2021.06.10 大分県大分市佐賀関 関崎海星館のアジサイ

関崎海星館は 大分市生涯学習施設に位置づけられ 天文台及び展望施設等で構成される複合施設である
開館は平成7年(1995) 県内最大級の口径60cmの反射望遠鏡及び太陽観測用の10cm屈折望遠鏡を設置
館内には宇宙について学ぶことができる展示ゾーンや研修室やレストランもあり雨天でも利用できる
佐賀関半島先端の関崎の高台にあるため 展望施設からは国東半島・別府湾・豊予海峡などが展望できる
また館外にはアジサイが植えられ花の名所となるほか 渡り蝶のアサギマダラが渡来する岬でもある
休館日は毎週火曜日と年末年始・開館は午前10時で 閉館日時帯は敷地内への侵入は禁止されている
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国土地理院色別標高図 佐賀関
佐賀関の地名は かつては佐加郷と呼ばれた地で 奈良時代の霊亀2年(716)頃に戍(じゅ)と呼ばれる
関が置かれ 往来する船とその積み荷を検めた 山上には狼煙台の烽(とぶひ)が置かれたとされる
『肥後国志』では 藤原純友が反乱を起こした際 佐賀関を通行するすべての船を臨検したことから
以降「関」の名が興ったと伝える 南北朝時代の貞治3年(1364)に大友氏の直轄領に組み込まれ
室町時代には 一尺屋の上浦・下浦を拠点とする大友水軍の中核を成す若林氏の知行地となった
この頃から 一尺屋と同じように北の入江を上浦 南の入江を下浦と呼ぶようになった
第22代当主の大友義統は 天正16年(1588)に両浦の町立や度量衡などについて定めた11箇条からなる
佐賀関法度を若林氏に対して発給し 若林氏を通じて佐賀関湊の政治及び経済の掌握に努めた
大友氏は秀吉によって改易され 後の江戸時代には熊本藩の飛地となり 風待の湊としてより発展した
明治22年(1889)町村制の施行により 関・白木の2村が合併して佐賀関町が発足
昭和30年(1955)に神崎・一尺屋の2村と合併し新しい佐賀関町が発足 平成17年(2005)に大分市へ編入
佐賀関の名が一度消滅したが 平成18年(2006)佐賀関町中心部の関の大字名を佐賀関に変更し復活させた
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半島東端の関崎近隣図  1.関崎海星館 2.関埼灯台 3.砲台跡地海岸 4.黒ヶ浜
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豊予要塞 関崎砲台跡
豊予要塞は 豊予海峡防御のため設置された大日本帝国陸軍の要塞で 四国側の佐田岬・沖ノ島・由良岬
九州側の関崎・高島・芹崎・鶴見など豊後水道の両岸13ヶ所に砲台が築かれ
大小口径・46門の大砲が設置され 海峡全域を射程内に納めた
大正9年(1920)に広島湾要塞司令部に築城部豊予支部を設置したが
大正15年(1926) 芸予要塞・広島湾要塞の廃止決定を受け広島湾要塞司令部を閉鎖
新たに豊予要塞司令部を佐賀関町古宮に開庁した しかし 戦略の要は艦砲射撃から空襲爆撃へと変わり
また最終的に整備が終わったのは昭和20年の終戦直前であったことも影響し
一度も実戦砲射すること無く終戦を迎えた この2ヶ所の関崎砲台には 旧式の38式野砲2門が置かれた
故に掲示板に掲載されている写真は 別場所のカノン砲と思われる
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浜萱草(ハマカンゾウ)
ツルボラン科ワスレグサ属の常緑多年草 学名:Hemerocallis fulva var. littorea
野に咲く野萱草に対し 浜に咲くのでこの名がある 違いは常緑性で野萱草は冬枯れする
早朝に咲く一日花で 一般的に咲き始めるのは7月頃であるが やはり佐賀関は暖かいのか早咲きである
「萱草」は中国語でワスレグサ(忘れ草)を指す
属名の Hemerocallis はギリシャ語の一日を表す hemera と美しいを表す callos の合成語
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関崎 砲台跡地海岸
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直線距離で 左に遠望する佐田岬まで13.5km 夏季限定でキャンプ場が開かれる無人島の高島まで3.8km
佐賀関半島の沿岸部は日豊海岸国定公園に 高島は瀬戸内海国立公園に入る
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半島北側の中央構造線に向かって倒れる岩石
関埼灯台通路の標石
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灯台通路
当初は上浦から灯台への道はなく建設資材も海岸から運び上げたと思われる 灯台守の宿舎も灯台から少し
離れた場所に今も石垣などの痕跡を残しているが 生活用品も食料も全て船とこの通路を使って運んだ
関崎地蔵
関崎沖の速吸(はやすい)の瀬戸は 古くから速吸門や速吸名門と呼ばれ航海の難所として知られていた
役小角(えんのおず)を乗せた舟が ここで激しい風浪に遭い難破しそうになった時 般若心経を唱えると
地蔵菩薩が現れて波風がおさまったという伝説がある 養老年間(717−724)に地蔵尊が安置され
