2018.04.01-02  姫路城の桜

宮崎熊本桜紀行から帰り中3日で再び姫路城・明石公園・津山城の桜を見に行くことにした
例年より寒く低温であった冬の反動で 桜の開花がおよそ十日ばかり早くなって息つく暇もなく
あたふたと出かける 早朝暗いうちに自宅を立ち 山陽路をひた走る
昼に「道の駅・みはら神明の里」に立ち寄り 名物「地ダコのたこ焼き」を食べ
さらに国道2号線を東へ 岡山県笠岡のナノハナを見に行く
「道の駅・笠岡ベイファーム」の菜の花畑
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午後2時40分 10分程度見学して早々に姫路に向かって笠岡を旅立つ
姫路城大手門駐車場へは午後5時30分に到着 夜桜見物まではかなり時間がある 食事処を探すが
城の近くには思うような店がない 結局いつものようにスーパーで弁当を買い車内で食べることに
4月1日 姫路城の夜桜
姫路は播磨国の中心に位置し 古代より山陽道の要衝として栄え 奈良時代には国府が置かれた
現在も天守台のある「姫山」は古名を「日女路(ひめじ)の丘」と称し『播磨国風土記』にも
「日女道丘(ひめじおか)」の名が見られる 鎌倉時代以降は播磨守護大名の赤松氏の支配下にあり
南北朝時代に姫山を縄張りして城を築き後に姫山城とした
室町時代に赤松氏が滅亡し 但馬を本拠とする山名氏が守護となったが
応仁の乱後 再興された赤松氏が山名氏から播磨国を取り戻し 姫山城に本丸などを築いた
文明元年(1469)赤松則村が 新たに築いた置塩城に本拠地を移し 一族の小寺豊職が城代となった
延徳3年(1491)嫡男の政隆が城代になり御着城の築城を開始 永正16年(1519)に御着城に本拠地を移し
小寺政隆の子・則職が姫山城代になったが 天文14年(1545年)則職が御着城に移り
家臣の黒田重隆・職隆父子に城を預ける 永禄10年(1567)に職隆の子・孝高(黒田官兵衛)が城代となった
天正4年(1576)織田方の羽柴秀吉が播磨を攻め 織田方の勝利によって毛利方についた小寺氏は没落したが
小寺政隆に織田氏への帰順を説いた黒田孝高はそのまま秀吉に仕えることとなった
天正8年(1580)孝高は播磨平定を終えた秀吉に姫路城を献上し 秀吉は約一年を掛け姫路城を大改造して
近世城郭に改め 石垣で城郭を囲い天守を建築し名前も姫路城とした 関ヶ原合戦後徳川幕府となって
慶長5年(1600)に池田輝政が15万石から52万石への加増で姫路城に入城し大規模な城郭へと拡張された
明治時代には陸軍の兵営地となり 歩兵第10連隊が駐屯した 明治維新後に多くの建造物が破壊されたが
陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけで 大小天守群・櫓群などが 名古屋城とともに国費によって
保存される処置がとられた 第二次大戦中も大空襲による被害にあったが 大天守最上階に落ちた焼夷弾が
偶然にも不発となって奇跡的に焼失を免れる幸運をも重ね 多くの城郭建築の姿を残すことができ
明治・昭和・平成の大修理を経て現在に至っている 別名である「白鷺城」(はくろじょう)の由来として
これを「しらさぎ城」と別読みすることで 多く咲く桜から  姫山を「桜木山」と呼び それが転訛して
「鷺山(さぎやま)」と言われたことが挙げられる 姫山の桜は今も受け継がれ多くの人々が花見に訪れる
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午後7時から8時まで夜桜見物 午後9時まで城内三の丸広場は無料で開放されている
なお 4月3日から8日までの期間は 午後6時から9時まで「花あかり姫路城夜桜会」を開催し
西の丸も無料開放される ただし 西の丸ではカメラ三脚の使用は禁止となる
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午後8時 大手門駐車場を出車 今日の車中泊は「道の駅・みき」 距離約30kmで一時間
4月2日 姫路城の桜
昨夜と同じ道を辿って 姫路城大手門駐車場に入車したのが午前7時20分 空いていた駐車場の中で朝食
朝6時から開店していた「マックスバリュ・別所店」で食料を買い ご飯を炊いて自炊する
「 カートリッジガスを使ってガス釜で飯を炊く」この方法は 車中泊には最高である
西の丸・二の丸・本丸の開城は午前9時から まだ1時間もあるので内堀周りを時計回りに散策する
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姫路城の猫ちゃん
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ワの櫓と内堀(西側)
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南勢隠(せがくし)門跡
姫路城の堀は左巻きの螺旋状(三重)に巡らされており 同様の縄張りは江戸城の右巻螺旋状堀の二つのみである
姫路城の螺旋状堀の始まる辺りと二回り目の堀に挟まれた一帯を勢隠と呼び
ここに兵を隠し温存して 温存した兵力を状況に応じて出陣させる兵力調整の目的で作られた
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姫路城西御屋敷跡庭園 好古園土塀
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姫路城外郭の勢隠曲輪と呼ばれる区域
北勢隠門跡
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鷺の清水の遺構
清水門跡の石垣

鷺の清水
宝暦12年(1762)の地誌『播磨鑑』によれば、「鷺の清水」は、赤松義村(1521年没)の時代から、
播磨十水の一つに数えられており、風味がよく茶の湯にも利用されていたという。
ただこの場所は清水門の外門の内側に位置しており、一般の人は水が汲めないので、
船場川に流れ落ちる涌水で茶をたてたといわれている。
井戸の規模は、東西2.8m、南北6m、深さ2.5mで、さらに井戸底面の中央に直径1.3m、深さ2.4mの
木枠の井戸が設けられている。この遺構は、由来・形状に特徴があり、
往時の姿が概ね復元できたことから姫路城跡でも最も重要な遺構の一つである。

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シロトピア記念公園
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姫路市立美術館
姫路陸軍兵器支廠(後の第十師団兵器部)の西倉庫として明治38年(1905)に建築され 大正2年(1913)に
増築された建物で 第二次大戦後 臨時的に姫路市役所として利用され 後に美術館へ転用された
平成15年(2003)に国の登録有形文化財に指定された
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姫山公園の桜並木と大天守・東小天守(イの渡櫓)
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姫山公園の桜並木と大天守
午前9時 喜斎門跡から入城する
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太鼓楼と腹切丸
二の丸 石垣と土塀
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菱の門 東の石垣と土塀
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本丸の 乾小天守・西小天守・大天守
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菱の門(入場口)昨日曜は長蛇の列だったらしい
城内は 桜・さくら・サクラ
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百間廊下から見る大天守
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西の丸 桜
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ヲの櫓窓
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西の丸庭園 桜
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ルの櫓から 西の丸長局・化粧櫓・天守閣(乾小天守・西小天守・大天守)
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順路指定で戻れないから 再度「西の丸」の桜を満喫
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枝垂れ桜がとても綺麗
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はの門土塀 銃眼が額縁
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にの門
大天守西側
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大天守 東の大柱
秀吉の桐紋と池田輝政の揚羽紋(後に備前蝶紋)
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大天守から三の丸広場と姫路市街
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西の丸
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二の丸銃眼から三の丸広場
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午前11時15分 花見の宴はこれからが本番
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お昼は花見弁当を買って お城を見ながら食べる
次は 車はそのままに電車で明石公園へ
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