昭和40年代の泉州・堺

泉州とは 律令時代の畿内和泉国に当たる地域で 大阪平野の南西に位置し北に摂津国・東を河内国
南は和泉山脈を国境として南海道の紀伊国に接するが 西側はすべて大阪湾に面している

江戸時代まで大鳥郡1町90村・和泉郡85村・南郡3町71村・日根郡77村があった 幕府直轄地は2町143村
岸和田藩2町99村・和泉伯太藩16村・和泉吉見藩8村の他は 他国藩の飛び地が55村 寺社地が1村あった

摂津国や河内国との国境は 旧堺町の大小路・大小路筋・竹野内街道・西高野街道などが相当する
明治4年(1871)摂津・和泉の境界を江戸時代に開削された大和川の中央部に変更し
摂津・住吉郡のうち 大和川以南の部分を和泉・大鳥郡へ編入した

明治29年(1896)新たに泉北・泉南の2郡に統合 大鳥・和泉郡を泉北郡に南・日根郡を泉南郡に統合した


昭和45年(1970)4月 旧堺港

古代では やや南に位置する石津川の河口が船着き場であったとされ 中世以降に堺湊が注目され始めるのは
南北朝時代に南朝方の軍港となり 湊の争奪戦が繰り広げられてからである その頃にはすでに漁港として栄え
京の都や奈良の春日大社に「茅渟(ちぬ)の海」と呼ばれた大阪湾の魚介類を供給する湊であった
この時代まで 今日まで続く「堺大魚夜市」のルーツは遡ると考えられている

室町時代の応仁3年(1469)に 幕府の遣明船と細川氏の遣明交易船が
帰国時には応仁の乱の戦禍を避けるため瀬戸内を航行せず 土佐沖を迂回して兵庫ではなく堺に着岸したことが
後に堺が海外交易港として繁栄をする契機となった

当時 明国や琉球国との交易では 生糸・絹織物・綿・さらさ・陶磁器・香料・薬種などが取引され
通貨は金銀の他 中国・朝鮮・ベトナム・琉球などが発行する銅貨も使われた
室町幕府は銅貨を一切発行せず 中国銭を輸入して流通させていたとするのが従来の説であったが
近年 堺や京の商人らが摸鋳銭を鋳造し流通させていたことが明らかになってきた

やがて ヨーロッパのポルトガル船やスペイン船が日本に来航し貿易を始めた
天文12年(1543)に種子島に伝来した火縄銃が堺で大量生産され 戦国時代の戦いを一変させた
町は10人の会合衆によって収められ 堀を巡らした豊かな自治都市として世界的に名を馳せた

信長や秀吉に資金的なバックアップを行い 戦国時代においても繁栄は維持されたが 大坂夏の陣では大坂方に
市街を焼き払われが灰燼に帰した 後に徳川幕府によって天領として復興され 鎖国下でも菱垣廻船によって
上方と江戸を結ぶ太平洋航路で酒などを運搬した しかし宝永元年(1704)の大和川付け替えによって
土砂が流入し著しく港湾機能を損ねるようになり 度々浚渫工事を行ったが港としては衰退の一途を歩んだ

img imgimg
旧堺灯台 現存する最古の木製洋式灯台のひとつ
明治10年(1877)初点灯 昭和43年(1968)1月30日消灯・廃止 昭和47年(1972)7月12日に国の史跡に指定
灯台の基礎は石工の継国真吉が 六角形の木造灯台部は大工の大眉佐太郎の手によって建造された
灯台は 旧堺港の南波止場突端にある この南波止場は 江戸・浅草の商人吉川俵右衛門が私財を投じ
寛政元年(1790)から文化7年(1810)まで 20年の歳月をかけて修築整備したものである
imgimg imgimg img
旧堺港の外海 堺泉北港
img
堺市堺区 大正9年竣工 大阪刑務所正門
imgimg
大阪刑務所の塀と監視所
三国ヶ丘 方違神社
imgimg imgimg

昭和45年(1970)4月 堺市堺区北三国ヶ丘町 方違神社(ほうちがいじんじゃ)
方位を起因とする厄禍除神社として信仰を集め 市内及び近郊の地鎮祭を執り行う神社として有名である
主祭神は方違幸大神(かたたがえさちおおかみ) 境内に三国丘(みくにがおか)の碑がある
三国とは摂津国・河内国・和泉国のことで この丘から三国を見渡すことが出来た