「波除け地蔵」と呼ばれた これに因んでこの岬が地蔵崎と呼ばれるようになったといわれる
神仏習合の時代には 関六所権現の一つに数えられ崇拝された
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関崎地蔵から先ほどの海岸を俯瞰する
関埼灯台
明治34年(1901)7月20日に初点灯した大分県最古の灯台である 明治時代に建てられ現役で活躍する
鋼鉄造の灯台は全国に7基が残り そのうちのひとつに数えられる その他の鋼鉄造現役灯台は下記の通り
新潟県・姫埼灯台(M28) 神奈川県・横浜北水堤灯台(M29) 静岡県・掛塚灯台(M30)
高知県・室戸岬灯台(M32) 広島県・上島灯台(M39) 北海道・石狩灯台(M41)
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初点灯時の第3等フレネル式レンズは 大正7年(1918)に佐田岬灯台に移設され
その後約百年間は 1870年の英国製第4等フレネル式レンズが用いられてきた
2009年に3秒間等明暗白光の高光度LED灯器に交換され 光達距離は12.5海里(約23.2km)となっている
黒ヶ浜
16世紀の中国明朝時代 中国から日本を訪れた探検家の鄭舜功が 戦国時代の各地を調査・資料を分析して
編纂した『日本一鑑』の中で 豊後の特産品として紹介した碁子(碁石)は この黒ケ浜のものと思われる
また黒ケ浜の南2.3kmのところに白砂海岸の白ヶ浜があり 白黒の海岸が隣接する地形は珍しいとされる
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ビシャゴ浦姉妹岩
遠い昔 神武天皇一行の船がこの沖合を通ろうとしたところ急に進まなくなった 天皇自ら海底を見ると
かってイザナギノミコトが海に落としたといわれる神剣を 大ダコが守護しているのが見えた
天皇は 海女の黒砂(いさご)・真砂(まさご)姉妹に神剣を大ダコから受け取るように命じた
まず姉の黒砂が潜ったが潮の流れが速く 深い所まで潜ったため神剣を受け取ったまま力尽き息絶えた
次に真砂が潜り神剣を姉から取り上げ天皇に渡したが 真砂も息絶えてしまった
その夜 神武天皇の夢の中に姉妹が現れ「ここを航海する船は私達がお護りいたします」と告げた
翌朝 激しい雷雨で大岩が裂け二つの岩となった 今も姉妹岩は海の安全を守っていると伝わる
引き上げられた神剣は 佐賀関の早吸日女神社の御神体とな っている
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関崎海星館のアジサイ
紫陽花(アジサイ)
アジサイ科アジサイ属の落葉低木で原産原種は日本のガクアジサイである 学名:Hydrangea macrophylla
和名「あじさい」の語源は確たる説はなく 有力視される説は「藍色が集まったもの」を意味する
「集真藍(あづさい)」が転訛したとするものである 最古の歌集『万葉集』では味狭藍や安治佐為が
平安時代の『和名類聚抄』では阿豆佐為の漢字があてられている
漢字表記の「紫陽花」は 唐の詩人・白居易が おそらくライラックの花に付けた名であろうと思われるが
平安時代の歌人学者・源順(みなもとのしたごう)が 誤ってこの漢字をあてたことから広まったとされる
土質によって花の色がよく変わることから「七変化」「八仙花」とも呼ばれる
基本的に装飾花の付き方から ガクアジサイとホンアジサイ(狭義のアジサイ)に分けられる
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遊歩道駐車場のアジサイ
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数日間雨が降らず日焼けしているアジサイが多い
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本紫陽花(ホンアジサイ)
原種のガクアジサイから日本で園芸品種に改良した落葉低木 学名:H. macrophylla f. macrophylla
萼(がく)が大きく発達し花序が「手まり咲き」と呼ばれる球形ですべて装飾花となったアジサイ
単に「アジサイ」と呼べばこのホンアジサイを指す代表的な花
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渦紫陽花(ウズアジサイ)
別名:お多福紫陽花(オタフクアジサイ) ウイルスに侵され萼片が内側にまるまったもので
渦を巻くように見えることから名付けられ園芸品種として定着した
学名:Hydrangea macrophylla cv.Uzuajisai
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額紫陽花(ガクアジサイ)
本紫陽花(ホンアジサイ)の原種 萼(がく)が大きく発達した装飾花が 額縁のように花序の周辺部を
縁取るように並ぶ 園芸ではこれを「額咲き」と呼ぶ 学名:Hydrangea macrophylla f. normalis
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関崎灯台
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