水間鉄道株式会社 水間線

起点:南海本線貝塚駅 終点駅:水間線水間観音駅 総延長距離:5.5km 駅数:11(起終点駅含む)
駅名:貝塚−海塚−貝塚市役所前−近義の里−石才−清児−名越−森−三ツ松−三ヶ山口−水間観音

歴史
水間寺(通称・水間観音)の参詣鉄道として大正時代に建設された 一時期は約20億円の利益を上げたが
少子化などによる通学客をはじめとする利用者の減少と不動産事業の不振
さらにバブル期での多額の借り入れが経営を圧迫し
負債額が約140億円に達し自力の再建を断念 平成17年(2005)に大阪地裁へ会社更生法の適用を申請した
平成18年(2006)より新生会社として再出発した 現在は沿線開発も進み通勤通学路線となっている
終点の水間観音駅舎は 大正15年(1926)の創建以来の建築で
平成10年(1998)に国の登録有形文化財に登録されている

幻の敷設計画
嘗て清児(せちご)駅から分岐し 泉佐野市南部の犬鳴山の県境を越えて粉河町まで延長する計画があった
昭和25年(1950)清児−粉河間の鉄道敷設免許を取得 昭和28年(1953)別会社・紀泉鉄道を設立したが
着工するも資金不足に陥り工事は中断された 昭和38年(1963)紀泉鉄道を吸収合併したが
その後 開通見込みが皆無との理由で 山越えとなる犬鳴−粉河間の免許を昭和42年(1967)に返上し
残る清児−犬鳴間も幾度か再起を試みたが 資金難により平成8年(1996)に起業廃止届を申請・認可され
地方の弱小私鉄による壮大な鉄道計画は 幻のまま立ち消えとなった

天台宗別格本山 龍谷寺 水間寺
本尊は聖観世音菩薩を指して 通称「水間観音」と呼ばれる新西国三十三箇所第4番札所の寺院
寺伝によれば 天平年間(729−749)に聖武天皇の勅願により行基が開山したとされる
後の中世に至るまで朝廷や武家による手厚い保護を受けていたが 羽柴秀吉による紀州征伐の折りには
敵対する根来寺に味方したため 天正13年(1585)に秀吉配下の堀秀政に攻められて堂宇を焼失した
これにより一時は衰退したが 江戸時代には岸和田藩主となった岡部氏が寺に帰依し その庇護を受けて
元禄年間に堂宇も再建された しかし天明4年(1784)の火災で再び焼失した
文化8年(1811)に九代藩主長慎により本堂が再建された 文政10年(1827)には他の堂宇も再建された

●年表
大正12年(1923)8月鉄道免許状下付(泉南郡木島村-同郡麻生郷村間)
大正14年(1925)12月貝塚南駅(のちの海塚駅)−名越駅間が開業 貝塚駅−貝塚南駅間に貨物線を開設
大正15年(1926)1月名越駅−水間駅間が開業し全通
昭和09年(1934)1月貝塚駅−貝塚南駅間旅客営業開始
昭和27年(1952)1月貝塚南駅を海塚駅に改称
昭和35年(1960)11月三ヶ山口駅開業
昭和42年(1967)7月貝塚市役所前駅開業
昭和44年(1969)6月近義の里駅開業
昭和47年(1972)5月貨物営業廃止
12月海塚駅廃止

●水間鉄道の古い駅舎