2017.11.10  大分県竹田市 紅葉の岡城址と沈堕の滝

前日にマゼノ渓谷の紅葉を訪ね その夜は道の駅阿蘇で車中泊 翌朝竹田市へと向かう
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扇森稲荷神社
通称「こうとうさま」(狐頭様)と呼ばれる その由来は 岡藩藩士が白狐の頭を埋めて以来「狐頭原」と
呼ばれる現在地に 元和2年(1616)岡藩第二代藩主・中川久盛が稲荷神を勧請して創祀された
また 社伝による由緒では 江戸天保時代に江戸屋敷にいた岡藩第12代藩主・中川久昭の枕辺に立った
稲荷狐頭源大夫と名乗る神霊が現れ「翌日の登城に危険が及ぶ気をつけよ」との神託を授かった
実際に翌日の登城中暴漢に襲われたが この神託のおかげで難を逃れ事なきを得た
久昭は 稲荷神に感謝し社殿を寄進したうえ「扇の森」との社号を贈り 扇森稲荷神社と称するようになったが
藩主久昭公や家臣は 以後も「狐頭様」と呼んで信仰したことから 今でも「こうとうさま」と呼ばれている
佐賀県の祐徳稲荷神社・熊本県の高橋稲荷神社と並ぶ九州三大稲荷のひとつで
保食大神(うけもちのおおかみ)・猿田彦神・大宮女命(おおみやのめのみこと)の三柱を主祭神とする
江戸時代の社殿は 明治16年(1883)の火災により焼失した
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旧参道の列鳥居
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山上の鳥居と拝殿
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拝殿
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拝殿と神殿の屋根葺きは地味だが 神楽殿の瓦はすごいぞ
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細工の細かい飛竜の軒先瓦
国指定史跡 岡城跡
<本丸跡 掲示板>
岡城は、文治元年(1185)大野郡緒方荘の武将緒方三郎惟栄(これよし)が、源頼朝と仲違いをしていた
弟義経を迎えるため築城したと伝えられるが、惟栄は大物浦(兵庫県)を出航しようとして捕らえられ、
翌年上野国(群馬県)沼田荘に流された。建武のころ豊後国守護大友氏の分家で大野荘志賀村南方に住む
志賀貞朝は、後醍醐天皇の命令をうけ、岡城を修理して北朝と戦ったとされるが、志賀氏の直入郡への進出は、
南北朝なかばの応安二年(1369)から後で、その城は騎牟礼(きむれ)の城であった。
のちに志賀氏の居城は岡城に移った。天正十四年(1586)から翌年の豊薩戦争では島津の大軍が岡城をおそい、
わずか十八歳の志賀親次(ちかよし=親善)は城を守り、よく戦って豊臣秀吉から感状を与えられた。
しかし、文禄ニ年(1593)豊後大友義統(よしむね)が領地を没収されると、同時に志賀親次も
城を去ることになった。文禄三年(1594)ニ月、播磨国三木城(兵庫県)から中川秀成(ひでしげ)が
総勢四千人余で入部。築城にあたり志賀氏の館を仮の住居とし、急き近世城郭の形をととのえ、
本丸は、慶長元年(1597)に完成、寛文三年(1662)には西の丸御殿がつくられ、城の中心部分とされていった。
明治ニ年(1869)版籍奉還後の明治四年(1871)には、十四代・277年間続いた中川氏が廃藩置県によって
東京に移住し、城の建物は明治七年(1874)大分県による入札・払い下げですべてが取りこわされた。
瀧廉太郎は、少年時代を竹田で過ごし、荒れ果てた岡城に登って遊んだ印象が深かったとされ、
明治三十四年(1901)に中学校唱歌「荒城の月」を作曲、発表している。
(註釈は省略)
平成十年三月 竹田市教育委員会
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現在の岡城跡マップ
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本丸跡掲示板城絵図 「豊後國岡城之圖 従四位 中川久昭」 (1611X580ピクセル)
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正保城絵図(1644−1648) 豊後国直入郡岡城絵図
国立公文書デジタルアーカイブ/重要文化財国絵図等/正保城絵図/九州(絵図のダウンロードは可能)
まだ西の丸は描かれてはいない
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岡城は 約30万年から9万年前まで4回起きた阿蘇の大噴火による火砕流が堆積した天神山上に築かれている
この台地は 標高325m・比高が95mあり 城域は東西2.5km 南北362m 総面積は23万4千平方mに及ぶ
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石垣を模したペンション荒城の月
歴宝館・宝物殿など 怪しげな雰囲気が漂う
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鉄砲方詰所跡
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正面登城口
大手門石垣
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大手門跡
大手門は、城の正面に位置する門で、本来は追手門(おうてもん)といいます。追手とは、敵を追いつめる
