2012.10.13 長崎県西海市 西海橋と新西海橋
長崎県佐世保市針尾東町 西海橋(さいかいばし)
北の長崎県佐世保市針尾島と南の西海市西彼町間にある針尾瀬戸(伊ノ浦瀬戸)に架かるアーチ鋼道路橋
昭和26年(1951)着工 昭和30年(1955)10月竣工 同年12月1日供用開始
形式:上路式鋼ブレースドリブ固定アーチ橋 橋長:316.26m(アーチ支間:216m) 幅員:7.5m
完成当時は固定アーチ橋としては世界で三番目の長さを誇り東洋一と言われた
西彼杵半島は その北東部にある幅約200mほどの 日本三大急潮のひとつに数えられる針尾瀬戸により
隔てられ 長い間「陸の孤島」と呼ばれていた 戦後針尾島の軍事施設が閉鎖されると伴に 西彼杵半島の
産業振興と開発の促進を目的に針尾瀬戸に架橋し 佐世保市と陸路で結ぶ計画が立案され実行された
当時 国内の橋としては初めての支間長200メートルを超える長大な橋であった
一躍その機能美は戦後復興のシンボルとして また 観光スポットとして広く知られるようになった
架設当初は有料で 午前10時から午後8時まで大型車は500円・普通車が200円の通行料金が徴収され
後に歩行者の通行料10円が設定されたが 昭和45年(1970)にすべて無料化された
同橋の完成により国道202号線が福岡市から長崎市まで繋がり また内海の国道206号線によって
長崎−佐世保間の最短ルートが それまでの大村市経由から西彼杵半島経由となった
新西海橋と西海橋 針尾瀬戸を挟み 北が針尾島 南が西彼杵半島
三本の塔は 太平洋戦争開戦時の真珠湾攻撃の指令「ニイタカヤマノボレ」を発信した針尾送信所無線塔跡


新西海橋は 西海橋の西270mの位置に 同じ針尾瀬戸(伊ノ浦瀬戸)に架かる鋼道路橋である
建設時の仮称は第二西海橋で 平成18年(2006)3月5日に開通した
鋼中路ブレースドリブアーチの主橋部と プレキャストコンクリート製の4径間連続ラーメン箱桁橋の
入江部から構成される 西海パールラインの延長区間の一部で有料の自動車専用道路であるが
桁下に無料の歩道があり展望室もある 展望室の床にはガラス窓があり眼下の渦潮を眺めることができる
全長:620m 主橋部:300m 入江部:320m 幅員:14m
映画「釣りバカ日誌16 浜崎は今日もダメだった♪♪」にて建築中の橋がロケ地に使われた
実際の連結式当日に式典に引き続きロケが敢行され
来賓の金子長崎県知事と光武佐世保市長がそのまま来賓役として登場している
2012.10.14 長崎県西彼杵半島北部 西海市の旅
長崎県西海市
西海市は 西彼杵半島北部の旧西彼杵郡の西彼町・西海町・大島町・崎戸町・大瀬戸町からなり
長崎市と佐世保市との中間に位置し 大島町と崎戸町は 平成11年に開通した大島大橋により本土と結ばれた
半島部の東岸は 波静かな内海の大村湾に 西岸は外海の五島灘・角力灘に面している
崎戸町の江島・平島・大瀬戸町の松島などの離島を有し また 西海国立公園・大村湾県立公園
西彼杵半島県立公園の三つの自然公園に指定され 美しい海岸線など優れた自然景観を有し気候も温暖である
西海市域は 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点では 雪浦・松島・瀬戸・多以良・七釜・崎戸
平島・面高・黒瀬・横瀬・川内・大串・下岳・亀浦の15村で肥前大村藩の領地であった
この全域が 廃藩置県を経て明治4年(1871)に長崎県の管轄となった 明治11年(1878)に彼杵郡が分割され
行政区としての西彼杵郡が発足しその管轄内となった 明治22年(1889)の町村制施行によって横瀬と川内
及び亀浦と下岳がそれぞれ合併し 瀬川村・亀岳村となって15村から13村となった
昭和3年(1928)瀬戸村が瀬戸町に 昭和6年(1931)には崎戸村が崎戸町となる
昭和24年(1949)黒瀬村が大島町に 昭和30年(1955)瀬戸・多以良・雪浦・松島の1町3村で大瀬戸町が発足
同年 面高村・七釜村が合併して西海村が発足 昭和31年(1956)崎戸町に江島・平島の2村を編入
昭和32年(1957)西海村に瀬川村を編入 昭和36年(1961)には亀岳・大串村が合併し西彼村が発足
昭和44年(1969)町制施行で 西彼村が西彼町に 西海村が西海町となった
平成17年(2005)西彼・西海・大島・崎戸・大瀬戸の5町が合併して西海市が発足 大瀬戸町役場を市役所とした
長崎県西海市西海町横瀬郷 石原岳堡塁
記録によると この堡塁は 佐世保鎮守府防衛のため 明治30年(1897)10月21日に起工し
明治32年(1899)12月31日に竣工したもので 全面積は約2ha(20000平方m)ある
