2013.09.06  茸・なば

中国・四国地方から九州にかけ 方言で「キノコ」のことを「ナバ」と呼ぶ 語源は芽生えを表す
「なばえ」ではないかと言われている 大分県中津市山国町守実に茸木(なばき)という小字がある
なば木とは椎茸の原木のことである また椎茸栽培を専業とする人たちを「なば師」という

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シイタケ・椎茸
名の通り「椎の木=ドングリの木」に寄生する茸で 椎はブナ科クリ亜科シイ属の樹木の総称である
椎茸栽培の原木に使われるクヌギもドングリと呼ばれるが 常緑の椎とは違い落葉樹である
クヌギは成長が早く 植林後10年程度で木材として利用できる また伐採後も萌芽更新し
10年ほどで樹勢を回復するため 持続的に利用され里山を形成する重要な樹木のひとつである
材質は硬く 建築材や器具材料・木造運搬車両や船舶に使われるほか薪炭にも適し
落葉は腐葉土となって作物の肥料に利用される

意外にも椎茸にも花言葉がある それは「疑い」


奈良時代より天然の椎茸は 高温多湿の気候で森林資源が多い日本から中国へ輸出される特産品であった
現在でも英語・フランス語・オランダ語では 日本語の「シイタケ」で表音され呼ばれている
特に乾燥椎茸はグルタミン酸やグアニル酸が多く含まれ 仏門における精進料理には
動物性のアミノ酸に代わる「ダシ」として欠かせないものである
また日光に当て干すことによって ビタミンDの含有量も増えることから
漢方薬では香蕈(こうしん)という生薬となり 中国や日本では貴重な高級品として扱われてきた
しかし古代の中国においても採取されていた椎茸が なぜ日本からの輸入に頼ることになったのか
それは大陸の樹木が採り尽くされ 再生しなかったことが大きな要因である

樹木を採り尽くした者たちは 製鉄に従事する「製鉄集団・たたら衆」である
日本の新石器時代(縄文期)である紀元前1100年頃には 中国大陸で鉄の出現を見る
東アジアの製鉄は 古代から近世まで花崗岩に含まれる砂鉄を原料とし 木炭で精錬する方法がとられた
江戸時代のたたら製鉄においても 鉄1200貫を得るのに木炭4000貫を使い膨大な森林を消費した
低温乾燥気候の大陸や朝鮮半島では森林の再生が遅く 多くの照葉樹林が製鉄により失われてしまった
やがて5世紀後半の古墳時代から「たたら衆」は照葉樹林を求めて日本へと移り
山陰安来地方において製鉄を始めるに至った

話はかわり 鎌倉時代 やがては曹洞宗の開祖となる道元は
修業のため23歳で九州博多から中国の宋へと旅立った 貞応2年(1223)宋に入国し
浙江省・寧波(ニンポー)の港で 訪れてきた一人の老僧と出会った 老僧は阿育山で
典坐(禅寺で修行する僧たちの炊事係)を勤めていて
「日本からの船が着いたと聞き干し椎茸を求めに来た」と言った
道元は「あなたのような老僧が炊事などしなくても良いのでは」と言葉を返したが
老僧は「あなたは修行のことを何も解っていない」と道元をたしなめた
この老典坐との対話と導きによって 道元は宗教生活の一大転機を迎えることになったと伝わる

禅により悟りを開くとされる曹洞宗では 作務といって坐禅以上に日常の作業を大切にする
この生活即仏法主義はこの老僧から教わったと 道元は「典坐教訓」に著わしている
この話は 日本の椎茸が取り持つ「縁」として今も語り継がれている


椎茸の人口栽培は 豊後国佐伯藩の源兵衛(津久見市)が始めたと伝わる 約380年前の寛文の頃
家業の炭焼で 原木の残り木に椎茸が生えているのを発見し 苦心して鉈目式椎茸栽培法を生みだした
以来津久見地域を中心とした多くの人々が 椎茸栽培に携わることになった
また県内外の クヌギがありなお且つ栽培に適した地方へ出かけて椎茸栽培をした
彼等は「豊後なば師」と呼ばれ 各地方において椎茸栽培の先達として活躍したと伝わる
椎茸の人工栽培は その後も試行錯誤を加え 漸く20世紀に確立され 第二次大戦後大いに普及した

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クヌギによる原木なめこ

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<上2枚>オオシロカラカサタケ(大白唐傘茸)
芝生によく生えてくるキノコ 丸い笠が数日で開く

<左>シロオニタケ(白鬼茸)
角がいっぱい生えてるので鬼茸 これも笠が開く

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