2012.11.20 大分県 紅葉の国東・六郷満山

国東半島は桜島と同じく 半島中央にそびえる海抜721mの両子山をはじめとする火山群によって生成された
半島である 両子山(ふたごさん)から放射状に伸びる約28筋の谷に沿って里が開け 東回りに
田染(たしぶ・豊後高田市)・来縄(くなわ・豊後高田市)・伊美(いみ・国見町)・国東(くにさき・国東町)
・武蔵(むさし・武蔵町)・安岐(あき・安岐町)の6つの郷にまとめ 総じて六郷と呼ばれている
学説では 山岳信仰の霊場が 奈良時代末期から平安時代にかけ寺院の形態を取るようになり
宇佐神宮及びその神宮寺である弥勒寺を中心とする八幡信仰と さらには天台修験道と融合し
神仏習合の独特な山岳仏教文化が形成された 現在においても33ヶ寺と番外に宇佐神宮を加えた
「国東六郷満山霊場」(国東半島三十三箇所)が構成されている また国東半島の寺院群は
学問をするための本山(もとやま)修行をするための中山(なかやま)布教をするための末山(すえやま)の
三群に分けられ これらを合わせて満山と呼ばれ最盛時には65寺あった
これら国東半島の寺院を総称して六郷満山(ろくごうまんざん)と呼ぶ

天台宗別格本山 足曳山 両子寺
奥の院本殿に祀る 宇佐八幡神の神子である 両子大権現(男女双子の二天童子)を宇佐宮から勧請
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石造の仁王像
江戸時代後期に建立された仁王像である 石造仁王は全国に分布しているが その数は大分県が圧倒的に多く
中でも国東半島には 130を越える仁王像が確認されている
寺域や仏像・神社の守護を目的として造られた仁王は鎌倉時代から造られ始め 安土桃山時代に最盛期を迎える
しかし 江戸時代の後半になると仁王は村全体や個人の信仰対象として造立・奉納されることが多くなった
両子寺の仁王は大型で容相もいかめしく 天衣や裳の表現にもすぐれている
阿形像左手に特つ金剛杵(しょ)は肩上に構え 右手は腰の位置で拳にする
吽形像の右手は肩下に掌を前に開き 左手は同じく腰の位置で拳にする 両像とも腹をやや突出し
胸骨や筋肉の表現には力強さが感じられ 国東半島を代表する仁王像である
作銘はなく 寺伝によれば文化11年(1814)の作といわれ 総高は阿形吽形ともに245cm
像高は230cmあり 石材は角閃安山岩である
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本尊を祀る奥の院
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青空と紅葉に染まる小川の水面
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両子山頂
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二天童子・両子道祖神
旧千燈寺跡
「補陀落山 千燈寺」は 六郷満山の諸寺を創建した仁聞(仁聞菩薩)の入寂の地であるとも伝えられている
かつては六郷満山の中山本寺で 16の末寺を有し六郷満山の中核を成す寺院として栄え「西の高野山」とも
称されたが 天正年間に大友宗麟による焼き討ちに遭い大規模な伽藍は焼失した 秀吉の時代文禄年間に再建
されたが往時の繁栄を取り戻すことはなかった 千燈寺という寺号は 仁聞がこの寺の近くにある
五辻岩屋で修行をしていると 東北海の龍王がその徳に感じて千の燈を献じたことから名付けられたとされる
現在の千燈寺は 旧千燈寺の坊が昭和初期に山麓に移転したものである
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旧千燈寺の山門 慶応元乙丑十二月吉日(1866年1月〜2月)
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護摩堂跡の仁王像
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枕の岩屋(奥)と奥の院(手前) 枕の岩屋は仁聞が入寂したといわれる岩窟
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天台宗 峨眉山 文殊仙寺
両子山の北3.5kmに位置する文殊山(617m)の中腹にある古刹 山号の峨眉山は 寺が所在する文殊山の別名
日本三文殊のひとつに数えられ 周辺の奇岩と紅葉は 別名「文殊耶馬」と呼ばれている
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天台宗 石立山 岩戸寺
寺の入口に立つ一対の仁王像のうち 右側の阿形像には文明10年(1478年)の銘があり 在銘の丸彫り
仁王像としては日本最古のものである 本尊は平安後期作のカヤの一木造りの薬師如来像である
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国宝 岩戸寺国東塔
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