2009.11.12  福岡県筑紫野市山家(ヤマエ)  山家宿街道橋

<地図>
江戸時代、筑前国には長崎から江戸へと至る長崎街道が通っていた。街道沿いに設けられた
黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田の宿場は、筑前六宿と呼ばれ、幕府の役人の毎年の交代や
大名の参勤交代にも利用された。 筑紫野市山家に遺構を残す山家宿は、筑前六駅のひとつで、
長崎街道・日田街道・薩摩街道が交差する交通の要衝であった。
ここには、「構口」という宿場の出入口をしめす石垣と土塀が残されている。
長崎街道の宿場で、完全な形で構口が残っている場所は少なく、
北九州市木屋瀬に石垣の一部が残るのみである。
当時の宿場は、御茶屋(藩主の別邸)・代官屋敷・下代(げだい)の家・郡屋・一般の宿屋があり、
往時は賑わいを見せたであろう。 下代とは、代官のもとで諸事務にあたった宿場役人のことで、
大名や幕府役人が宿場を利用する時、宿内の監督取締を行うことや予備の人馬の指図監督にあたること、
長崎奉行や日田郡代が宿泊の時に進物の運搬の指揮監督にあたること、
さらに長崎町年寄や漂着した異国人の付添役人には、代官の代理として挨拶に出ることなどの役目があった。
また郡屋とは、郡内の村役人の集会所で、筑前六宿他主要な宿場に置かれていた。
当時の郡屋の建物(土蔵)が現存するのは山家だけで、筑紫野市指定文化財に指定されている。

以上 福岡県教育センターホームページ  福岡ふるさとの歴史再発見より転載
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偶然災害地を見て興味を抱き 下を覗くと石橋であった 旧長崎街道宿場西構口手前に架かる街道石橋
梅雨末期に訪れた集中豪雨で川の護岸を覆う石垣が崩れ 街道も路肩が崩壊している 石橋には影響は無かったが
下流の小橋が一部崩壊し せき止められた水が2枚の畑にあふれたらしい 幸いにも家屋や人的被害はなかったが
江戸期を合わせ今までになかったことで恐怖を感じたという
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下流側から見る
傍らの石垣が崩れた今回の災害で
もこの橋はビクともしなかった
桁石も並はずれて大きい
手前右側の石は流されてきた石
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上流側から見る
写真では見えないが 右側の石垣
が崩れている
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5本の桁石は大きい物で2尺角ほどある
潜って撮影
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