2026.05.10-11 島根県松江市殿町 松江城/出雲市小伊津町 小伊津
2026.05.10 島根県松江市殿町 松江城阯
鎌倉時代前期 地頭の末次氏によって同地の亀田山に城が築かれ末次城(末次の土居)と呼ばれた
室町時代には 守護の山名氏に従い戦功を挙げたが 戦国初期の文明年間(1469-1487)には台頭する尼子氏の
配下となっていた 尼子・毛利氏の激しい合戦のさなか 元亀2年(1571)毛利元就に攻められ末次城が陥落した
城には元就の八男・元康が入城し末次氏を継承して末次元康と名乗った
天正19年(1591)に 豊臣秀吉の命で末次元康が備後国神辺城に移封され 末次城は廃城となった
慶長5年(1600) 関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏が 出雲・隠岐の二国24万石を得て月山富田城に入城し
出雲富田藩が立藩した 慶長9年(1604)27歳で忠氏が死去 嫡男・忠晴が跡継となったが5歳と幼く
後見として祖父の吉晴が事実上の藩主として執政を行った 吉晴は中世山城である月山富田城では
近世城下町の経営が不利であると見て 流通や交通などに便利な宍道湖と中海を結ぶ末次城の跡地に築城を開始
慶長12年(1607)から足かけ5年をかけて築城するとともに 島根郡末次と意宇郡白潟に亘る城下町の建設を行い
地名を新たに松江と定め 隠岐国と出雲国の中心に据え 出雲国を10郡(産地)1町(商業地)の経営とした
慶長16年(1611)1月に松江城が落成 藩庁を松江に移し松江藩となったが 6月に吉晴は死去した
忠晴は無事成人したが男子に恵まれず 寛永10年(1633)に33歳の若さで死去 堀尾家は無嗣改易となった
寛永11年(1634)京極忠高が若狭小浜藩より出雲・隠岐両国26万石で移封され 三の丸を造営した
寛永14年(1637)に忠高が死没 京極宗家も無嗣改易で松江城明け渡しとなったが 同年 忠高の甥・高和が
祖先の勲功を理由に 播磨龍野藩6万石に封じられ大名に復帰した この時点で隠岐は公儀御料と定められた
寛永15年(1638)信濃松本藩より松平直政が出雲18万6千石で入封 以降 出雲松平家の統治が明治まで続いた
明治4年(1871)廃藩置県 明治8年(1873)廃城令が公布され 天守を除く建造物は4円から5円で払い下げられ
全て撤去された 天守も180円で売却となったが 出雲郡の豪農・勝部本右衛門や元藩士の高木権八らが同額の金を
国に納め買い戻された 明治22年(1889)県知事・籠手田安定によって「松江城天守閣景観維持会」が組織される
昭和2年(1927)所有者の松平家が 天守を含む城地を松江市に寄付し公園として開放された
昭和9年(1934)国の史跡に指定 昭和10年(1935)天守が国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定された
昭和25年(1950)新・文化財保護法により天守が重要文化財に指定 平成27年(2015)天守が国宝に指定された
松江城大手前駐車場に到着したのは午後5時前 駐車場は24時間営業だが昼の営業は19時まで
天守入場は 受付終了午後5時30分 入場時間午後6時まで 松江城山公園の入退制限時間は無い
正式名は 一つ葉田子(ヒトツバタゴ) 学名:Chionanthus retusus Lindl. et Paxton
モクセイ科ヒトツバタゴ属の一種で 自生地は対馬・岐阜県・愛知県の一部などに限定され
上記以外の木は植樹されたもの 名前の由来は 何の木か分からないことから「なんじゃもんじゃ」と呼ばれる


今夜の車中泊は「道の駅 湯の川」 国道9号線で21.6km・約40分の距離
2026.05.11 島根県出雲市小伊津町 小伊津漁港と小伊津海岸
「道の駅 湯の川」から小伊津漁港の小伊津集落へ 15.6km・約30分の距離
小伊津漁港
小伊津漁港は 出雲市の東部・島根半島に位置し 東に坂浦・西に三浦の 2ヶ所の分港を擁する漁港である
特に本港地区は 標高差40m程の谷間に200戸以上の家が 階段状に密集する典型的な漁村集落を形成している
当地区の漁業は 古くから延縄や一本釣漁業が盛んであり かつては対馬・五島列島方面へ約200人にも及ぶ集団で
出稼ぎ出漁を行っていた実績をもつ漁業生産活動の活発な地区である
なかでも 延縄漁業によるアカアマダイは「小伊津のアマダイ」のブランド名で京阪神方面に流通している
出雲地方のジオサイト 小伊津海岸のタービダイト層(砂岩泥岩互層)
小伊津から三津にかけての海岸には 平らな波食棚の磯が広がる この磯は海の方に傾斜した2種類の板状岩石が
重なり合って出来ており 突出た茶色から灰白色の岩盤の窪んだ間に黒色の岩が見える
茶色から灰白色の岩盤は砂岩の地層で 黒色の岩盤は泥岩の地層となり交互に重なり合っている このような地層を
砂岩泥岩互層と呼ぶ 灯台西側の道路脇にある泥岩層の崖から海生貝の化石が見つかっており
この砂岩泥岩互層は 海底に堆積した泥や砂が固まって作られたものと判明している
これらの地層が生成された約1500万年前には 半島一帯が数カ所の海底火山が噴火する深海で 起伏に富んだ
海底になっていた考えられることから 海底で起きた地すべり跡をも見ることが出来る
波食棚の上を歩くと 所々で一定の地層だけが激しく曲がったり千切れていたりするのが見られる これは海底に
堆積していた軟弱な泥や砂の地層が 大地震の震動で揺れたりすべったりした跡である また砂岩の地層を見れば
地層下底部の砂粒は粗いが上に向かって次第に細かくなっている このような現象は 海底斜面上で発生した流れで
砂が浅い海底から深い海底に運ばれたことを示している 地上の崖も海側に傾斜した砂岩泥岩互層から出来ており
海岸に迫る山腹は地層の傾斜とほぼ同じ角度で海中に続く このような地層が斜面と同方向に傾斜しているのを
流れ盤と呼ぶが 流れ盤は崩壊しやすいことから この付近の海岸では昔からときどき崖崩れが起きている
島根大学



島根県出雲市大社町日御碕の高尾山登山口まで移動 28.3km・約45分の距離 高尾山登山の後九州へ帰る