方向にあるという意味で、籠城のとき敵を正面に追いつめて戦闘を集中させる目的があります。
大手門には侍番(さむらいばん)が置かれ、城中への出入りにはかなりの注意が払われていました。
現在、櫓台である石垣と礎石・車敷が残っています。
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岡城では、文禄三年(1594)中川氏入部後、大手・近戸・下原の三口が切り開かれ、かつての大手門は
ここよりも東側に設けられていましたが、慶長十七年(1612)に岡城へ立ち寄った築城の名人である
伊勢津藩主藤堂高虎の意見によって、今のように西向きに替えたと伝えられています。
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慶長17年(1612)藤堂高虎の助言により建て替える前の大手門跡
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案内板の俯瞰図
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桜馬場跡 左は中川但見屋敷跡勝手口
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中川但見屋敷跡
中川但見屋敷跡は、西の丸周辺に存在する三つの家老屋敷のーつです。
この屋敷跡は、大手門から本丸へ向かう桜馬場跡の左側に位置します。桜馬場跡沿いに正面入り口があり、
その入り口は石段を伴う門となっていました。また屋敷跡は、中川秀成が入部した際に、岡城築城着手から
本丸完成までの間、仮屋敷として過ごしたところです。中川但見は元亀年間より太祖中川清秀の老職として
仕えた戸伏氏の家系で、2代藩主久盛の代に中川姓を名乗り歴代藩主の老職として仕えています。
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中川但見屋敷跡から見る西の丸
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桜馬場跡 右は中川但見屋敷跡石垣
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干し柿と甘酒を売る茶店
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西中仕切り跡と荒城の月 桜馬場から矩手に曲がる防御施設
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太鼓櫓門跡 門内に城の中枢である三の丸・二の丸・本丸がある
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三の丸石垣
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太鼓櫓跡から三の丸跡
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三の丸から清水谷を隔て 家老・中川民部屋敷跡と家老・中川覚左衛門屋敷跡の石垣
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三の丸から見る九重連山 中央部高く見える山は三代目藩主・中川久清が愛した標高1786.2mの大船山
元来足が不自由で 家来に「人馬鞍」という特製の背負子(しょいご)を背負わせ座った状態のまま
担がれ何度も登ったと伝わる 墓所は大船山中腹1300mを超える台地上にあり 入山公墓と呼ばれている
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二の丸から本丸への石段
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二の丸
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瀧 廉太郎(たき れんたろう)像
明治12年(1879)8月24日瀧家の長男として東京に生まれる 瀧家は江戸時代の豊後日出藩の家老職を
代々務めた武士の家柄であった 父・吉弘は大蔵省から内務省に転じ内務官僚として勤めた後 地方官として
神奈川や富山そして大分県竹田市などに赴任したため 廉太郎も生後間もなくから各地を回ることとなった
神奈川県立師範学校附属小学校に入学後 富山県尋常師範学校附属小学校・東京麹町尋常小学校に転校し
同校を卒業した後15歳で東京音楽学校に入学 明治31年(1898)に本科を卒業し研究科へと進んだ
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幕末期に導入された洋楽は明治以降学業の必須科目となり 明治時代前半に多くの翻訳唱歌ができたが
旋律に日本語訳の歌詞を無理にはめこんだため"ぎこちない歌"が多かった そのため 教育現場では
日本人の作詞作曲による唱歌が熱望されていた時代に 廉太郎は作曲家としてデビューしたことになる
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「箱根八里」と並んで文部省編纂の「中学唱歌」に掲載された彼の代表作である「荒城の月」は
東京音楽学校が土井晩翠に懸賞応募用テキストとして依頼したもので 仙台の青葉城址・会津若松の鶴ヶ城址
及び岩手県二戸市の九戸城址などを想い作詞されたと伝わる 瀧廉太郎が作曲するにあたり
