黎明期の鉄道
英国では Railway 米国では Railroad と呼ばれる 鉄軌条の最古の記録は 16世紀半ばに採掘坑道に
鉄製のレールを敷設し運搬車を馬に引かせたのが最初とされるが
原始的な軌条は古代にも出現している 轍の発生を防ぐための敷石による軌条は舗装道路へと発展した
鉄が貴重であった18世紀初頭まで 樫などの硬木によるレールが使われ
次に木レール上部に鉄を貼ることが試された 18世紀前半にコークス高炉が普及して鉄の生産が増大し
鋳鉄製のレールが大量生産されたが磨耗や折損の多発に悩まされた
1789年 土木技師のウィリアム・ジェソップによって車輪側にフランジを取り付け
レールの上面をフラットにする方式が発明されたが レールはまだ欠損の多発する鋳鉄製であった
1830年にスチーブンソンの蒸気機関車・ロケット号を利用したリバプール&マンチェスター鉄道も
鋳鉄製のレールを使用して開業したため 磨耗によるレール交換が頻繁に発生していた
1831年 米国のロバート・スティーブンスが 現在の形状と同じ平底形のレールを発明した
これは 並べた枕木にレールを載せ犬釘<railroad spike>によって簡単に固定することができ
敷設工事や保線工事が捗ることから世界的基準となった
1837年には 英国においてジョセフ・ロックによる双頭レールが発明されたが 普及することはなかった
1856年 ヘンリー・ベッセマーによる転炉法の発明によって鋼鉄の大量生産が始まり
ようやく鋼鉄製レールの大量生産が可能となった
鉄路と鉄車輪による摩擦係数は極めて低く エネルギ-効率に優れており
小動力での多量運搬に秀でていたため その後 鉄道の普及は動力の発展とともに現在まで続いている
一方 動力としての蒸気機関は18世紀の初めまで 様々な方式が開発されたが熱効率が悪く 往復運動を
回転力に変換できる蒸気機関は 1769年に英国のジェームズ・ワットが開発したものが最初であった
その後 高圧ボイラーが開発され機関出力も著しく向上し 石炭とともに産業革命の原動力となった
18世紀末には船舶に搭載され 19世紀に入ると蒸気機関による外輪駆動の外洋船も出現している
江戸末期の嘉永6年(1853)に ペリーが率いるアメリカ東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が来航し
人々を驚かせた 19世紀の半ばには 外輪式はより性能の優れたスクリュー推進に取って代わられた
蒸気機関は陸上交通機関にも応用されるようになり 1804年にリチャード・トレヴィシックによって
世界初の蒸気機関車が発明されたが実用化されなかった
1825年「ストックトン&ダーリントン鉄道」にジョージ・スチーブンソンによる蒸気機関車が走った
1829年には「リバプール&マンチェスター鉄道」の機関車コンテストで
G・スチーブンソンの子・ロバートが設計したロケット号が優勝した
軸配置:0-2-2 軌間:1435mm 機関車重量:4.5t 動輪径:1420mm 従輪径:760mm 軸重:2.3t
シリンダ:2気筒 直径:203mm 行程:432mm ボイラー圧力:340kPa 最高速度:45km/h
ロケット号には革新的な技術が注ぎ込まれ そのシステムは蒸気機関車の基準形となった
翌年には 若干改良されたプロトタイプのロケット号による営業を開始した
スチーブンソン親子による偉業は共同作業によって成し遂げたもので 本来両名ともに鉄道技師であり
蒸気機関車の発明だけではなく 鉄道システムの「生みの親」でもある
日本の鉄道 黎明期
英国で生まれた鉄道は 江戸時代末期にプロモーション的な鉄道模型として日本に持ち込まれた
嘉永6年(1853) ロシアの軍艦4隻が長崎港を訪れ約半年間滞在し 江戸幕府と開国の交渉を行った
滞在期間中に何人かの日本人を艦上に招待し 模型の蒸気車の運転を展示した
招待されたのは幕府の役人と長崎警護に就いていた佐賀藩士ら数名であった
佐賀藩では 2年後の安政2年(1855)に佐賀藩精煉方の田中久重によって蒸気機関車の模型を完成させた
安政元年(1854)ペリーが再訪した折 米国大統領から将軍への献上品として小型の蒸気機関車を持参し
横浜で蒸気車の走行デモンストレーションが行われた 機関車には操縦士が乗り運転したが
連結された客車は小さく小児ならかろうじて乗車できる程度の大きさであった
幕臣の河田八之助は 客車の屋根にまたがれば乗れるのではないかと交渉の上乗車したと言われ
日本国内で初めて蒸気機関車客車に乗った日本人となった 因みに日本人で初めて蒸気列車に乗ったのは
太平洋で漂流し救助されて 図らずも渡米したジョン万次郎こと中浜万次郎である
横浜の走行会では 見物していた江川太郎左衛門が運転を申し出 見事に運転を成功させている
元治2年(1865)には トーマス・グラバーが長崎の町中に軌間762mm・距離600mの仮設レールを敷き
蒸気機関車と客車2両の編成で長崎の人達を乗せて走るデモンストレーションを行った
この機関車と客車は 模型ではなく元々中国の呉淞鉄道のために英国から香港へ送られたものであった
これらのプロモーションやデモンストレーションは 幕府から鉄道敷設の受注を狙ったもので
事実 大政奉還後の慶応3年12月23日(1868・1・17)に幕府老中外国事務総裁小笠原長行の名で
アメリカ領事館のアントン・ポートマン書記官宛に江戸-横浜間の鉄道設営免許が与えられた
