倉時代の作といわれている
不動明王を中心として 両脇に矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制咤迦童子(せいたかどうじ)が控える
右手奥にある龕(がん)には 高さ3mの多聞天が 中央の龕には 阿弥陀如来・小矜羯羅童子・小不動明王
小制咤迦童子の それぞれ1mほどの磨崖仏が彫られている
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不動明王は 大日如来の化身とも言われ 密教特有の尊格である五大明王の中心となる明王である
矜羯羅(こんがらどうじ)は サンスクリット語の「キンカラ」
制咤迦(せいたかどうじ)は 「チェータカ」に通じともに不動明王の使者である
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保け忘れ地蔵三尊
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