曲を構想したとされるのが豊後竹田岡城址・富山市富山城とされ 以上の城址それぞれに歌碑が存在している
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明治34年(1901)日本人の音楽家では2人目となるヨーロッパ留学生としてドイツへ出国しベルリンを経て
ライプツィヒ音楽院に文部省外国留学生として入学したが 五ヶ月後肺結核を患い現地の病院に入院するが
病状の改善なく 明治35年(1902)7月わずか一年程でドイツを発ちロンドンを経由して10月に帰国した
帰国後は父の故郷である大分県で療養していたが 明治36年(1903)6月29日に大分市の自宅で死去した
僅か24歳の若さではあったが 数年間の作曲生活で多くの作品を残したとされる しかし結核の伝染に怯え
死後多数の作品が焼却されたため 現在判明している作品は34曲と少ない
「荒城の月」が ベルギーで讃美歌になったことも判明し 多くの作品は今も歌い継がれている
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再現された二の丸風呂屋
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再現された風呂屋は トイレと休憩室で階段を上がると本丸広場に出る
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ニの丸の風呂屋跡(江戸時代)
二の丸には、中央に多くの部屋を連ねる主殿と、北側先端の茶室と望楼を備えた数寄屋造りの月見櫓、
東側端には風呂屋があり、それらの建物が連結して配置されていました。その風呂屋は2階建ての建物で、
2階部分と本丸が階段で結ばれ、本丸の長局の建物の先端に位置する13畳間から風呂屋の2階へ通じていました。
風呂屋の2階は11畳の広間を連ねた床と書院を有する休息的空間で構成され、東側の谷部分に、
懸け造りによる縁が取り付けられていました。1階部分の風呂(蒸し風呂)は焚口側の土間と浴室を備えた
板間に加えて、床や書院をもつ13畳の広間が設けられていました。1階部分の束側にも、懸け造りによる縁が
付けられていました。このように、2階建てで、本丸と二の丸といった高低差のある曲輪を結ぶ構造は、
城内設置の風呂屋としても珍しいものです。建築面積は3.5間×6間(81.5平方m)の総2階建てであった。
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岡城天満神社
この神社は1593年(文禄2年)中川秀成(ひでしげ)が岡城に入城した時に、城内東側にあった
天神祠(ほこら)を移転建立したもので、中川歴代藩主が守り神として崇拝してきた神社で、
祭神は学問、農業、財産を守る菅原道真公です。1871年(明治4年)廃藩に伴い村社となり、大字竹田の人々が
氏神を祀る氏子となり、本丸・二の丸・三の丸は神社の境内となりました。
最後の城主中川久成が上京後の城址は荒れ果て、樹木雑草が生い茂り石垣は壊れ、つたかずらが繁茂し、
狐(きつね)、狸(たぬき)、猪(いのしし)などが出没する、まさに荒城となり、この神社も荒れ果てたので
1910年(明治43年)竹田の城下町に遷座されました。その間、岡城を訪れる人は狩人か学生位で、
「荒城の月」作曲者、瀧廉太郎もその散策を試みた一人と思います。
「荒城の月」の名曲が世間に知られるようになると、町民は荒廃を嘆き1932年(昭和7年)公園として
桜や紅葉を植栽し美化保存に努めました。1936(昭和11年)岡城が国指定史跡となった事等で登城者も
増加してきたので1955年(昭和30年)神社は元の本丸跡に遷座されました。
現在の拝殿及び神殿は、2016年(平成28年)3月に竣工されたものです。
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本丸跡
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眼下に国道502号線を見る
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東中仕切跡登城バスのりば ここまでタクシー・一般車侵入可能だが道案内の標識はない
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三楽亭跡と御廟所跡
かっては家老・中川平右衛門屋敷の広大な土地であった 城門や石垣櫓台なども山林の中に残されている
平右衛門が城下に下りてからは 初代藩主秀成の父・中川清秀を祀った荘嶽社 中川神社前身の廟所があった
三楽亭は藩主の学問所及び趣味を行う館であった 南北朝時代の志賀氏の館はこの一帯と考えられている
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御廟所跡
標高313.4mの三角点
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下原御門跡
中川氏が入城した文禄3年までは 東の十川(そうかわ)が城下町で ここ下原御門が大手門であった
その後加藤清正の指示により大手門を西側の古大手門の位置に移したと言われている
門を入ると通路は主郭部へと通じているため 重要な搦手門(城の裏門)であった 門外に空堀をしつらえ
連続する外枡形虎口を持ち 石垣を張り出して通路を狭めることで
攻め手をこの門の正面へと誘導し待ち構え 左右の櫓から矢掛を行う防御方法であった
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門上櫓跡角
