2026.05.09-10 鳥取県米子市/境港市 米子市(よなごし)散歩
米子市久米町 湊山公園 米子城址
米子城は 室町時代の応仁(1467)から文明(1487)年間に 伯耆国の日野および会見郡に勢力を持つ
日野山名一族の山名宗之により 応仁の乱以降に勢力を伸ばす出雲尼子氏に対する牽制策として
飯山(いいのやま)に築かれた砦が始まりと伝わる 文献上では 幕末の文久2年(1862)に成立した松江藩の
『出雲私史』に記される文明2年(1470)の項に初めての記述がみられる
今に続く石垣を備えた城郭は 安土桃山時代の天正19年(1591)に秀吉の命により西伯耆7郡と隠岐一国の
領主となった吉川広家が 月山富田城に入部すると同時に築城を開始したものである
しかし 慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に西軍として参戦し敗れ 完成した城を見ることなく岩国へ転封となった
吉川家文書『戸田幸太夫覚書』には 転封に至るまで7割方作事が進んでいたと記されている
慶長6年(1601)伯耆国17万5千石の領主として 中村一忠が駿河駿府から移封されたが 一忠は11歳と幼く
家康が後見役として一忠の叔父・横田村詮を配して藩政を執行させた 米子城は慶長7年(1602)頃に完成した
慶長13年(1608)には家康から松平姓を与えられたが 慶長14年(1609)5月に急死 中村家は無嫡改易となる
翌年に 会見・汗入6万石の領主として加藤貞泰が美濃から移封され米子城に入った
元和3年(1617)加藤貞泰が伊予大洲へ転封国替え 米子城3万2千石は 同年に因幡鳥取32万5千石に転封となった
池田光政の預かりとなり池田由之が米子城に入ったが 翌年に謀殺された
寛永9年(1632)池田光政が備前岡山藩に転封国替え 代わって池田光仲が備前岡山から因幡鳥取藩へ転封された
米子城は 家老の荒尾成利が1万5千石で預かりとなり城主となった 以降は明治まで荒尾氏預かりが11代続いた
明治2年(1869)荒尾氏から鳥取藩庁へ引き渡され 明治5年(1872)に小倉直人ら士族数名に払い下げとなった
明治6年(1873)には大蔵省管轄となり 建物の大半が売却され数年後に取り壊された
明治25年(1892)頃は 湊山と飯山の北側は荒尾政成 飯山南側と湊山本丸は小倉直人 湊山西面は児島喜平が
それぞれ土地を所有していたが 後の数年間でほぼ全域が坂口平兵衛の所有となった
昭和8年(1933)に坂口家所有の約3万4千坪が米子市に寄付され 昭和9年(1934)には湊山公園整備計画を策定
昭和15年(1940)米子市により湊山公園風致地区が設定された 昭和20年(1945)現・鳥取大学附属病院を設立
その後 県立米子図書館・湊山球場が建設され 昭和32年(1957)には 米子城阯が湊山公園の一画となった
昭和52年(1977)米子城阯・旧小原家長屋門・清洞寺跡が米子市指定文化財となり
平成18年(2006)1月26日に 本丸跡・内膳丸跡・二の丸跡が国の史跡に指定された
米子城 三の丸番所(ビジター センター)内に掲示(上下180度回転)
P.米子城跡 三の丸駐車場 1.米子城 二の丸表御門跡枡形石垣 2.二ノ丸 3.内膳丸跡 4.本丸 天主跡
5.本丸 四重櫓台 6.水手御門跡 7.飯山 采女丸跡 8.湊山公園 9.三の丸・鳥取大学医学部附属病院


枡形虎口(ますがたこぐち)は城の出入口に構築された防御施設である 一度に大勢の敵兵侵入を阻止するため
入口を狭くし 尚且つ直角に曲がる道筋を備え 枡形に滞留する兵士を石垣上部から迎撃するための物である
米子城では表中御門の外側に設けられた 発掘調査によって 石垣の高さが約4mあることが判明した
正面の石垣には巨大な大石が2つ据えられ 城主の威厳と力を示す「鏡石」とされている
二の丸は 湊山北麓にあり 高石垣で囲った2段の郭と枡形虎口で構成され 枡形虎口には冠木門と二重櫓を配した
上段の郭には城主居住の御殿と武器庫・侍部屋など数棟の建物に 24畳の大部屋から2畳の小部屋まで
数十の部屋があった また裏門側には櫓門と多聞櫓があった 現在 御殿跡一帯は市営テニスコートになっている
高石垣と枡形虎口の保存状態は良好であるが その他の建物跡は明確ではないものの 居館の用水であった
御殿井戸が残されている 下段の一角には 外郭にあった小原家の長屋門が移築されている
この長屋門は、市内西町の小原家にあったが、昭和28年米子市に寄贈され現在地に移築し、市立山陰歴史館として
昭和59年まで利用してきた。 小原氏は、米子荒尾家の家臣で禄高120石であった。
建物は、江戸時代中期の建築で、木造瓦葺入母屋造りの平屋建てで、床面積は84平方m余りであった。
大扉の向かって右側に1室、左側に2室あって、その上は一部低い中二階になっている。
市内に現存する唯一の武家建築として貴重である。

標高52mの丸山に築かれた郭で 家老横田内膳正村詮の指図で作事され「内膳丸」と呼ぶ 本丸の守りを強化する
役目を果たした 一の段・二の段の2段階に配置された郭から構成されており 二の段には二重の角櫓と数棟の
武器蔵が置かれていた 内膳丸から本丸へ向けて石垣を設け西の防衛線が築かれたが 多くが崩落埋没し一部が
残存するのみである 現在 二の段郭の角櫓跡付近に東屋が設けられている
大正14年(1925)に地元の有志によって整備されたミニ霊場で 四国八十八ヶ所の全寺から砂を持ち帰り
それぞれの石仏の下に埋められていると伝わる ご利益も本場と同様とされ 枡形虎口の南にある城山大師像が
スタート地点となっている コースには四国八十八ヶ所を模した200体以上の石仏が安置されている

飯山に築かれた独立した郭で 高石垣で3段に築かれ2段目は帯状の郭となっている 最上段の南端に櫓台を配置し
今は戦没者慰霊塔・東屋・トイレが設置されている 石垣は草木に埋没し一部が確認される状態である
背後に大山西麓のホテル Mercure Tottori Daisen Resort & Spa・大山まきばみるくの里・大山弥山
背後に弓ヶ浜海岸の防風林 遠く島根半島東端地蔵崎と美保関を遠望
今日の車中泊は道の駅 あらエッサ 夕食の買出し含め3.6kmで午後8時前には到着
明日は再び米子城三の丸駐車場に車を止めて 旧城下町辺りを散策する