昭和45年(1970) 大阪府堺市堺区南旅篭町 臨済宗大徳寺派 龍興山 南宗寺
室町時代の大永6年(1526)に臨済宗の僧・古嶽宗亘が堺南荘にあった庵を南宗庵と名付けたことが始まり
弘治3年(1557)河内飯盛山城主の三好長慶が開基主となって 父・元長の菩提を弔うべく三代目庵主の
大林宗套に開山を依頼し南宗庵をもとに南宗寺を創建した 創建当時の所在地は宿院町付近とされる
その後当寺では茶人の千利休らが修行をしたほか 堺の町衆文化の発展に寄与した寺院でもあった
慶長20年(1615)の大坂夏の陣で 豊臣方の堺焼き討ちで焼失 元和5年(1619)に当時の住職であった
沢庵宗彭によって現在の場所に移されて再興された

imgimg imgimg imgimg img
千利休の墓所
imgimg
茶道の祖 武野 紹鷗の墓
南宗寺茶室
imgimg imgimg
徳川家康の墓(伝承)
歴代堺奉行の墓

昭和45年(1970)7月 堺泉北臨海工業地帯
高度経済成長期のまっただ中 昭和32年(1957)から昭和41年(1966)まで堺の沿岸部が
昭和36年(1961)から昭和47年(1972)までは高石・泉大津の沿岸部が埋立され 計1711.4haの工業用地が
造成された 同時に堺・大津港の港湾設備も増強され 昭和44年(1969)には統合されて堺泉北港になった

港は企業専用埠頭が約8割を占め 輸入された原材料を加工して輸出するコンビナートとして機能した
製鐵所や造船・三井東圧化学・丸善石油などの重化学工業の他 電力・ガスのエネルギー企業などがひしめき
繊維・金属・機械工業の中小企業が中心であった阪神工業地帯の 産業規模の拡大に寄与し
高度経済成長期の大阪・関西経済を牽引した一方で この工業地帯の造成によって漁業は壊滅状態となり
大浜・浜寺・高師浜・助松などの海水浴場や 白砂青松で知られた自然海浜の喪失による失意も多大であった
浜寺水路と浜寺公園の保存は 石油コンビナートの安全対策の他に この失意への微小な対処でもあった
また 府南部で頻発した光化学スモッグとの因果関係については 明確な可否を引出す事はなかった

昭和48年(1973)のオイルショックによって高度経済成長時代は終焉を迎え 重化学工業は徐々に衰退した
製品出荷額は平成2年(1990)をピークに低下し 域内に遊休地が目立つようになった
平成4年(1992)の大阪湾臨海地域開発整備法の成立を受け 大阪府は大阪湾臨海地域整備計画を策定した

img imgimg
約3km離れた富木の自宅から見た臨海工業地帯 高度成長期に入って「公害」が取沙汰され始めた
imgimg
建設中の石油コンビナート
大阪ガスのガスタンク
imgimg img
埋立地の人工排水池 子供が遊べる浜辺は失われた
imgimg

昭和44年(1969)7月 大阪府営 浜寺公園遊泳場
浜寺公園が進駐軍から返還されたのは昭和33年(1958)で それまで花火大会が開催される時は仮設の木道を通り
緑と白に塗装された洋館の軍宿舎を横目に公園内を縦断して浜辺に向かった
昭和37年(1962)から臨海工業地帯の埋立工事が始まり 浜寺海水浴場を中心に南北に連なる海水浴場は全て廃止
白砂青松の自然海岸も消失してしまった 泉北臨海工業地帯の造成を推進する府は 海水浴場の代替えとして
海水浴場の浜辺跡地を埋め立てたその場所に プール建設を計画し
昭和38年(1963)6月 遠浅の海をイメージした巨大変形プールをはじめとする大小7つのプール群を完成させた
その規模は東洋一と言われ プール自体がまだ珍しく大盛況となり 初年度の開場期間に50万人超の府民が訪れた

img imgimgimg

昭和45年(1970)7月 放置された浜小屋と木造漁船
沿海漁業の船は 堺市出島の船溜りと小島漁港・堺港の小型船溜りを利用する以外は ほとんどが海浜地や
砂防波止・河口などを船置場とした 現在は臨海工業地帯の埋立地にある出島・石津・高石漁港に係留されている
海浜の埋め立てによって 堺名物として珍重されたアナゴなどの漁獲数が激減し 漁業従事者自体も激減している