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下原御門から引き返す
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東中仕切上櫓跡
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桜馬場跡
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西の丸
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西の丸御殿跡
家老・中川民部屋敷跡
西の丸周辺は、中川秀成の入部時の整備により、武家屋敷等の配置がなされ、守りを固めるために6つの櫓場が
設置されました。中川民部屋敷も、当切は西の丸周辺を守るための櫓場のひとつとされています。
その後、西の丸御殿が普請され、西の丸周辺には3つの家老屋敷が配置されました。
3つの家老屋敷は、中川覚左衛門屋敷、中川但見屋敷と、この中川民部屋敷です。
中川民部は、3代藩主中川久清の遺言により、老職となった久清の五男の中川久旨を祖とする家系です。
中川民部屋敷は、概ね3,250平方mで、北西に門を配し、主殿の玄関を構えています。屋敷跡は発掘調査の
成果をもとに、礎石による建物表示がなされ、主殿では表書院、奥書院、台所、離座敷などが想定されています。
また、茶室や土蔵なども知られています。屋敷地の北東には藩主専用の御成口とされる通路が設けられています。
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中央部に荻岳・下荻岳・阿蘇山 右は南北朝時代に志賀貞朝の居城であった標高380.5mの騎牟礼城跡
家老・中川覚左衛門屋敷跡
岡藩家老中川覚左衛門家は、茶道織部流の祖、古田織部正重勝の子孫です。
覚左衛門家は、藩主中川家に代々仕え、中川の姓を賜り、延享2年(1745)にこの屋敷地に移りました。
古田家の記録には、「ここは、字を奥近戸と言い、東南が開けて前に深い谷がある。竹林が繁り、
西北には松の木があり、東西北には岩がそびえて、ここは険しい城のなかでも特に険しい所である。
敷地は広くニ千三百石取りの家老屋敷にふさわしい所である」といっています。
また、歴代の藩主は、城内外に屋敷を持つ家老・城代宅などへ立寄することが慣例で、覚左衛門屋敷には
文化8年(1811)、安政4年(1857)・同5年の三度の訪問が確認されています。
覚左衛門屋敷跡は、平成5年(1993)〜7年まで発掘調査を実施し、玄関部に向かう飛石列、屋敷の範囲を表す
礎石、束石、狭間石等が確認されました。さらに、敷地内の様子や屋敷の間取りが詳細に記された
絵図があります。整備は、その図と検出された遺構を基に、間取り等の復元を行いました。
復元は、畳の面まで床立ちさせ、柱、床束の足元、土台は光付け加工、その他の継手、仕口、仕上げ等は
古来の技法によって加工しています。また、使用した材料の木材は、耐久性・寸法安定性の高い
保存処理をしています。畳は、板を張り合わせて畳大に成形し、板畳の縁を黒色塗料で表現しました。
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中川覚左衛門屋敷跡から見る三の丸・二の丸・本丸
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中川覚左衛門屋敷跡下の紅葉
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中川覚左衛門屋敷北端部石垣
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西の丸防御の櫓場跡
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近戸門跡
中川秀成による岡城の築城(増築)は西側の曲輪として、侍屋敷が整備されました。この整備にあたり、
西側の城郭の縁辺には守りを固めるために6ヶ所の櫓を配置し、近戸門を設置しています。
近戸門に至る近戸口の通路沿いには、近戸口を守護するための武家屋敷等が配置されました。
近戸門は、史料によると、文禄3年(1594)「下原口を搦手とし近戸口を切り開き三口とす。」とあるように、
岡城の主要口のーつで、普請を始めて慶長元年(1596)「岡城普請成就」の時点では完成していたと思われます。
宝永3年(1706)大手門を建直し、その古御門は近戸門に移されています。同年、五代藩主久通は
生母長寿院が死亡したので、江戸から帰城の折には忌中につき、近戸門から入城しています。
近戸門は、明和2年(1765)に普請方からの出火で焼失し、翌年修補の願いを幕府にしています。
昭和60年度の発掘調査により近戸門跡からは、門の礎石・車敷、また、門内側には番所が設けられていたことも
確認されました。調査中に「是より内、たいまつともす事、くわえきせる、堅停止」の文字が刻まれた
石柱が出土しました。この石柱は城下の各要所に建てられていたようで、今も十川橋の対岸に残っています。
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近戸門外の七曲り急坂
実際の曲りも七ヶ所ある
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岩の入り角も削り出し
水落の溝も削り出し
