2026.05.10 鳥取県米子市 旧米子城下町を散歩する
米子に繁栄をもたらした中海は 弓ヶ浜半島(砂州)の成長によって育まれたことは周知の事柄である
半島の殆どは砂によって出来ており 岩盤が露出しているのは 付根部分を除けば神社のある粟島だけである
弓ヶ浜の形成は 大山から流れ出す土砂・日野川河口の堆積・潮流による沖積作用によって形成されたもので
その元となる粟島を含む古弓ヶ浜半島は 約12万年から10万年前に出来たとされ 規模は現半島の半分程であった
古弓ヶ浜半島の上部には 縄文時代早期の堆積物が認められることから 現在の半島は縄文時代以降に
形成されたものと思われ 半島の先端部では 縄文時代から弥生時代の遺跡が発見されている
後に中国山地で盛んとなる「たたら製鉄」による砂鉄採取の「鉄穴流し」が行われ 大量の土砂が日野川を通じ
流され堆積して外浜が形成された 江戸時代には半島中央部を流れる米川用水が築造され綿花の一大産地となった
遡る中世では 伯耆国が中央部に聳える大山によって 西伯・東伯に分け隔てられていた為
西伯の米子は中海に面する安来や松江による出雲地方の経済圏に組み込まれ 東伯の倉吉は因幡国経済圏に包含され
文化的な結びつきも強まり それぞれの風土色に染まった
米子は 日本海・中海・宍道湖を含む海運・日野川の船運・出雲街道・日野往還・伯耆街道などが交差する
要衝として また製鉄・綿花などの産品積み出し港としても栄え 古代から近世まで西伯耆の中心地となった
元和3年(1617)に 伯耆国米子城3万2千石が鳥取藩池田家の預りとなり 以降明治まで2国1藩2城の体制となった
その頃から城下29の小字町を総じて「米子町」と呼ばれるようになり 明治まで踏襲された
明治4年(1871)の廃藩置県により鳥取県の管轄となるが
明治9年(1876)8月 島根県が鳥取県を唐突に合併したことで 以後は鳥取県分離運動が盛況となる
明治12年(1879)行政区画としての会見郡が発足し 郡役所が米子町に設置された
明治14年(1881)9月 鳥取県の管轄に戻される 明治22年(1889)10月 町村制の施行により米子町が発足
明治29年(1896)4月 郡制施行により汗入・会見の2郡を合併し西伯郡が発足して会見郡が廃止された
昭和2年(1927)4月 米子町が市制施行して米子市となり西伯郡を離脱 昭和10年(1935)以降 住吉
車尾・加茂・福米・福生・五千石・大篠津・成実・富益・夜見・巌・春日・尚徳の13村 彦名と崎津村の一部
及び和田・伯仙の2町を合併 平成17年(2005)には淀江町を合併し現在の米子市に至る
城下の町割りは武家地と町人地に分けられ 基本的には外堀が武家地と町人地との境となっていた
当初の町人地は外堀の北側に配置されたことで 商人達は外堀を運河として利用出来た 後には東の堀端にも
町人地が拓かれた 米子の特徴として 城下町の内町と天神町に当たる場所のみ 武家地に町人屋敷が存在し
廻船問屋の後藤家など海運関係の商人が多く住んでいた また鳥取藩本庁は鳥取にあったため
米子城に詰める藩士は少なく 武家地に空地があり田畑が拓かれたのも米子の特徴であった
武士の人口が少ないため一般的な城下町と違い 藩の御用や武家の消費による経済では発展しなかったことから
多くの商家が 運輸や仲買などの流通に従事し栄えたことで 「山陰の大阪」とも呼ばれるほど町人経済が発展し
町人の人口も増加した 明治3年(1870)の調査では 城下米子町の町人屋敷は全体の44.8%に上り
武家屋敷の19.1%を大きく引き離す また人口においても 全人口9258人のうち 士族待遇82人・商人4836人
職人1950人・農民1845人となっており 人口の大半を商人と職人で占るに至った


賀茂神社 天満宮 由緒
社殿によれば 創建は室町時代に遡るとされ旧米子町最古の社である 当鎮座地周辺は戦国時代頃まで
「賀茂の浦」と呼ばれていた また 城山を賀茂三笠山と呼び 町中を貫流する川を賀茂川(現当字は加茂川)と
呼んだのは 全て当神社に因んだものと伝わる かつては賀茂皇大明神と称えていたが 明治の神仏分離令により
賀茂神社と改め 昭和36年(1961)に稲荷神社と天満宮を合祀し 神社名を「賀茂神社 天満宮」と改称した
米子名水「宮水」
古歌に「いにしえゆ 岩間くぐりて 湧く水の 千代にたやさぬ 賀茂の宮水」と詠まれる境内の「古井」は
米子三名水の一つで「宮水」と呼ばれ 上水道が普及するまでは町民に親しまれ 飲料水として売り歩かれていた
この古井には 米子の由来に関する口伝が残されている 昔 賀茂の浦と呼ばれた頃 神社は浜に面しており
漁民の住む集落に湧く真水は貴重なものであった 昔は「米をとぐ」ことを「よなぐ」と言い
古井のことを「よなぐ井」と呼ぶようになった 後に転訛して「よなご井」となった
吉川広家が飯山に城を築き 地名に米子の字を当て「よなご」とした