この設営免許は 設営後も米国側に経営権が残る「外国管轄方式」といえる内容であり
米国にしてみれば狙い通りであったといえる しかし明治政府は書面にある幕府側の署名日付が
幕府自ら大政奉還を行った明治新政府発足後であるとし 権限無効として免許状の施工を却下した
その後新政府は 明治2年(1869年)11月に自国管轄方式による新橋-横浜間の鉄道建設を決定し
技術や資金援助を米国ではなく英国に求めた 軌間は英国の鉄道技師等の助言によって
欧米で普及していた標準軌ではなく 当時の財政状況・コスト・山地が多い日本の地形などを考慮し
曲線半径が小さく取れる狭軌の 1067mmを採用した 後に大隈重信は狭軌の採用を「一生の不覚」と
後悔しているが 現在では妥当な判断であったと評価されている
明治3年(1870)3月 民部省内に鉄道掛を設置し 英国からエドモンド・モレルが建築師長に着任して
本格的工事が始まり 明治5年9月12日(1872・10・14)に新橋-横浜駅間を開業した
この路線は 後の鉄道建設の演習とも言える規模であり トンネルも無く橋梁は木造の急ごしらえで
文明開化を推し進めようとする新政府の 国民に対するプロパガンダ的要素が強かった
使用された蒸気機関車及び客車ともすべて英国製で 運転士は全て外国人であった
蒸気機関車10両はすべて1Bのタンク機関車で その内訳は1号機(150形)バルカン・ファウンドリー社製
2-5号機(160形)シャープ・スチュアート社製 6-7号機・エイボンサイド・エンジン社製
8-9号機(190形)ダブス社製 10号機(110形)ヨークシャー・エンジン社製となっている
( )内の形式No.は 明治43年(1909)の鉄道院による形式称号規程制定で付与されたもの
6・7号機は 制定前に台湾総督府鉄道部へ譲渡されたため形式No.は付与されていない
全長:7417 mm 全高:3569 mm
1880年:東海道線神戸地区へ転用
1885年:愛知県半田市 中山道幹線の資材運搬
1905年:大阪 入換機 1907年:鉄道作業局
1911年:島原鉄道へ譲渡 1930年:鉄道省へ返還
1936年:静態保存 1958年:鉄道記念物に指定
1997年:国の重要文化財に指定
現在は さいたま市大宮・鉄道博物館に展示
1871年 シャープ・スチュアート社製 4両
全長:7468 mm 全高:3683 mm
1883年 日本鉄道に貸与
1911年 島原鉄道に譲渡
1927年 161号機 温泉鉄道に譲渡 後に廃車
1927年 163号機 東肥鉄道に譲渡 後に廃車
1955年 160・162号機 島原鉄道在籍のまま廃車
1871年 エイボンサイド・エンジン社製 2両
全長:7912 mm 全高:3607 mm
1886年~1887年 東海道線工事用に投入
東海道線の全通後は保線・工事用として京浜間で使用
1900年 除籍され、 台湾総督府鉄道部に譲渡
現在は台湾で静態保存されている
1871年 ダブス社製 2両
機関車側には手動ブレーキが無く そのためか
手動ブレーキを装備した緩急車(バン)を連結した
特異な外観である 輸入した機関車2両に対し
バンは1両であったこともあり なぜこの緩急車が
必要であったかは未だに解明されていない
使用開始後半年で機関車1両で使用できるよう改造
1895から1897年にかけて大改造
台枠や動輪などを流用し ボイラー・側水槽・運転室
煙室・蒸気ドーム・砂箱・ブレーキ装置・弁装置
などを換装・改造または新造した
全長:6807 mm 全高:3658 mm
1911年 愛知県の尾西鉄道に譲渡
1927年 廃車
1871年 ヨークシャー・エンジン社製 1両
全長:7188 mm 全高:3340 mm
1886年 静岡県・清水で東海道幹線の建設に使用
その後 北海道官設鉄道建設に使用
1906年 新橋駅で暖房用に使用
1914年 富山軽便鉄道に貸与
1920年 名古屋鉄道管理局を経て東京に戻る
1924年 廃車後静態保存
現在は横浜市の「CIAL桜木町 ANNEX」内に展示
新橋横浜間・全線29kmのうち約10kmが海上路線で 特に田町-品川間の約2.7kmの高輪(現・港区)には
海軍の用地を避けるため「高輪築堤」と呼ばれる約6.4m幅の堤を築造して線路を敷設した
築堤の石垣を含む土木工事は日本の技術によって構築されたが 多摩川を渡る六郷川橋梁だけは
英国人の指導によって木造橋が架けられた
高輪は江戸の郊外に当たり 赤穂四十七士の菩提寺である泉岳寺にもほど近く 高台から眺める景色は
江戸でも指折りの景勝地であったため 鉄道見物に訪れる人達で賑わったといわれる
開業当時の運賃は 庶民の生活水準からすれば割高ではあったが 翌年の営業状況を見れば
乗客が1日平均4347人に対し 年間収益は21万円の高額となり「鉄道経営は儲かる」と認知されていった
これこそが新政府による「プロパガンダ」そのもので 民間資本による大手私鉄の誕生を誘発し
北海道炭礦鉄道(1889年) 日本鉄道(後の東北本線・創設1881年)
関西鉄道(後の関西本線.大阪環状線など・創設1888年) 山陽鉄道(後の山陽本線・創設1888年)
九州鉄道(後の鹿児島本線.長崎本線.日豊本線・創設1888年)の大手五社が誕生した
その後国営鉄道は 明治7年(1874)には大阪-神戸間が開通 明治9年(1876)には京都-大阪間が開通
明治22年(1889)7月には 東海道本線の新橋-神戸間が全通した