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愛宕山の線彫磨崖佛  市指定遺跡(昭和54年4月1日)
昭和51年3月11日朝日新聞タ刊で、愛宕山山頂付近で大型の線彫磨崖佛を発見したことが報じられました。
磨崖佛の高さは、およそ5mあり大型のもので、線彫の柔らかい豊艶な観音菩薩が描かれています。
こけがはえており、木立に光りがさえぎられるので、明瞭にみることができるのは、朝日のさす頃に限られます。
この地は、岡藩第二代藩主中川久盛が、元和4年(1618)に祈願所として「願成院」を建立したところに
隣接しています。現在は、この願成院は市街地に移され跡が残るのみですが、この寺院との関係は不明です。
県下で数少ない線彫磨崖悌のーつです。
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西北に面する近戸口のモミジはまだまだ蒼い
大分県豊後大野市大野町矢田 沈堕の滝(ちんだのたき)
大野川の中流にある雄滝と、その支流の平井川の合流口にある雌滝とからなる。
雄滝は高さ約20m、幅約100mで、雌滝は高さ約18m、幅4mである。
柱状節理が並ぶ景観は、「豊後のナイアガラ」、「大野のナイアガラ」とも呼ばれる
(同じく緒方町にある原尻の滝は 幅120m 落差20mあり一つ上の「東洋のナイアガラ」と呼ばれる)
古くから知られた名瀑で 室町時代の文明8年(1476)には 雪舟が訪れ「鎮田瀑図」を描いている
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しかし「鎮田瀑図」の原画は関東大震災で焼失し 狩野常信により江戸時代に模写された絵が現存する
明治42年(1909)に豊後電気鉄道株式会社によって別大電車のために沈堕発電所が建設され
雄滝のすぐ上流に取水用の堰が設けられた 大正12年(1923)に堰がかさ上げされ 岩壁の崩落を防ぐため
滝の落水を止めたために 往時の景観が損なわれてしまった その後平成8年(1996)から堰堤工事をおこない
流量の確保がはかられた また雪舟の「鎮田瀑図」を参考に「垂直分かれて十三条をなす」よう修景を施し
かつての壮大な景観を取り戻している 平成19年(2007)7月26日に国の登録記念物として登録された
雄滝と雌滝の間にある石造の沈堕発電所は近代化遺産に登録された
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上流側が雄滝 右が雌滝
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導水路跡と発電所跡
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明治四十一年一月二日起工
 明治四十二年四月十六日竣工
豊後電氣鐵道株式會社
工事請負 東京電業社
社主 中島平太郎
明治四十二年 酉四月成工

奥豊後グリーンロード
豊後大野市の国道57号線犬飼IC付近から竹田市九重野の 県道8号線までのおよそ50kmの広域農道で
白鹿地区農免農道・ 大野川中流地区広域農道・大野川上流南部地区広域農道の統合名である
今回は 国道502号線緒方町井上の交差点から県道8号線までを走った
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荒平池
約20年ぶりの訪問 管理棟も解体され橋は崩壊して通行不能 樹木の手入れも無いようで
荒れ果てている 一応「観光スポット」ではあったのだが バス釣りの人が一人だけ 他には人影なし
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祖母山 竹田市大字神原横平
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神原渓谷大橋
神原(こうばる)渓谷の上にかかるロアリング工法で作られた日本最大級の橋
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紅葉が綺麗だと聞いたので期待をしてやってきたが 杉が目立ち広葉樹は数えるほどしか見当たらない
典型的な植林大国・九州大分県の風景である
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竹田市荻町
熊本県産山村
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阿蘇根子岳
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産山村農道
瀬の本高原
熊本県南小国町大字万願寺 瀬の本大橋からのパノラマ
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橋上から覗く 小田川の紅葉
瀬の本・金剛宝寺の紅葉
真言宗 金剛宝寺は 大分県側にあり平成7年(1995)開創の新しい寺で「日本一の縁結びの寺」を標榜する
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標高1423.1mの猟師山
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近年まれに見るクヌギの紅葉の美しさ
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南小国町 満願寺川にかかる無銘の滝
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