昭和46年1月 石津の風車
大正時代にオランダの風車をヒントに考案された灌漑用の風車は 昭和10年頃から昭和25年頃まで堺泉南地域に
普及し 昭和40年(1965)頃まで 石津地区を中心とした海岸線一帯に400基近くが林立していた
石津地区は明治時代より綿業綿花栽培が盛んであったが 大正初期より安価な輸入綿に押され 栽培地は
野菜畑へと切替えられたが ミツバ・ホウレンソウやキクナの栽培には大量の水が必要なうえ 海浜地区特有の
砂質土壌のため潅水が大変であった 大正後期に地元の和田忠雄・高野長次郎の両氏が
すでに普及していた鋳鉄製の手動ポンプを 自動で動かす風車を考案し農鍛冶の中尾正治氏が製作した
当初は風向が固定式であったが 自動風向調整型が考案され「石津の風車」と呼ばれるようになった
その後 1960年代前半には動力ポンプによる新しい灌漑設備が導入され始め 風車は急激に減少し始めた
さらに昭和41年(1966)には 堺臨海工業地帯の造成に伴い地下水位低下に対する補償事業として
「石津・湊用水対策事業」が実施され 深井戸からポンプ揚水しパイプラインで配水する灌漑網の整備が始まり
石津の風車はさらに減少を加速させ 2004年頃に最後の1基が廃棄されたと見られている
現在 服部緑地の日本民家集落博物館に1基が保存され 地元の小学校などにレプリカが作られている

img imgimg imgimg
南海電鉄堺駅の凸電 ED5122と風車
南海電鉄堺変電所と風車
imgimg

和泉市
律令制「和泉国」の中心地となる和泉府中町の名は ここに国府があったことに由来する

もとは「泉」であったが 和銅6年(713)に 国名や郡名を二字とする政令が定められ「和泉」とした
霊亀2年(716)に河内国から和泉郡・日根郡・大鳥郡を割き 和泉監(いずみのげん)が建てられた
天平12年(740)和泉監を廃止し再び河内国になったが 天平宝字元年(757)に再度分離し和泉国となった
立国時の郡は 大鳥郡・和泉郡・日根郡であったが 13世紀頃に和泉郡より南郡が分割された

明治4年(1871)に摂津国との境界が 長尾街道筋(堺から東へ二上山の北・田尻峠越えで葛城の長尾神社
に至る道筋)から大和川に変更された 明治29年(1896)の郡制施行により 泉北郡と泉南郡に収束した

昭和41年(1966) 黒鳥山公園・陸上自衛隊信太山演習場
信太山丘陵一帯は 江戸時代には聖神社境内として同神社によって管理されていたが 明治5年(1873)には
大砲射的場が設置され信太山陸軍演習場となった 第二次世界大戦後は進駐軍のキャンプ地及び演習地となった
昭和32年(1957)の米軍撤収後に陸上自衛隊信太山駐屯地が開設されその演習場となった
泉北ニュータウンは  昭和40年(1965)に着工され 昭和42年には「まちびらき」の式典が開催された
開発面積は約1557haで 堺市が97%を占め和泉市は3%であった 和泉市の自衛隊演習場の一部も含まれ
計画戸数は約5万4千戸で 約18万人の人口を目指した

img
黒鳥山公園から南側 和泉山脈
img
img
陸上自衛隊信太山演習場
黒鳥山公園から西側 大阪湾と淡路島を遠望
imgimg
信太山丘陵と毎日放送ラジオアンテナ
信太山の溜池

昭和44年(1969)6月 光明池
昭和11年(1936)灌漑用として築造された 水深は最大約20mあり満水貯水量は約370万立方mで府下一番
満水面積は約36ha 岸和田市の久米田池 大阪狭山市の狭山池に次ぐ広さである
最盛期には約1700haの水田灌漑を担った 槇尾山を水源とする槇尾川の浄福寺堰から取水している