隣家と接する側は 中塗り・仕上げ塗りが施工できないため内側から押し付けた荒壁が見える
後藤家は、戦国時代末期、石見国から移住し、江戸時代に海運業を営み、藩の米や鉄の回漕の特権を与えられた
回船問屋であった。 後藤家住宅は、主屋の半分に近い面積が土間と板の間であるのが、構造上の特色である。
回船問屋を営んでいたころの広い玄関をもつ主屋は、平屋構造、一部二階建、土蔵造り、切妻屋根で、屋根前面は、
この地方の民家としてはただひとつの本瓦葺になっている。 中庭に面して鶯張りの切目縁がある。
一番蔵は、二階建、桟瓦葺になっている。ともに18世紀の建築である。
明治になって、土間部分などが改造されたが、昭和56年からの修理で旧状に復元された。




米子港と加茂川界隈
「山陰のおおさか」といわれた米子の町の繁栄は、吉川氏の湊山築城に始まり、次いで入府した中村氏の伯耆
18万石の首府整備を基盤としている。 外堀の内側に侍町、外側に町人町を配し、北側の砂丘列には寺町を設けた。
外堀は加茂川を取り込んで中海に至る。 海を介して、はるか海外をも見据えた港湾都市である。
鉄道などの陸運が発達する以前の物流の主体は海運である。 京橋を境に米子港加茂川とに分けられ、
物資は艀(小型の運搬船)に積み替えて城下に運ばれた。 船賃もこの橋を起点に定められた。
米子港に接する灘町・立町・内町・天神町周辺は米子の表玄関として賑わった。
灘町・立町には船番所や魚鳥座(魚市場)、銀札場、国産会所、内町には鉄会所、為替蔵などが置かれ、
竹島(鬱陵島)渡海をした大谷家・村川家の屋敷跡や、当地方屈指の廻船問屋後藤家、豪商鹿島家、
船問屋・船方総支配の判屋船越家などが往時の賑わいを伝えている。
後藤家は、藩米を扱い、大阪や新潟にも店を持ち、松江藩などの御用金の用立てもした。 鹿島家は、幕末、米子城の
四重櫓や石垣修復を請負い、城主由縁の品や公家・文人墨客など上方文化人との交歓を示す文物も伝えている。
社会環境は変わったが、町割りはほとんど変わらない。 通りに面して九つの寺が並ぶ寺町には、
城下町整備に尽力した中村氏執政家老横田内膳の墓所もある。
加茂川沿いの土蔵や石垣、入り組んだ小路に、米子人の精神を辿るのも楽しい。
高齢化と過疎化が 地方都市に押し寄せる現状では空地は増える一方である
天正年間に米子城内に創建された浄昌寺が起源 吉川広家により高砂山付近へ移転された後
米子城下の整備に伴い 宝永4年(1707)に当地に移された
隣地にある浄土宗 珠慶山 凉善寺も 天正年間に米子城内に創建された後 当地に移転している
両寺ともに 寺町ではなく町人地内に移された

外堀端から中ノ棚小路・本教寺小路・妙善寺小路を通り寺町に抜ける
店名の「1801」は 創業した享和元年「西暦1801年」を示し 200年を超える老舗である
貼られている御札は 亡くなった親族の冥福を祈り霊の守護を願うため遺族が貼る紙札である
紙札には 故人の戒名と満年齢の行年が記され 四十九日まで7日ごとに白札を貼り 四十九日には赤札を貼る
「札打ち」と呼ばれるこの風習は 西伯耆から東出雲地方にかけて伝わり 全国的にも珍しいものである


寺町通り
寺町の寺院は、初代城主中村氏の時代から町づくり計画の一つとして、各地から集められたものであるが、
今の寺院が一度にそろったわけではない。 城の北側の砂丘地に建ち並んだ寺は、
一面では城下町防衛のねらいもあった。 幕末や明治維新のころには、実際に寺が武士の宿所にもなった。
東から福厳院、瑞仙寺、安国寺、(以上曹洞宗)、妙善寺、妙興寺、実成寺(以上日蓮宗)、
法蔵寺(曹洞宗)、心光寺(浄土宗)、万福寺(真宗)の九寺の墓地には、米子の発展に尽した武士や町民が祭られ、
この通りは、米子の文化、政治、経済を考えるのに大切な通りとなっている


10:40 三の丸駐車場に戻る
この後は「米子水鳥公園・米子鬼太郎空港・夢みなとタワー・みなと温泉ほのかみ」に行く 温泉予約は15時
時間の余裕は充分ある