標高73mから77mの丘に備えられた砲種は クルッブル式10センチカノン砲6門 鋼製9センチ臼砲4門で
砲座数は7基となっていた 後の昭和4年(1929)6月14日に 陸軍の台帳から全部が除籍され廃止となった
長崎県西海市西海町横瀬郷 横瀬浦
歴史に「もし」があったなら ここが長崎だった
永禄5年(1562)平戸から追放されたポルトガルのイエズス会を 大村純忠が横瀬浦を開港して誘致したことで
この地は布教の本拠地・交易地となり 丘には教会が建てられ 周辺には繁華街が立ち並び多くの人々で賑わった
この様子は 『日本史』の執筆で有名な ポルトガル人宣教師のルイス・フロイスによって克明に記されている
しかし 永禄6年(1563年)大村家嗣子の座を奪われた後藤貴明によって夜襲を受け 街が焼き払われてしまった
もしそのまま街の繁栄が続いていたならば 横瀬浦が後の長崎のようになった可能性が大きいとされる由縁である
布教長トルレス は この港を「御助けの聖母の港」と命名 貿易と信仰の村をまたたく間に作り上げた
大村純忠は 幾度となく横瀬浦を訪れ 自らも重臣25名とともに洗礼を受け 日本初のキリシタン大名となった
しかし 港は翌年に焼き払われ わずか2年足らずでその歴史を終えた 永禄8年(1565)大村純忠の要請によって
隈氏が支配する福田浦(長崎市小浦町・大浜町)を横瀬浦に代えて開港し 元亀元年(1570)には
純忠によって長崎が開港され 以降 当時は寒村にすぎなかった長崎が良港として発展することとなった
佐世保湾内の横瀬浦は 長崎におけるキリシタン文化発祥の地として
今でも 往時をしのばせる天主堂跡大村館跡 南蛮船来航の記念碑などの史跡が点在している
昭和37年(1962)に復元したもので 横瀬浦のはなやかな歴史を物語るように 各所にその史跡が見られる
今よりもっと深かった入江には 船つぎ跡が残っている石垣のあたり一帯がそれであり
上町・下町の名称が残り 当時の面影を伝えています。
長崎県西海市西海町太田和郷 標高 306.6mの虚空蔵山
虚空蔵山 展望台は 文化財の「猪垣」をモチーフとして地元産出の結晶片岩で作られた360度の展望台
「猪垣」とは 猪や鹿などの食害から田畑の作物を守るために築かれた石垣である
一般的に「ししがき」と呼ばれているが地域によっては「いがき」「いのがき」などの呼び名もある
ここ西海市西海町中浦北郷字木場に所在する玄武岩の一つに幅約10cm角 深さ2mm程で 2行にわたり
「享保七□寅年に(□は剥げ落ちて判読できない部分)と刻まれた年号が認められる
享保七年(1722)の干支は壬寅であり □には「壬」が刻まれていたと推測されている
長崎県西海市西海町中浦南郷 伊佐ノ浦公園
伊佐ノ浦ダムは 昭和62年(1987)完成の灌漑用農業ダムで 総貯水容量:187万立法メートル
灌漑面積:西海町域の畑地約500ヘクタール 平成10年(1998)に伊佐ノ浦公園を設立・営業開始
長崎県西海市大瀬戸町雪浦河通郷 やすらぎ交流拠点施設 音浴博物館
創始者 栗原榮一郎氏(出生:昭和22年6月福岡県−平成17年5月永眠享年58歳)が 岡山市でレコードや
古い音響機器を集めて開業していたが きわめて私的な施設であった 当時借りていた倉庫が取り壊される
ことから 移転先を探してインターネットで全国の自治体に場所の提供を呼びかけたところ
3日後に長崎県庁から返事があり 早速用意された3か所を視察した結果 現在の場所に決定した
2000年11月に 10トントラック4台分の所蔵品を岡山から長崎に移送し 翌2001年4月に音浴博物館を開館
現在 SPレコードが約1万枚 LP盤・EP盤など15万枚が所蔵されているが この場所を知った人の中から
数十枚単位で寄贈されて今も増え続けている エジソンが発明した蝋管式蓄音機・再生装置はじめ
1世紀以上経った演奏機 レコード SP盤などを演奏し視聴することができる施設で 貴重なスピーカーなどでも
聴くことができる 栗原榮一郎氏の意思による博物館の基本的なコンセプトの1つが その名が表わすように
「音を浴びる」=「実際にスピーカーで再生し空気を通じて全身で音楽を感じる」と言うことである
JBL・タンノイをはじめ高級スピーカーも実際に鳴らすことができる 特に1950年代の名機の一つ
「ビクターオーディオラ」は 世界遺産級と称える人がいるほど公共の場で視聴できるところは少ない逸品である
エルヴィス・プレスリーが、ハウンドドッグのレコーディングモニターとして使った写真も残っている
館内は昭和が凝縮された空間で 音及び映像のアナログ機器がぎっしり詰まった癒やしの場である