浄福寺には光明皇后誕生の伝説があることから 光明池と名づけられた

imgimg imgimgimg

昭和44年(1969)9月7日 大阪府和泉市槇尾山町 側川渓
側川は 大津川水系・槇尾川の支流・父鬼川上流域のそのまた支流となる 源流は槇尾山南麓
南海バス・槇尾線終点の槇尾山バス停から南へ分け入る

imgimg imgimg imgimg imgimg imgimg imgimgimg imgimg imgimg

昭和44年(1969)6月 大阪府泉南郡岬町 淡輪漁港
大阪府最南端の岬町にある漁港 今でも釣り人のメッカである 淡輪の地名由来としては「日本書紀」の
第21代雄略天皇9年3月の段に「新羅を攻める際、病没した紀小弓が「田身輪村」に葬られた」とあり
この田身輪村(たむわむら)が淡輪地名の由来と考えられている 平安時代には淡輪庄とあり
淡輪氏という豪族が居住していた 時代を少し下った「信長記」には「丹和や谷之輪口」が記載され
太閤検地によって淡輪村が確立されたと伝わる この辺りでは大阪湾の水も澄んでいた

imgimg imgimg

石のゴロゴロした淡輪の海岸では潮干狩りも出来た

imgimg imgimg
淡輪漁港の突堤
国道26号線 淡輪橋

昭和44年(1969)6月 みさき公園
南海電気鉄道が創業70周年記念事業として昭和32年(1957)4月1日に開業した
遊園地・動物園・水族館・夏季限定の屋外大型プールを擁する複合型レジャー施設であった
令和2年(2020)3月31日で動物園・水族館の営業を終了 4月1日付で敷地と建物・施設の所有権を
岬町に無償で譲渡した 岬町は 譲渡を受けた敷地を町立の自然公園に転換し
翌年7月1日から「岬町立みさき公園」として先行開園を実施している

imgimg imgimg imgimg imgimg imgimg

奈良県御所市高天 金剛山(こんごうさん)
金剛山は奈良県と大阪府との境界にある金剛山地の主峰である 古くは高間山(高天山=たかまやま)や
葛城嶺(かづらきのみね)と呼ばれた 標高1125mの山頂は奈良県側の葛木神社神域にあり禁足地となるため
標高1078.7mの国見城跡広場が山頂とされている 三角点は南東側に位置する標高1112mの湧出岳にある
登山口の多くは大阪府南河内郡千早赤阪村にあり 南海高野線の河内長野駅から小深までバスを利用するのが
通常であったが 昭和41年(1966)に千早赤阪村営の金剛山ロープウェイが開通しアクセスが気軽になった

昭和41年(1966)1月1日 金剛山・越年初詣登山
高校3年生の冬休みに大晦日から元旦にかけて金剛山に登る 初めての越年登山焚火をするだけで終わったが
これより数年越年登山が続き 大鍋と餅を担いで山上で雑煮を作るようになった 勿論丸餅の味噌雑煮である

imgimg img
山頂の樹氷と他校女子を交えて記念撮影
高校生集団は焚き火するしか能は無し

昭和43年 (1968)1月 社内レク 千早赤阪村-伏見峠-金剛山へ
金剛ロープウェイ開通後の乗合バス終点ロープウェイ前バス停から林道を登り伏見峠へ 峠から湧出岳を経て
金剛山頂へ至る 現在のダイヤモンドトレイルコースである

imgimg
伏見峠へ向かう雪の林道
急坂のアイスバーンで足が滑る
imgimg imgimg
雨靴で登山する人も
伏見峠から奈良県側 吉野と宇陀の山々
imgimg imgimg imgimg imgimg imgimg imgimg
北側に大阪府の最高峰 標高959.2mの大和葛城山
このメンバーでの金剛登山に記憶が無い

昭和43年(1968)6月9日 社内レク 大阪府貝塚市蕎原 和泉葛城山
大阪府と和歌山県の境にある和泉山脈の一峰で標高は858mを有す 和歌山県側から山頂へは 2001年に竣工した
紀泉高原スカイライン(林道紀泉高原線)が通じている 登山口は大阪府側に 牛滝・塔原・蕎原(そぶら)の
3ルートがあり 全て林道を利用するコースとなっている 山頂には古い社が背中合わせに2社鎮座しており
「八大龍王社」と呼ばれているが 正式には大阪側が高龗(たかおがみ)神社 和歌山側が八大龍王社である

imgimg imgimg imgimg img imgimg imgimg imgimg imgimg

昭和40年(1965)10月 / 昭和41年(1966)2月 母校の府立工業高校 機械科第一期生

imgimg
2階が正面玄関ホール
正面階段とエントランス
imgimg imgimg
卒業式目指して工事中の体育館
通用門から校庭への通路
imgimg
機械科実習工場 旋盤
機械科実習工場 ラジアルボール盤
imgimg
ラジアルボール盤
工作機械の基本 旋盤
imgimg
無段変速旋盤
形削り盤
imgimg
平面研削盤 万能フライス盤
実習工場で卒業前の記念撮影
img
旋盤実習
imgimg
 TOP