2010.01.14 大阪府高石市高砂 高砂公園内 伽羅橋

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伽羅橋の由来
この石橋は大阪湾に沿って和泉の国を南北に通っていた 紀州街道の芦田川(現在の高石市羽衣4丁目628番地先)に
架けられていた石橋で花崗岩を主に 一部に木村を使用している石橋である 昔 紀州街道は住吉街道と呼ばれ
江戸時代には紀州街道の名で親しまれ 江戸時代から明治初年まで 和泉の交通及び商業の中心的役割を果たした
伽羅橋と言う名称の由来については 和泉の名称 社寺及び伝説をまとめた「泉州志」と言う書物に
「昔 この橋板は沈香なり ある人これを売って千貫の銭を得た ゆえに千貫橋と言う 」と
こんな伝説が記載されており この橋板に使われていた沈香は 熱帯地方に産出する貴重な香木であり
伽羅とも呼ばれたことに由来し 江戸時代には伽羅橋または千貫橋とも呼ばれ人々に親しまれていた
この石橋は 幕末の混乱期に従来木橋であった伽羅橋を石橋に架け替えるために 今在家村(現在の羽衣)の
吉次郎氏が発起人となって築造費を集め 百両余りの費用を費やして慶応元年(1865)10月に
完成させたもので 激動する幕末に地域の交通整備に努力した人々の存在を示す貴重な文化財である
昭和63年芦田川改修工事に伴い 当公園内に移転保存し 後世に伝えることになった
昭和63年3月31日   石橋の概要 橋長:11.1m  幅員:4.5m
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伽羅橋 慶応元年丑十一月吉日 芦田川 今在家村
残された親柱では欄干の形状が違っている
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「高石街道標柱」
前面:高石街道従是 東取石村 西高石村 所属
側面:明治四十年七月立之 元の位置は不明
「右えばら道標柱」江戸時代のもの
紀州街道の干代田1丁目2番地付近に立てられていた
はじめに梵字が刻まれ堺家原寺方面に行く道を示す
「小高石橋標柱」と「こたか石はし標柱」
紀州街道の王子川(千代田6丁目)に江戸時代末の
慶応年間(1865〜67)に架けられた
小高石橋のもので 漢字と平仮名で刻まれている
1962年の王子川改修によりRC製の橋に架け替え
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